第34話 第2部 その24

「どうしたの…?」

 ふみがうっとりしたまなざしで、甘ったれたような口調で云った。

 雪華が不意に身を起こしたからである。

 狭い岩屋の中は、ムッとするような女二人の、爛れた体臭と熱気に、満たされている。

「さあ、着物を着な」雪華は突き放すような口調で云った。「出発するよ」

「えっ」ふみは驚く。「だってまだこんなに暗い…」

「もう夜は明けるよ。ほんのり明るくなって来てるじゃないか。…あんたのじいちゃんの所に、急がなきゃいけないんだろう?」

 雪華にそう云われて、ふみは慌てて着物を着始める。



 入口を塞いでいた雪を突き崩して表へ出ると、確かに空はほんのり明るくなって来ているのだった。

 空気は肌を刺すように冷たいが、昨日のあの重苦しい雲が嘘のように消え去って、晴れ渡っている。

 ぶるるっ、と身を震わせていたふみが、名残り惜しそうに岩屋の方を見やった。

 そして、ニヤッと笑った。

「ねえ、見て」ふみは云った。「その口、あそこに似てるよ」

 雪華は怪訝な顔をしてふみの云う方を見た。

 すぐには何のことかわからなかったが…。

 なるほど、やがてわかった。

 岩屋の入口は、縦長に細く、切り裂かれたようにパックリ、崖に口を開いているのだったが…。

 それが女陰の形に見えなくもない。

 呆れて振り返った雪華に、ふみがしなだれかかって来た。

 雪華の唇に、ふみが唇を押し付ける。

 しかし雪華が反応しないので、ふみはハッとして身を引いた。

「じいちゃんが殺されるかも知れないんだろ?」雪華は冷たく云った。「またやったら、今度こそ本当に谷底へ突き落とすよ」

 ふみは決まり悪そうな顔で、シュンとしてしまった。

 雪華は構わず続ける。

ひるになるまでに清水峠を越える。へこたれずに、頑張って歩くんだ。行くよ」



 足跡も轍もまったく付いていない、まっさらな雪が降り積もったままの道が、どこまでも果てしなく続いているのだった。

 上下に崖があるから、かろうじてそこが道なのだとわかるのであって、これが平坦な場所だったら、おそらくその判別は出来まい。

 雪は膝下あたりまで積もっている。

 昨日ほどではないが、歩くにつれ、足から脚へと、冷えが伝わって来る。

 先にも述べているように、道は山の中腹を這うように続いている。

 長いトンネルを掘ったり、大きな橋を架けたりする充分な時間も技術も、この道を完成させた当時にはなかったので、自然の形に逆らわず、道は進んでいる。

 そのため、時には幾重のつづら折れになっていたり、深く切れ込んだ谷をぐるりと巡ってゆくような所がいくつもあるのだった。

 谷の向こう側に、これから行く先の道が見えることなど、しょっちゅうである。

「あそこへ飛ぶことは出来ないの?」

 とうとうふみが、うんざりしたように云った。

「無理」即座に雪華は云った。「私だけならともかく、あんたがいたんじゃねえ」

「昨日は私を抱えて飛んだじゃないか」

 となおもふみが云うと、

「あの場合は、突き落とされたあんたにも勢いがついてるから、その反動を利用して何とかなるけど、ここからあんたを抱えて飛ぶのは出来ないよ」

 と雪華は云う。

「ただし」雪華は続ける。「ここであんたを突き落とすなら、もしかしたら何とかなるかもね。でも、あんたを上手く抱き止められるかどうかはわからない。あんただけお陀仏って可能性は高いけど、それでも良ければ試してみるかい?」

 ふみはふくれっ面をして黙り込んだ。



 道は突然、峰々の上に出た。

 眺望が、遥かに開けた。

 右手はよく晴れていた。

 そちらは、関東側である。

 左手は、鉛色の雲に覆われていたが、さらにその向こうは、晴れているようであった。

 そちらが、これから二人が向かう日本海側であった。

 眺望は良くなったが、風が厳しくなった。

 二人で支え合わないと、吹き飛ばされそうだ。

 ぴったりくっついて、歩かざるを得なかった。

 ふみは、ここぞとばかりに身体を寄せて来る。

 雪華も仕方ないので、ふみのするままにしておく。

 歩きにくいが、それも仕方ない。

 そして、雪に代わって冷風が、体温と体力を、さらに奪ってゆく。

 だが、ふみが身体を寄せて来ているせい…いやおかげで、いくぶんかは温かくもある。

 そんな調子で、しばらく二人は、寒風吹きつける尾根の上を、とぼとぼと歩き続けたのである。

 やがて…。

「アッ…」

 ふみが小さく呟いて、前方を指した。

 雪華もその方を見た。

 尾根の上に、家が建っていた。

 いや、家と呼ぶには小さい。

 小屋、と呼んだ方が良い。

「あそこが清水峠だ」ふみが云った。「あれは峠の茶屋だよ」



 しかしその小屋…峠の茶屋に、人の気配はなかった。

 間近で見ると、それはいっそうみすぼらしい苫屋なのであった。

 それはもはや朽ち果てかけ始めている。

 小屋の傍らには、これも朽ち果てかけた、打ち捨てられた乗合馬車が一台。

 もちろん、馬の姿などはない。

 まったく人の気配のない雪の山上において、このわずかな人の生活の痕跡は、かえって風景を荒涼とさせている。

 ふみは、雪華からパッと離れて、小屋の方へ駆け寄って行った。

 小屋の中に入って、ふみは物色していたが…。

「ちきしょう!何もない!」

 と不満顔で叫んだ。

 その時である。

「伏せろ!」

 雪華が叫んで素早く身を屈めたのと、

 パーン!

 乾いた発砲音が響いたのと、

 チーン!

 身を屈めた雪華のわずか1メートルほど先に弾が当たったのが、同時であった。

 発砲音が幾重もの重唱カノンとなって虚空に消えてゆく。

 即座に雪華はダッシュして、小屋に駆け込む。

 また、パーン!

 そして、チーン!

 今度は小屋の柱に当たった。

 小屋の中で立ちすくんでいるふみを、雪華は丸め込むようにして、共に伏せる。

 小屋の中から雪華は周囲をうかがうが…。

 敵の姿は見えない。

 雪華は息を潜めて、しばらく様子をうかがい続ける。

 敵はそれ以上攻撃して来ない。

 沈黙が続く。

「行くよ」

 雪華が小声で囁いた。

「えっ」ふみがギクリとする。「撃たれちまうよ」

「撃たれたくなければ、グズグズしないことだ」雪華は云った。「こっちが動けば敵はまた撃ってくる。そうすれば敵の位置がわかるし、こっちから攻撃も出来る」

「私を、ちゃんと守ってくれるかい?」

 ふみが云うと、

「あんたの聞き分け次第だ」

 と雪華は答えた。

「これで信じるだろう?」ふみはさらに云った。「私は囮なんだ。ここまであんたを連れて来て、用が済んだらあんたごと私を消すつもりなんだ。じいちゃん、今頃もう殺されてるかも…」

「余計なこと云ってると撃たれるよ」雪華はふみを冷たく遮る。「そう思うならグズグズしないで、さっさと行くよ。そらッ!身を伏せてついて来な!」

 雪華は身を低くしたまま、ダッ!と小屋の中から駆け出した。

「アッ!待ってよ!」

 叫びながら、慌ててふみも雪華を追って駆け出す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る