第22話 第2部 その12
「ごめんください」
玄関先で呼ばわる男の声に、
「はあい、ただいま」
と杉戸かねは返事して、台所から小走りにそちらに向かう。
かねは、ギクリとして立ち止まる。
軍人が立っていた。
しかもその軍人は、顔に斜めに包帯を巻いているのであった。
その目付きが鋭いが…それよりも。
「まあ、平之助⁉」
軍人の肩に担がれグッタリしている平之助を見て、かねは驚いたのだった。
「ご安心下さい」軍人はニコヤカに微笑む。「私は東部第七憲兵隊々長の橘藤と申します。平之助君には我々に協力をして頂いているのですが、その渦中でちょいと賊にクスリを嗅がされましてね。いやなに、大したことはない。じきに目が覚めることでしょう」
橘藤はあくまで口調もニコヤカに、立て板に水の如く、喋るのであった。
「協力?」かねは怪訝な顔になる。「一体どういう…?」
「旦那さんの亡くなられた件に関してですよ。目下我々の方で調査中なのです」
「エッ、平之助は何も云っていませんでしたが」
「お母さんに心配をかけまいということなのでしょう」橘藤は感じ入ったように溜息をつく。「ともあれ、平之助君を早く横にさせてあげたいのですが」
「あらあら。では平之助の部屋に案内しますわねえ」
そう云うとかねは玄関先に下りて、平之助のもう一方の肩を担いだ。
ヤクザは警察には警戒するし敵意むき出しだが、軍人にはむしろ好感を持つ傾向がある。
かねもその例に洩れないようである。
それはともかく…。
玄関から平之助の部屋まで、かなり遠い。
杉戸の家がこのようにだだっ広いのは、地元に対して権勢を誇る意味もあるが、もう一つ、二階というものがないからでもあった。
これは、出入りがあった際に闘いやすくするためなのである。
しかしもはや組も解散し、かねと平之助の母子二人で暮らすにはあまりにも広すぎる。
ようやく平之助の部屋に到達すると、かねは先に立って押入れから布団を出して敷いた。
橘藤は平之助をそこに横たえる。
平之助は平和な顔をしてスヤスヤ眠っている。
「何か気付け薬になるモノありますかね」橘藤はかねに云った。「ハッカ油とか、ああいった刺激の強いものがあればいいんですが」
「ハッカ油…ですか?」
「あるいはジンとかウォッカとかウィスキーのような、強い酒でもいいんですが」
「さあ…ウチはそんな洒落たお酒は用意してございませんが…」かねは困惑顔だが「…何か探してまいります」
そう云って、部屋を出て行った。
かねが出て行くと、橘藤の顔から笑みが消えた。
橘藤は、まず平之助の机を探り始めた。
手早く引き出しを改め、机の上に立ててあるノートや本を、これも手早く開いてゆく。
さらには本棚の本も同じように調べてゆく。
その様子は、手際良く手短である。
続いて状差しを改める。
そこには、雪華が平之助に宛てた例の手紙や走り書きも差してあるのだが、それらを橘藤は無感動な目で見やり、元に戻した。
次いで橘藤は、部屋の隅にぞんざいに積まれた雑誌などの束に目を留めた。
それは、近いうちにあるかも知れない引っ越しに備えて、平之助がいらないものをまとめて置いたものだったが…。
橘藤はその傍らに屈むと、小さなナイフを取り出して、その束を束ねている紐を切った。
そしてまたも手早く、その内容をチェックしてゆく。
と、ふと、橘藤の手が止まった。
「帝国グランギニョールランド」と麗々しく印刷されたパンフレットがあった。
橘藤はそれを手に取り、パラパラと開いてみる。
するとハラリと、中から紙が落ちた。
それを拾って見た橘藤の目が、オヤ、というように見開かれる。
その時である。
部屋にまた近づいて来る足音が聞こえ、橘藤はサッとその紙を後ろ手に隠した。
「あいにく、こんなものしかないんですけど」
かねは困ったような顔をして云いながら、部屋に入って来た。
「ああ、それで充分ですよ」
ニコヤカに橘藤は云うのであった。
それから少しして…。
杉戸家を辞した橘藤は、キャデラックを飛ばして市ヶ谷に戻った。
橘藤は高崎駅で川村の遺体が列車に吊るされた状態で見つかったこと、竹中から今のところ何の連絡もないこと…などの報告を受けた。
橘藤は顔色一つ変えない。
「ちょっと出かけるぞ」
そう云って橘藤は、再び第七の本部を後にした。
「た、隊長殿、どこへ…」
隊員の呼びかけにも答えず、橘藤は再びキャデラックを飛ばして、いずこかへ向かってしまったのだった。
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