第20話 第2部 その10

 窓の外を白い機体の複葉機が飛び立ってゆく。

 その主翼の両端には、日の丸が付いている。

 機はどんどん高度を上げ、初冬の陽光の中にきらめいた。

 その姿を窓の内より眺めやっている橘藤は、そうでなくとも細い目を、いっそう細めた。

 部屋は白亜の建物の二階にある。

 広いその部屋にはソファやテーブルなどの他、ビリヤード台なども置かれている。

 ここに勤務する将校用の、いわゆる社交室なのである。

 その時、ガチャリと扉の開く音がした。

 橘藤はサッとその方を向いて直立不動の姿勢となり、敬礼をする。

 銃卒の開けた扉から、胸にいっぱい勲章をぶら下げた軍服姿の老人が、入って来た。

 薄い白髪を頂き、白い髭に顔の下半分を覆われたその老人は、一見好々爺風だが、まなざしは鋭く、凄みが効いている。

 老人はそのまなざしでギロリと、橘藤を見据える。

 銃卒は敬礼すると扉を閉めながら外に消えた。

 部屋は老人と橘藤の二人だけになった。

 この老人が時の内務大臣であり陸軍大将、そして公爵の鴫原篤麿しぎはらあつまろである。

 幕末の志士の生き残りであり、いわゆる元勲の一人であり、そしてその幕末の頃には「人斬り狂蔵きょうぞう」の名で怖れられた剣客=テロリストでもあった。

 その当時はさんざん人を斬り、かつ自らも命をさんざん狙われたが生き残り、そして、今の地位を得た男である。

 そして、橘藤の母方の祖母の兄でもある。

 すなわち、橘藤の大伯父にあたる。

「なんじゃおまえ、そのケガまだ治っとらんのか」

 鴫原は長州訛り丸出しのしゃがれ声で云った。

「ハッ」橘藤は敬礼したままである。「このようなお見苦しい姿のままで失礼致します。閣下におかれましてはますますご健勝のご様子。何よりと存じます」

「そうでもない」鴫原は仏頂面で云う。「寒うなって来たせいか、身体の節々が痛む。…ションベンに行くっちゅうて中座して来たんでな、あんまり時間はないけん、手短に云うぞ」

「ハッ」

「例の「法悦丸」のことじゃ」鴫原は立ったまま橘藤を鋭く見つめつつ続ける。「実は、「法悦丸」のことが主上に極めて近いあるお方の耳に入った」

「ハッ」

「「法悦丸」の製法についてお聞きになられたその方は、大変ご不快の念をお示しあそばされた。「そのようなものが存在することは、国の恥である」とまでおっしゃられたそうじゃ。コレよ、わかるな?」

 コレ、というのは、鴫原が橘藤を呼ぶ時の呼び方なのだった。

 伊周これちかのコレ、である。

「例の内務省特命第69号の発動じゃ」鴫原は仏頂面のまま、淡々と続ける。「「法悦丸」の製造責任者、製造場所、ならびに協力する者を、すべて処理せよ」

「閣下」橘藤は敬礼したまま云う。「質問してもよろしいでしょうか」

「何じゃ」

「「法悦丸」の存在を知っていて見て見ぬフリをしていた者は、処理対象ではないのですか?」

小童こわっぱが、つまらんことをぬかすな」鴫原はあくまで淡々と云うが、しかしその声にはドスが効いている。「今云った連中が処理範囲じゃ。それとも何か?」

 鴫原はニヤリと笑った。

「コレよ、おまえはこのワシも処理しようと云うのか?」

「滅相もございません」橘藤も無表情に淡々と答える。「そんなことをしたら、我が帝国陸海軍の上級将校の大半を処理しなければなりませんので。かく申す自分もその対象となります」

「フン」鴫原は面白くもなさそうな顔付きで鼻を鳴らしただけだった。「まあ「法悦丸」とは便利なものではあるが、田舎の薬売りがチト増長し過ぎとるキライはあるけん、ここらが潮時じゃろう」

「もう一つ質問してもよろしいでしょうか」

「何じゃ。そろそろ戻らんといかんけん、手短にせえ」

「処理対象は製造責任者、製造場所の他に、それに協力する者と閣下はおっしゃられましたが」橘藤は続ける。「それは帝国陸軍中越師団長、徳垣助次郎とくがきすけじろう中将も含まれるのでありますか」

「云うまでもない」

「それは徳垣中将が関東軍参謀石岡征爾いしおかせいじ中将と親しいが故に、「法悦丸」を口実に粛清しようということではないのですか?」

「知った口を聞くな!」鴫原は一喝する。「青二才が、口を慎め!」

「ハッ」橘藤は無表情に背筋と敬礼の指先をピッとのばす。「失礼致しました!」

「おまえは満州で徳垣の部下じゃったな」鴫原は淡々とした口調の仏頂面に戻っている。「コレよ、おまえが石岡や徳垣の云うちょる王道楽土とかいう世迷い言に共鳴しとるのは知っちょる。だからワシは陸軍大臣じゃった時分に徳垣とおまえを内地に引き上げさせた。それを恨んどるんか?」

「いいえ、滅相もございません」

「軍略はあくまで現実に則って行うもんじゃ」鴫原は云う。「理想や夢想でやるもんじゃない」

「閣下、お言葉を返すようですが」橘藤は敬礼を続けたまま云う。「維新の大業は理想ではなかったのですか」

「あれは必然じゃ」鴫原は溜息混じりに云う。「そうならにゃ日本が転覆する所じゃった。…コレよ、今の態度、本来ならこの場で無礼討ちにする所じゃが、まあワシも若い頃、まさにその維新の大業に奔走しちょった時は、生意気じゃった。それに免じて今回は許そう。…おおッ、無事戻って来たな」

 鴫原は窓の外に視線を移していた。

 橘藤が背を向ける窓の向こうに、先程飛び立った複葉機が戻って来るのが見える。

 しかし橘藤は鴫原への敬礼の姿勢のままである。

「おまえが云うように、飛行機による空軍というものを、本気で考えにゃならんかも知れんな」鴫原は云った。「さて、ワシは戻らねばならん。話は以上じゃ」

 鴫原がしわぶきをしながら踵を返すと、それを合図に扉がガチャリと開いた。

 橘藤は直立不動の敬礼のまま、それを見送る。



 ややあって、橘藤が黒のキャデラックへ戻って来た。

 中では助手席で平之助が眠りこけている。

 その足元の箱が開いている。

 橘藤はフッと笑って運転席に乗り込み、エンジンを掛ける。

 平之助の足元の箱には、確かに新聞各社の記者の腕章が入っているのだが…。

 それを開くと、催眠ガスが発射される仕掛けになっているのである。

 まんまとその仕掛けに引っ掛かってスヤスヤ眠っている平之助を助手席に乗せたまま、橘藤は軽やかにハンドルを切って車の向きを変える。

 そしてそのまま、猛スピードで走り去っていった。


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