第32話 第2部 その22

 陽はすでに落ち、夜の気配である。

 中越地方の中心都市、長岡は雪の中である。

 その中心にあるのが旧長岡城址であり、そこには帝国陸軍長岡駐屯地が存在している。

 そこを本部として常駐しているのが中越師団である。

 中越師団のこの時の兵員数は約一万強であるが、元は三万以上の数を誇っていた。

 元来中越師団は、越中越後両国に加え、出羽の南部までもカヴァーする広い範囲を、いわばその勢力地域としていた。

 ところが、先の露西亜との戦争後に越中と越後の西部は、新たに設けられた上越師団に分割され、出羽の南部は秋田に本拠を置く奥羽師団に編入された。

 こうして、中越師団の勢力範囲は越後東部に限られることとなったのである。

 それはともかく…。

 その旧長岡城址の駐屯地にも、雪が降りしきっている。

 銃を持った警備の兵はもちろん幾人もいるのだが、この当時警戒しているのはもっぱら地上である。

 空というのはまったくと云って良いほど想定していないので、その物体の飛来に直前まで気付かなかったとしても、警備の兵を責める訳にはいかない。

 ましてや、こんな雪である。

 鳥だって、飛んでいないのである。

 妙な音が彼方から聞こえてくるのに気付いた兵が地上のあちこちに目をこらしているうちに、駐屯地の中庭にそれは飛来し、着陸したのである。

 兵たちは、発砲するどころではない。

 ただもう口あんぐりと、目を白黒させ、この光景を見守っているのみである。

 兵たちのほとんどは、この時初めて飛行機というものを見たはずである。

 飛行機が停止し、中から人が降りて来て初めて、兵たちの数人がようやくバラバラと、そちらへ駆け寄っていった。

 中から降りて来た男は、大音声で名乗りを上げた。

「自分は東部第七憲兵隊々長、橘藤伊周中佐である。師団長、徳垣助次郎中将閣下にお目通り願いたい。これは内務大臣にして陸軍元帥鴫原篤麿閣下のご命令によるものである。よって、拒否は許されない。また自分に対するいかなる危害ならびに妨害も、重大な軍務違反となることを心得よ!」

 兵たちは銃を構えたまま顔を見合わせていたが、やがて一人が兵舎の方へ駆け出していった。

 が、それを待つまでもなく、兵舎の方から何人もの兵がバラバラと駆け付けて来る。

 その中に、上級将校らしい軍服姿の男が一人、悠然とした足取りで雪を踏み踏みやって来る。

 男のくせに、女のような瓜実顔の、肌の生っ白い将校は、橘藤の前に来ると敬礼した。

 橘藤も敬礼を返す。

 瓜実顔の将校が云った。

「自分は中越師団参謀長の真柴実彦ましばさねひこ中佐である。君の噂はかねがね聞いている」

 真柴は敬礼を解くとニヤリと笑って云った。

「それはどうも」橘藤はニコリともせず答える。「師団長閣下にお目通り願いたい。不在なら居る所までこちらから赴く」

「それには及ばん」真柴は答える。「閣下は執務室におられる。自分が案内しよう。ついて来たまえ」

 真柴は踵を返し、橘藤はそれに続いた。



 兵舎の二階に、師団長室があった。

 その重たいドアをノックして、真柴が云った。

「真柴であります。橘藤中佐をお連れしました」

「入れ」

 中から橘藤の耳には聞き覚えのある、やや甲高く嗄れた声が、答えた。

 真柴がドアを開くと、やや小柄な軍人が、窓の方を向いて立っていた。

「二人だけで話をしたい」その軍人は窓の方を見たまま云った。「君は席を外してくれたまえ」

「ハッ」 

 真柴は敬礼をすると、踵を返し、立ち去った。

 部屋に入った橘藤が敬礼する。

「久し振りだな、橘藤。…その顔はどうした?」

 橘藤の方を見た軍人は、驚いた顔をした。

 短く刈り込んだ頭も、鼻の下のブラシ髭も、しわの寄った顔に似つかわしくない程に黒々としている。

 この軍人が、中越師団長徳垣助次郎中将である。

「ハッ」橘藤は敬礼したまま答える。「この包帯は、任務中にケガをしたためであります。お見苦しい姿で申し訳ございません」

「構わん。…大連から引き上げて来て、市ヶ谷で別れて以来だな。もう何年になるかな」

「五年になります」

「そうだったか。…しかし単身で乗り込んで来るとは、いい度胸だな」

「閣下、単刀直入に申し上げます。「法悦丸」製造者ならびに製造現場、さらにその協力者に対して、内務省特命69号が発動されました」

「ほう、それで?」

 徳垣は鷹揚とした様子で顔色一つ変えずに云った。

「閣下もその協力者として処理対象になっております」

「フン」徳垣は皮肉っぽい笑みを浮かべた。「それはあのくたばり損ないの古ダヌキの差し金か?おっと、大元帥で公爵の鴫原内務大臣閣下は、貴様の大伯父様であったな」

 しかし橘藤はそれには答えず、

「閣下。私は命令拝受者の特権として、ある程度命令内容を裁量することが出来ます」

 と云った。

「何だそれは?」徳垣のブラシ髭がピクリと動いた。「命乞いをしろとでも云うのか?」

「御協力頂ければ、閣下を処理対象から排除します」

「ワシに裏切れと云うのかね?」

「それは」橘藤はあくまで冷静を装って続ける。「何か裏切りになるような事実をご存知であると解釈してよろしゅうございますか?」

「今さら何を云う」徳垣は笑った。「貴様の部下の小ネズミがこの長岡一帯に出没しておると、報告を受けておるわ」

「しかしみな退治されてしまったようですな。流石です」

「世辞などいらんわ。コソコソ探りなど入れとらんで、正々堂々もっと早く今のようにワシの所に来れば良かったのだ」

「これまで「法悦丸」に関して取り立てて命令がなかったものですから。ただ、竜宮寺製薬のドラ息子を処理するようにという命令は拝受しましてので、実行しましたがね。それに関して閣下から働きかけがあった、とは耳にしましたが」

「「法悦丸」は実際役に立つ」徳垣はギロリと橘藤を見やった。「兵を命令通りに動かすことが出来る。その上金になる。…誓って云うが、ワシは確かに竜宮寺と関わりを持っているが、そこで得た金を私利私欲のために使っている訳ではない」

「存じております」

「橘藤よ」徳垣は再び窓の外を見た。「貴様もわかっておるだろう。満州に王道楽土を築くことは、ひいては我が帝国の重大な防波堤、いや生命線を築くことでもあるのだ。貴様もかつてはその同志であったはずだ。憲兵に成り下がって、すっかりその理想を忘れ果てたか」

「お言葉ですが」橘藤はあくまで表向きは冷静である。「自分は憲兵に成り下がったとは思っておりませんし、理想も忘れた訳でもありません。しかし…」

「しかし、何だ?」

「そのお言葉に疑義をさしはさむつもりはありませんが、軍の上層部にはそう思っておらぬ者も多いのは確かです」

「まったく、くたばり損ないどもが!」吐き捨てるように徳垣は云う。「己の卑小さですべてを測ろうとするなと云うのだ!」

「さらに云うなら…」

「何だ、まだあるのか」

「閣下はその点潔白であったとしても、部下の中には竜宮寺からいろいろ便宜を図ってもらっていた者もいると思われます。それを閣下は黙認されていた…」

「ワシは、予備役入りとなるのかね?」

 徳垣は窓の外を見つめながら、寂しげにポツリと呟いた。

「ですから、御協力頂ければその点は…」

 橘藤が云いかけた時である。

 窓の外で幾つもの車…トラックが発車してゆく音が聞こえて来た。

「こんな夜中に何ですか?」

 橘藤が怪訝な顔をすると、

「なあに、雪中夜間訓練の増援部隊が出発するのだ」

 と徳垣が涼しげな顔で云った。

「雪中夜間訓練…?」橘藤はハッとした。「まさか…」

「フハハハハ」徳垣が突如高笑いした。「一時はどうなることかとヒヤヒヤしたが、貴様もまだまだ青いのう。貴様如きにおめおめと諭されるこのワシと思うたか。予備役だと?冗談もほどほどにせえ。橘藤よ、飛んで火に入る夏の虫とは貴様のことだわい」

 師団長室の扉が開くのと、橘藤が徳垣に飛びついてそのこめかみに拳銃を突きつけたのが、同時であった。

 徳垣は慌てて机の引き出しから己の拳銃を取り出そうとしたが、間に合わなかった。

「師団長閣下の頭に穴を開けたくなかったら、銃を引け!」

 開け放たれた扉の向こうで銃を構える兵たちを、橘藤は一喝した。

「閣下」橘藤はニヤッと笑って云う。「その机の拳銃はロシア製ですな。武器の密輸もやっている…。いろいろお伺いしたいことがありますので、このまま市ヶ谷へ連行させて頂きますぞ。…さあ、貴様ら、引け!」

 橘藤は兵たちに云った。

 すると。

 扉の所の兵たちの間を割って、真柴がまた悠然とした足取りで入って来た。

「おおっ、真柴」徳垣が云う。「連中は無事出発したか?…こやつを上官侮辱罪で営倉へぶち込め!」

「真柴中佐、貴様にも訊きたいことはあるが、まあ閣下を尋問すればその罪は自ずから明らかになるだろう。内務省特命69号により、徳垣中将閣下を連行する。抵抗する者は容赦なく撃つ」

 橘藤は大声で威圧する。

 真柴は拳銃を手にしたまま黙っていたが、スッとごくさりげない仕草でそれを構え、パン!と撃った。

 徳垣の額に真っ赤な穴が開き、ドクドクと血が溢れ出し、橘藤の腕の中でズルズルと崩れ落ちていった。

 意外な事態に橘藤は、一瞬うかつにも呆気に取られてしまった。

 続いてパン!と音がして、橘藤の手から拳銃が弾き飛ばされた。

 真柴がニヤニヤ笑いながら、右手を撃ち抜かれて屈み込む橘藤の顎を蹴り上げた。

「閣下」真柴は目を見開いたまま倒れている徳垣の骸に云った。「あなたは大変思いやりのある良い上官だが、いささか喋り過ぎです」

 真柴は橘藤の胸倉をつかんで引き上げ、その懐中を探り、ライターを取り出す。

「フン」真柴はせせら笑う。「橘藤よ、貴様の持ちものは、持ち主同様小賢しいものばかりだな」

 云いながら真柴はライターを橘藤の額に当てた。

 橘藤の目が大きく見開かれる。

「貴様の独壇場も、ここまでだ」

 真柴はずっとライターを下げ、橘藤の左太腿にそれを押し当て、グイッと握った。

 パン!

 音と同時に、

「ぐぬうッ…」

 と呻いて、橘藤は苦悶の表情と共に床に崩れ落ちた。

「こやつを地下に引っ立てろ」真柴はその場の兵に命じた。「師団長閣下は橘藤に殺された。橘藤は逃亡した。そう市ヶ谷に伝えるのだ!」 



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