第26話 第2部 その16
平之助は強烈なハッカの臭いで目を覚ました。
「おや、気が付いたかい?」
かねが心配そうに覗き込んでいる。
「えっ、どうしておっ母さん、こんな所に…」
と云おうとした平之助の口の中に強烈にハッカ臭が入って来た。
「うへえッ!ペッペッ!」
叫びながら平之助は、口を覆っているものをかなぐり捨てた。
口の周りにベッタリ付いたものを指で急いで拭いながら、
「一体こりゃ何ですか?」
と平之助はかねに訊く。
「気が付いたと思ったら騒々しいね、この子は」かねは呆れて云う。「これをマスクに塗ったんですよ。キットさんがそうしろっておっしゃるもんだから」
「キットさん?」
怪訝な顔で云いながら、平之助は今かなぐり捨てたものを見やった。
風邪の時に使う白いマスクであった。
そして、かねが手にしているものを見た。
かねは虎のマークの塗り薬のビンを持っている。
平之助はようやく周囲を見回した。
自分の部屋に寝かされているのである。
「キットさんって」平之助はなおも怪訝な顔付きでかねを見やっている。「あの人、この家…いやこの部屋まで、来たんですか?」
「何だいその顔」かねは呆れ顔のまま云う。「親切で立派な軍人さんじゃないか」
「あの人、憲兵ですよ。ご存知ですか?」
「ご自分でそう名乗られたよ。隊長さんだって、すごいねえ」かねは本当に感心したように云うのだった。「やっぱり将校さんってのは、ちゃんとしてらっしゃるねえ…」
「こ、この部屋で何かしてませんでしたか?」平之助は不安そうに部屋の中を見回す。「何か探っていたとか…何か持ってったりしてませんか?」
「何云ってんだい、この子は」かねはますます呆れ顔である。「何も起きてませんよ。お茶召し上がって、世間話して、お帰りになりましたよ」
「世間話って、何話したんです?」
「何って、ウチの暮らし向きのこととかですよ。ご親切に心配して下すってねえ。やっぱりキチンと士官学校出てらっしゃる将校さんってのは、違うねえ」
「そ、そんな話をしたんですか」
「そうだよ」かねは立ち上がった。「ウチはね、もう昔みたいに威勢のいい暮らしっぷりって訳にはいかないんだからね。頼れるものがあるなら頼るしかないんだからね。何だねこの子は。心配して損しちゃったよ」
云いながらそそくさと部屋を出ようとしたかねは、何か思い出して振り返った。
「そうそう。あんたがバタバタしてるもんだからすっかり云いそびれちまってたけどね、浅草の私の古い馴染みから、いい話を頂いてるんだよ」
「いい話?」平之助はさらに怪訝な顔になる。「一体何です?」
「何だいその辛気臭い顔は」かねはムッとして云う。「そんな顔して聞かれるような話じゃないよ。ああもう、あんたと話してると本当にこっちまで辛気臭くなってくるよ。ヤダヤダ。話聞きたきゃ、こっちへ起きといで。起きて来れるんだろう?…何だいそんなヘンなもの壁に貼っ付けて。そんなモン剥がしておしまい!」
そうまくし立てると、かねはプイ!と踵を返して、向こうへ行ってしまった。
やれやれ…。
平之助は布団の上で頭をポリポリかいて、溜息をついた。
そして、かねが云っていた壁の方を見て、ギョッとして立ち上がった。
壁に、覚えのないものがピンで留めて貼り付けてある。
いや、それそのものには見覚えがあるのだが、それをそこに貼り付けた覚えが、平之助にはない。
が…。
それをしたのが橘藤であると、平之助にはすぐにわかった。
しかし、そんなことより…。
こ、このことだったか…。
平之助は壁に貼り付けてあるそれをひっぺがすと、まじまじと見やった。
それは全体が赤文字で印刷されたチラシであった。
「帝国グランギニョールランド」のパンフレットに挟んであったチラシである。
劇団愉悦座レビュウ公演
バラのつぼみ
主演 潮乃しぶき
以上が大々的に麗々しく印刷され、あとは宣伝文句やらその他の出演者の名やらがもっと小さな字で印刷されているのである。
しかし…。
これが一体、何だと云うのだ?
何故刑部先輩はこの名を呟いたのだ?
いや、確かに上野駅で殺されたという女優はこのレビューの主演だが、そんなことでしかなかったのか?
だったら何故そのことで刑部先輩は殺され、かつこの自分まで消されそうにならなきゃいけないんだ?
と云うより…。
平之助はそこまで思い至って、鳥肌が立つのを禁じ得なかった。
何故警察が自分を消そうとして、憲兵である橘藤が自分を助けたのか?
その橘藤に協力しているらしい雪華は、一体何をやっているのか?
それに、これは「帝国グランギニョールランド」で行われるはずだった催しものの一つのチラシである。
と云うことは…。
上野駅の女優殺しと、父松五郎が殺された件は、無関係ではないのかも知れない…。
だが、ここでいくら考えたって、平之助にそれ以上のことはわかりようもないし知りようもない。
呆然と、手にしたチラシを見やるより他はない。
その頃…。
帝都東京、銀座の一角である。
デパートなどが立ち並ぶ華やかな大通りから一本裏に入った通りである。
キャデラックがキッ!と停まって、中から橘藤が下りて来た。
橘藤は目の前の小ぢんまりしたビルを見上げる。
橘藤はビルの狭い階段を上がってゆく。
三階に、その目的の場所がある。
扉には、「劇団愉悦座」とある。
コンコン!
橘藤がドアをノックすると、
「ハアイ、どうぞ」
とぞんざいな調子の男の声がした。
机の上に脚をのっけて何か読んでいた眼鏡にシャツにズボンという姿の男は、橘藤の姿を見てギョッとして、椅子から転げ落ちた。
「東部第七憲兵隊々長、橘藤伊周中佐である」橘藤は男を冷ややかに見下ろしながら云う。「ここに居るのは、貴様だけか」
「け、け、け、憲兵って」男は尻もちついたまま、声を震わせて云う。「ウ、ウチはアカじゃないよ。アカとは関係ないからね。な、何だって憲兵が…」
「余計なことはいい」橘藤は冷ややかなまま続ける。「貴様は俺の質問に答えろ。ここに居るのは貴様だけか」
男は生唾を飲み込み、冷汗ダラダラ流しながら、うなずく。
「「帝国グランギニョールランド」でやるはずだった「バラのつぼみ」というレビューの資料を見せろ」
「バ、バラのつぼみって…」男は云う。「あれは急に公演場所が閉鎖になったんで、中止に…」
「余計なことはいいと云ったろうが!」橘藤は怒鳴った。「グズグズすると、これを使わなきゃならん」
橘藤は腰の拳銃を引き抜き、男に向けた。
「ひええっ!」
男はピョンと立ち上がった。
しかし、男は声を震わせつつなおも云う。
「でもね、資料って云っても、主演の潮乃しぶきは死んじまったし…。その関連ですか?」男は机の上の書類をかき分ける。「でも、こないだ上野の警察に出せるモンは全部出しちまったんですよ。まったく、痛くもないハラは探られるし、看板女優が死んで開店休業だしで、こちとら上がったりなんですよ、旦那…」
男の愚痴を、橘藤はまるっきり無視している。
「せいぜいあるって云っても、公演場所で売る予定だったパンフレットぐらいなもんですよ」云いながら男は小冊子のようなものを橘藤に渡した。「劇場の座席分作ったが、全部パアですよ。…でもまあ、ここだけの話、他から女優を引っこ抜いて来る話も進んでるんで、なんとか劇団はツブさずに済みそうなんですがね…。どうしました?」
橘藤がチッ!と舌打ちしたのである。
橘藤はパラパラめくっていたパンフレットのあるページを、凝視していた。
「ワナだったか…」
橘藤はパンフレットを凝視したまま、呟いた。
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