第21話 第2部 その11

 同じ頃…。

 上州のからっ風が吹く中、荷馬車が荷馬車を追いかけている。

 追われているのは、赤い荷馬車だ。

 赤といっても、ぞんざいに赤ペンキを塗りたくっただけのものである。

 土埃を巻き上げながら駆けるその御者台に乗っているのは、入道頭の大男だ。

 荷台に転がされているはずのふみの様子は、ここからではよくわからない。

 一方、追う荷馬車を駆るのはとっぱずれの辰である。

 そして同じ御者台には雪華の姿もある。

 しかし…。

 なかなか二つの荷馬車の間の距離は縮まらない。

「ねえ、辰さん」雪華は叫ぶ。「もっと速くならないの」

「お嬢、無理云わねえで下さいよ」辰が答える。「これ以上頑張ったら、この荷馬車が壊れちまうし馬もくたばっちまわあ。それよりお嬢」

「何?」

「おいらの荷物、どうしやした?」

「アッ、ごめん、忘れて来た…」

「そんなこったろうと思いましたよ」辰はニッと笑う。「ちゃあんとね、引き取ってこの後ろに積んでありやすよ。…おっといけねえ、ありゃ踏切だ」

 辰が指さす前方を、雪華も見やった。

 見れば向こうから、煙を上げて列車が迫って来る。

 しかし、前方の赤い荷馬車が速度をゆるめる様子はない。

 いやむしろ、速度を上げた。

 入道男が馬にムチを振るい続けている。

「辰さん、振り切られちまうよ」

 雪華が辰の袖をグイグイ引っ張って云うと、

「わかってやすよ。そう袖引っ張んないで下さいよ。千切れちまわあ」

 と云いつつ、辰は馬にムチを振るうのだが…。

 やはり、距離は縮まらない。

 いや、それよりも…。

 赤い荷馬車は前方の踏切へ突撃するように突き進んでゆく。

 一方で、列車は次第にその踏切へ近付きつつある。

 踏切と云っても遮断器も何もない、田舎の踏切である。

 赤い荷馬車も列車も、ほとんど同じタイミングで踏切に近付いているように見える。

「アッ…」

 思わず、雪華は声を上げた。

 機関車が激しく警笛を鳴らす。

 その直前に、赤い荷馬車は躍り込む。

 間一髪…。

 赤い荷馬車の姿は、通過する列車の向こう側に消えた。

 いやいや、ホッとしている場合ではない。

 雪華たちの荷馬車は、止まらざるを得ない。

 列車が通過して行く。

 そして、煙のたなびきを残して、列車は走り去ってゆく。

 その向こうに、赤い荷馬車の姿は跡形もない。



 この先、終点水上まで二三の駅がある。

 いちいちそれらの駅に立ち寄ったが、入道男とふみの姿はおろか、赤い荷馬車の影も形もない。

「どこかこの近辺の山ン中にでも入っちまいましたかねえ…」

 辰は云った。

 その可能性もないではないが…。

 雪華はとりあえず、終点水上まで行くよう辰に指示した。

 しかし。

 赤い荷馬車を見失ってから、荷馬車の速度はめっきり遅くなっている。

 馬が、くたびれてしまっているらしい。 

 雪華はやきもきしたが、替わりの馬を調達出来そうな様子もない。

 と…。

「くしゅん!」

 雪華がくしゃみをした。

 列車な屋根の上で黒装束になってから、雪華はずっとその格好のままであった。

 いくら雪華とはいえ、上州のからっ風の中でその姿のままなのは、やはり寒いのであった。

 ただここまでは夢中だったので、気付かなかったのだが…。

「後ろの荷物、開けてみておくんなせえ」

 辰が云うのであった。

 雪華は荷馬車の荷台の風呂敷包みを開けた。

 雪蓑、どてら、もんぺ、腹巻き、わらの雪靴…。

 雪中をゆく装備一式が入っている。

 雪華は半ば感心、半ば呆れて辰を見る。

 辰は涼しい顔をして口笛など吹いている。

 雪華はもぞもぞともんぺと腹巻きとどてらを黒装束の上から身に付ける。 

「お嬢、これもどうぞ」

 そう云って辰は、自分の腹巻きから掌大の包みを取り出して雪華に渡した。

 ホクホクと温かい。

「カイロですよ。使いかけで申し訳ないですけどね」

 辰が云った。

「ありがとう」雪華は云った。「…用意がいいのね」

「ヘヘッ、お礼を云われるほどのことじゃありませんや」辰は凶悪な面を崩して坊主頭をかく。「それよりお嬢、あんな大事な髪、ずいぶん思い切ってバッサリやっちまいましたねえ」

「…変?」

「いやいや」辰は慌てて云う。「よくお似合いですよ。長いのも良かったがね。別嬪ってのは、どういうんでも似合いますね。…あれ、お嬢、照れてるんですかい?ほっぺが赤いよ」

「…寒いからだよ」雪華は口をとんがらせ気味に云う。「それより、この格好、あったかくて良いんだけど、まるで着ぶくれのダルマだねえ…」

「ヘヘッ」辰は笑う。「それもまたお似合いですよ」

「もう、辰さんの意地悪」

 雪華は辰の腕をパン!とはたく。

 辰はうれしそうである。

 てな会話もしつつ、荷馬車は終点水上駅の前に着いた。



 駅前に着いたとたん、雪華の顔はキッと引き締まった。

 あの赤い荷馬車が馬をつないだまま、放り出すように停めてあるのがすぐに分かった。

「目立ちますねえ、ありゃあ…」

 辰は云いながら荷馬車を停め、雪華は下りて赤い荷馬車の方に向かった。

 入道男の姿はもちろん、荷台にはふみの姿もない。

 雪華は辺りを見回した。

 駅前は、にぎやかである。

 温泉の旅館ののぼりを立てて呼ばわる声。

 それら客引きと値段の交渉をする駅に降り立った客。

 彼らに混じって多く見受けられるのが現場人足風の男たちである。

 清水トンネルの工事の作業員が非番で遊びに来ているものらしい。

 向こうを見れば、冬空にもくもくと湯煙がいくつも立ち昇っている。

「はあ、温泉かあ。いいなあ」辰はうらやましそうに云う。「じゃ、お嬢、おいらはちょっくら…。いえいえ、湯に入りに行くんじゃありやせんよ。聞き込みして来ますんでね」

 辰はそう云って雪華の傍らを離れ、たちまち人混みの仲に紛れていった。

 雪華は水上駅の中へ行く。

 軽便鉄道はここで終点なのだが、さらにここから清水トンネルの工事現場まで続くトロッコがのびている。

 地図にそんなものは載っていない。

 あくまで工事用の仮敷設された鉄路であって、営業路線ではないからである。

 ここまで運ばれた資材は、再びトロッコに積み直される。

 しかし大きい資材はトロッコには乗らない。

 それらは、トラックで運ばれるのである。

 そのため、この水上から清水トンネル工事現場までの道は、帝都東京でもなかなか見られないほど、立派に舗装されているのだった。

 ただしこの道は、工事専用道路であって、一般車両の通行は禁止されている。

 一般車両はそれに沿っている田舎道を行くしかない。

 谷川岳の登山客も、水上駅からその田舎道を歩いてゆくのである。

 だが…。

 水上駅の改札の外から構内を見やると、軽便鉄道のホームの先にのびたトロッコの発着場所にも、申し訳のようなプラットホームが付いている。

 見ればトロッコの荷台には、人が乗っている。

 そのほとんどが、人足風の男たちである。

 工事現場の作業員の移動にも、使われているものらしい。

 そのトロッコを引っ張るのは、小型ながら電気機関車なのであった。

 この先にある湯檜曽トンネルは勾配を緩和するためにループ線になっている。

 そのためトンネルの距離が長いのだが、それだけでなく、現在工事中の本命たる清水トンネルが、日本だけでなく、世界最長となる。

 そんな長距離のトンネルに蒸気機関車を通す訳にはいかず、清水トンネルは開業当初から電化される予定なのである。

 それ故、仮敷設のトロッコにもかかわらず、電化されているのである。

 しかし、雪華はそんなことには関心はない。

 小さなトロッコに鮨詰めにひしめく人足風の男たちに注意深く鋭いまなざしを注ぐ。

 と…。

 雪華は気付いた。

 トロッコに乗っているのは、人足の男ばかりではない。

 農家の女らしいのも、一緒に乗っている。

 そして…。

 雪華は、一瞬大きく見開いた目を、今度はいっそう鋭くこらした。

 いる。

 手拭で頬かむりをしているが、間違いない。

 あの入道坊主の大男だ。

 いつの間にか、人足のような風体をしている。

 そして、大きなカゴを背負っている。

 狭い中で邪魔になるのか、カゴを背負った背を外側に向けている。

 呑気にキセルでタバコなど吸っている。

 雪華は改札の駅員に訊いた。

「あのトロッコにはいくら払えば乗れますか?」

「あれは乗れないよ」駅員は答える。「あれはトンネル工事の人足しか乗れない」

「でも」雪華はなおも訊く。「そうじゃない人も乗ってるみたいだけど」

「ああ」駅員は面倒臭そうに云う。「そりゃ地元の百姓や飯場の食堂の女だ。特別に許可証を持ってれば乗れるが、そうじゃなきゃ乗れないよ」

「でも…」

 雪華は云いかけたが、駅員がうさん臭げにジロジロ見やるので、それ以上は口をつぐんだ。

 ここで悶着を起こすのは時間のムダである。

 その時…。

 ピーッ!

 冬の空気を切り裂くように、鋭鋭い汽笛が一つ鳴り、トロッコ列車が発車した。

 トロッコの中の入道男がチラリと雪華の方を見てかすかにニヤッと笑ったように…見えた。

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