第27話 第2部 その17

 現代では、舗装された国道は土合駅の先、谷川岳一ノ倉沢の手前で途切れている。

 しかし、その先には現代でもなお、細々とした登山道が、尾根や山腹を這うようにして、清水峠まで続いてはいる。

 いわゆる、点線国道という奴である。

 カゴを背負った入道坊主の大男が馬を駆って行き、その後を雪華が追っているのも、この道である。

 だが当時、この道の状況は現代よりマシだったのである。

 維新後、明治新政府は国策としてこの清水峠越えの道を、帝都東京から日本海側への最短ルートとして整備した。

 まだ鉄道というものが本格的に整備される以前の話である。

 道幅は馬車がすれ違える程度の広さに広げられ、橋が作られ、トンネルも掘られた。

 驚くべきことに、時の政府はこの大工事を、わずか半年程度で仕上げたのであった。

 だが、あまりの突貫工事であったせいか、開通して間もなく、あちこちで路肩の崩壊やら土砂崩れによる埋没などが起きるようになったのである。

 それでも、その度に修理をしては、いわばだましだまし、道は維持されて来た。

 この道を通る乗合馬車も、運営されてはいる。

 しかし道がそんな状態なので、すでに長いこと運休している。

 そもそも冬場は雪が深くなり、馬車が通れるような状況ではない。

 それにもう一つ…。

 信州廻りの鉄道が開通したことで、一挙にこの道の重要性は失われていた。

 道は次第に、寂れ、廃れる方向へと進みつつある。

 ところが近年、再びこの、帝都東京から日本海へ抜ける最短ルートの重要性が認識されるようになって来ていた。

 主に軍事的な観点からである。

 日本海の向こうに、露西亜ロシアという脅威があるからである。

 だが、そのルートの確保の手段は、もはや道でなく、鉄道であった。

 そのために今、先程見て来た清水トンネルが掘られている訳なのである。



 その道を、雪華は黙々と行く。

 入道男が駆る馬は、すでに視界から消えているが…。

 道はずっと登り坂の、一本道である。

 上は急峻な山肌に貼り付くように樹々が生い茂っており、下もまたそうである。

 山頂は霧がかっていて見えず、それ程遠くはない向こうには鉛色の雲が重苦しく垂れ込めている。

 下には生い茂る樹々のためにどれほどの深さがある谷なのか判然としない。

 行き交う人馬の姿はまったくない。

 深山幽谷に、雪華は一人ぽつねんと取り残されているという状況なのである。

 先に垂れ込める暗雲は、文字通りこの先の行程の暗雲を予想させるが…。

 雪華は歩みを止めない。

 鋭いまなざしをキッと見据えて、ひたすらに山道を行き続ける。

 作業着の下はどてらにもんぺであり、その下は黒装束だ。

 ずっと動き続けているのでここまでは気にならかったが…。

 次第に薄ら寒さを身に感じ始めている。

 しかし…。

 雪華は立ち止まらない。

 先程も述べたように、道の人馬の行き交いはまったくない。

 それどころか…。

 小鳥のさえずりも、樹々のざわめきさえも聞こえない。

 まるで、雪華という未知の闖入者を、息を潜め沈黙して見守っているかのようだ。

 脇道もまったくない。

 ひたすらに一本道が、延々とどこまでも果てしなく、続いているらしい。

 と…。

 雪華が歩みを止めた。

 じっと先方に目を凝らす。

 すでに霧が、山上からも下からも、ゆるやかに視界を遮りつつあった。

 その霧の中に、影が見えた。

 雪華は正眼に構えた。

 じっと息を潜める。

 やがて、霧の中でその影はくっきりと像を結び、そして、その姿が霧の中から立ち現れた。

 馬であった。

 馬は所在無げな様子で、かっぽかっぽとやって来るのであった。

 もちろん、人など乗っていない。

 近付くにつれ、それがあの入道坊主の乗っていた馬であると、確認出来た。

 この馬に乗るか乗るまいか…雪華は考えた。

 馬の様子からして、入道坊主はこの先で自分の意志で、この馬を乗り捨てたものに違いない。

 何かしらのアクシデントに巻き込まれたのなら、もう少し馬が興奮しているはずである。

 新しい馬に乗り換えた…ということも考えられるが、この山中でその可能性はそれほど高くないように思われる。

 かなりの確率で、この先入道坊主は徒歩である可能性が高い。

 ならば…。

 この馬に乗って、少しでも距離を縮めた方が良い。

 たとえそれが、入道坊主の策略であっても…。

「せっかく戻って来た所を、ごめんね」雪華は馬のくつわを取って、その首筋を撫でつつ、云う。「もう一度今来たところまで、私を乗せてって頂戴」

 云うと雪華は、手綱が付いただけの裸馬の背に、ひらりと跨った。

 馬に乗るのはずいぶん久し振りである。

 その昔、まだ父花澄無常が健在だった頃に、無常に連れられて、馬に乗ったことがある。

 遊びではなく、手刀術の訓練の一環である。

 だからもう十年振りぐらいであり、雪華の身体付きも何も当時とはまったく変わってしまっているのだが…。

 いざ跨ってみると、スーッとその時の感覚が蘇って来る。

 …馬って、いいものだな。

 雪華は思った。

 雪華は手綱を巧みに操って馬の向きを変えると、

「ハッ!」

 声を掛けて馬の腹を蹴る。

 全速力で、馬が山道を駆け出した。



 馬は流石に速い。

 そして速いが故に…。

 男がこの馬を乗り捨てた理由が、間もなくわかったのであった。

 上からの土砂崩れで、道が埋まっていた。

 雪華は馬から下り、そこに近付く。

 崩れた土砂に草がちらほら生えているから、最近崩れたものではないようである。

 そこを乗り越えてゆく足跡が一つ、付いていた。

 それは、真新しいものであると見て取れた。

 雪華は馬の方へ行った。

 そして、またも所在無げに草を食んでいる馬の首筋を撫でて云う。

「ありがとう。ここまででいいよ。気をつけてお帰り」

 すると馬はブルル、と鼻を鳴らして、大人しく、今来た道をかっぽかっぽ、引き返してゆくのであった。

 その姿を見送り、雪華は土砂崩れの方に向き直った。

 雪華は一つ息を整えた。

 そして、跳んだ。

 跳んで、宙で一回転して、土砂崩れの向こうに続く道の上にタン!と下りた。

 雪華はまた、鋭いまなざしを前方に見据えて、歩き出す。

 それと同時に、ちらほらと白いものが天から舞い落ちて来た。

 

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