第35話 第2部 その25

 パーン!

 チューン!

 雪華の足元に弾が撃ち込まれた。

 雪華は横っ飛びに、雪に覆われた笹ヤブの中へ飛び込んだ。

 遅れてふみもその中へ飛び込んで来る。

 そこは、峠から日本海側へ下ってゆく方向の傍らであった。

 笹ヤブの中から、雪華はそろそろと顔を出し、辺りをうかがう。

 道はそこからしばらく尾根づたいになっているようだ。

「だめだ」雪華は云った。「この道を行くんじゃ、狙ってくれって云ってるようなもんだ。…他に道はないの?」

 ふみは首を横に振ったが、

「でも…」

 と何か云いかけた。

「でも何?」

「この道の下に沢がある」ふみは下を指しつつ云った。「それをずっとたどって行くと、私の故郷の村に着く。でも、道なんてない。氷のように冷たい川ン中を行くしかないんだよ」

「…じゃあ、それで行こう」

「えっ、でも凍え死んでしまうよ」

「ここで撃たれて死ぬのと、凍え死ぬのと、どっちがマシだと思う?」

 雪華はニヤッと笑い、ふみは黙り込んだ。



 雪華とふみは、転がるように斜面を下り始める。

 初めは笹ヤブであったが、すぐにそれは灌木に変わった。

 雪に足を滑らせ、木々にぶつかりつつ、またしがみつきつつ、二人は下へ下りてゆく。

 そして灌木は、次第に喬木へと変わってゆく。

 敵は、撃って来ない。

 二人を見失ったのか、それとも様子を見ているだけなのか…。

 それはわからないが、ともかくこの間に少しでも距離を稼ぐ必要がある。

 とは云え…。

 どのくらい下れば沢に至るのか、わからない。

 わからないが、ともかく闇雲にでも、がむしゃらにでも、下ってゆくしかない。

 と…。

「きゃあッ!」

 突如雪華の背後でふみの悲鳴が響く。

 雪華の真横をふみが転がり落ちてゆく。

 同時に、喬木の間に積もった雪が崩れて、小規模な雪崩となった。

 雪華はとっさに、傍らの木にしがみつく。

「ふみッ!」

 雪華は叫んだが、ふみの返事はなく、雪と共にごろごろ転がり落ちてゆくのだけが見える。

 バシャ…ッ!

 音がした。

 バシャッ?

 雪華は木から離れると、ふみが滑り落ちていったあとを、滑り下りてゆく。

 崩れ落ちた雪が、沢を埋めていた。

 ふみの姿はない。

 その雪の中に、埋もれているようだ。

 沢の水が雪にせき止められて、溜まり始めている。

 まるで餌を探す冬の獣のように、雪華は雪を掘り返す。

 溜まっていた沢の水が、溢れて流れ出して来た。

 水はどんどん雪を削ってゆく。

 すると、雪の間から雪蓑の端が見えて来た。

 雪華はさらに掘り、脚が見えて来ると、ぐいぐいと引っ張った。

 ズボッ!とふみが引っこ抜けた。

 雪華は沢の中に尻もちをついた。

 雪華は慌てて立ち上がる。

 水は、凍っていないのが不思議なくらい、冷たい。

 雪の上にうつ伏せにのびているふみを雪華は抱き起こし、その顔に二三発ビンタをくれる。

 だが、ふみは目覚めない。

 雪華は沢の水を掌に汲み、それをふみの顔の上にかけた。

 パッ!と目覚めたふみは、ブルッと顔を振った。



 空はまた次第に、重苦しいいろになって来ている。

 その下を、冷え切った沢の流れを踏みながら、雪華とふみが行く。

 雪の中以上に、体温が奪われてゆく感じであった。

 二人とも、喋らない。

 敵を用心して…と云うより、そもそも喋る気力が起きない。

 沢は、当然であるが、どんどん下ってゆく。 

 流れ以外は雪を被っており、ヘタに足を踏み入れると、どうなってしまうかわからない。

 二人とも、たびたび滑りかけた。

 そしてついに…。

 再び、白いものが天から舞い降り始めたのである。

 しかし、二人が立ち止まったのは、そのせいではない。

「…あんた、これを知らなかったのかい?」

 雪華がギロリとふみを見る。

「…ごめん。これのこと、忘れてたんだよ…」

 ふみが雪華に手を合わせて云う。

 二人の眼前で、沢の流れが消えていた。

 滝なのである。

 流れは下に向かって落ち、滝音の轟きが立ち昇って来る。

 雪華はそっと下をのぞき込む。

 高さ20メートル以上はある、かなり大きな滝である。

 両脇は遥か高く切り立っており、もはや白く煙っていて見えない。

「…滝は、この先まだあるのかい?」

 雪華が訊いた、その時である。

 パーン!

 発砲音が山間に炸裂し、

 チューン!

 雪華の足元の沢の水が水柱を上げた。

 ハッとして振り向いた雪華は、この時ようやく気付いた。

 そうか、連中はこれを目印に撃って来ているんだ。

 これとは、ふみの着ている赤のどてら…。

 白い雪の中でも、これなら目立つ。

 パーン!

 再び発砲音が炸裂する。

 雪華がぐらり、よろめいた。

「アッ…」

 ふみが雪華を慌てて抱きすくめるが…。

「キャアッ…!」

 ふみもまたバランスを失って、雪華もろとも、滝の下へと、落ちていった。

 ひゅうううううーッ。

 ドッポーン!

 盛大な水柱が上がって、雪華とふみは、滝壺へと落ちたのだった。



「ブハッ!」

 ふみが水面に顔を出す。

 ふみは、雪華を抱えている。

 滝壺の傍らには、わずかばかりの岸辺がある。

 岸辺といっても、岩場であるのだが…。

 ふみはやっとこさ、雪華の身体をそこに引き上げた。

 雪華は気を失っている。

 唇は、真紫になっている。

 ふみは、雪華の頬を二三度叩いたが…。

 反応はない。

 ふみは雪華の蒼ざめた美しい顔をじっと見やっていたが…。

 その唇に唇を重ねると、つと立ち上がり、踵を返し、立ち去っていった。



 その頃…。

 その沢の遥か下流の上空を、橘藤が操縦する飛行機が飛んでいる。

 もっとも、橘藤は雪華たちの姿は云うまでもなく、長岡駐屯地を発した部隊の姿さえも、いまだ見つけられてはいなかった。

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