第19話 第2部 その9
平之助は、顔面蒼白で額にじっとり脂汗を浮かべ、大きく目を見開いている。
完全なる恐怖の表情である。
一方橘藤は薄笑いを浮かべている。
平之助は助手席の背もたれに後ろ手にしがみ付いている。
「怖いか」
橘藤が愉快そうに訊く。
「怖いですよ!」平之助は声を上ずらせて叫ぶ。「いつもこんな気違いじみた速度で運転してるんですか⁉」
まさにそれは、気違いじみた速度である。
車窓の風景は、びゅんびゅん後方へ飛び去ってゆく。
平之助はこれまでの人生で、これほどの速度を経験したことがない。
「悪いな」橘藤は右手でハンドルを操り、左手はシガリロをはさんでいる。「俺の運転は満州仕込みなんでね。この位のスピードを出さんと、運転した気がしないのだ。それに、ちょいと急いでもいるのでね。いわば、趣味と実益を兼ねている」
そう云うと橘藤は愉快そうに笑った。
橘藤でもこんな笑い方をするのか、と平之助はちょっと意外に思ったが…。
それどころではない。
パパパパパパーン!
橘藤は派手にクラクションを鳴らし、田舎道をのんびりゆく農夫や牛車を蹴散らしてゆく。
後にはもうもうと土埃が舞い上がる。
「しかしその、バラのつぼみとか云う言葉だが」橘藤は云った。「何か思い出さんのか」
「お、思い出しません」
平之助が答えると、橘藤はさらにアクセルを踏み込む。
「思い出すまで、さらにスピードを上げるが」
橘藤はニヤニヤ笑いながら云う。
「隠してる訳じゃない!」平之助は叫んだ。「本当に思い出さないんだ!」
先程…。
橘藤の車に乗り込むと、橘藤は平之助の手錠を外した。
「これから別件で行かなきゃならん所がある」橘藤はハンドル脇にキーを差し込み、エンジンをかけた。「フン、びっくりしているな。最新式のキャデラックだ」
その通り、平之助は驚いていた。
この当時、自動車と云えば前面にクランク棒を差し込んで大汗かいて回してエンジンをかけるのが普通であった。
平之助は、自動車とはそうやって動かすものだと思っていたのである。
橘藤の運転は、初めはおだやかなものであった。
「…どこへ行くんですか?」
最新式のエンジンシステムへの驚きがおさまると、平之助は疑わしげなまなざしで云った。
「そのうちわかるさ」橘藤は薄笑いで云う。「…助けてやったんだ。お礼ぐらい云ったらどうかね」
「本当に、あなたの陰謀じゃないんですね?」
「しつこいな」橘藤は薄笑いのままである。「ま、疑うのも無理はないし、君に好かれようとも思わんがね。ただ云っとくが、俺の陰謀ならこんなヘボいやり方はせんよ」
「…ありがとうございます」
平之助は渋々といった調子で礼を云った。
「ま、疑うのも嫌うのも君の自由だが」橘藤は続ける。「しかしまあこうして助けてやったんだ。協力はしてもらいたいものだね」
「協力って云われても…」平之助は困惑顔になる。「僕には何が何だかさっぱり…」
「そもそも何で君が上野署にしょっぴかれてるんだ?」
「しょっぴかれたんじゃないです。…僕の先輩が、目の前で殺されました。上野の「寿楽」の店ん中です」
「先輩?」橘藤が怪訝な顔をする。「それは、こないだ君と一緒にぶっ倒れていた、あの新聞記者のことか?…刑部とか云ったな。…あいつ、死んだのか」
「…本当に御存知ないんですか?」
平之助は意外そうに云った。
「俺も別に万能ではないからね」橘藤はまたニヤッと笑う。「で、何で君はその刑部とわざわざ上野で会っていたのかね」
「この間のお礼がしたいって電報が来て、呼び出されたんですか…。ああ、こないだの診療代、払って頂いたんだそうですね。お返しします」
「そんなことはどうでもいい」橘高の声の調子は鋭くなった。「それより話の続きだ」
「…それで「寿楽」で落ち合ったんですが、何ですか先輩、急な用が出来たんで社に帰らなきゃいけない、後はゆっくりしてけ…って立ち上がったら、いきなり顔付きが変わって、僕の方に倒れ込んで来たんです。背中に短刀が刺さってました。…そして先輩が云ったんです。「バラのつぼみ」って。…それっきりです」
「バラのつぼみ?何だそりゃ」
「さあ…」平之助は困惑顔のまま云った。「ただ、その言葉何か聞き覚えというか、見覚えがあるんですが、何だったのかさっぱり思い出せない…。ワアッ!」
そこでいきなり、橘藤はグイッとアクセルを踏んだのであった。
かくして、この章の冒頭となる訳である。
しかし、橘藤はちっとも速度をゆるめる気配はない。
「悪いが急いでいるんで、このままで行く」
橘藤は平然とした表情でそう宣言した。
「まあ君の先輩が何で上野にいたのかは、何となく察しがつく」橘藤は云いながらシガリロを窓外に投げ捨てた。「大方、俺たちのことなんぞ探ってたのがバレてドヤされて、本来の上野の女優殺しの件に戻されたんだろう。しかし何でその刑部が消され、ひいては君まで消そうとするのか…」
「女優殺し…。新聞で見ましたが」平之助は云った。「もちろん、僕は関係ないですよ」
「フン。残念だが」橘藤は懐中からまたシガリロを取り出して、口にくわえた。「もう関係ないとは云えないね。鍵はそのバラのつぼみだ。まだ思い出さんのかね」
平之助は首を横に振る。
「まあいい」橘藤は云う。「さあて、もうすぐ目的地に着く」
「あっ、こ、ここは…」
平之助は、意外な場所にやって来たので驚いた。
そこは、平之助にも見覚えのある場所であった。
浦益と同じ県内にある、陸軍の飛行学校兼飛行場である。
正面に白亜の洋風の建物が建っている。
小学生の時分、平之助は学校の遠足でここへ来たことがある。
だが、その時の記憶と比べても、今日は人の数が多いように思える。
橘藤はしかし、その正面には乗り付けず、ずっと離れた路傍に駐車した。
「…こんな所に、何の用なんです?」
平之助が訊くと、
「それは答えられない」車から降りながら橘藤は云った。「君はここで待っていたまえ。入って見物したければ、君の足元の箱に新聞各社の記者の腕章が入っている。警備の巡査には云っておいてやる」
「…ここで何をやってるんです?…それも秘密ですか?」
「それは答えられる」橘藤はニヤッと笑う。「国産飛行機の2号目のお披露目だ。正面に菊の紋の付いた黒塗りが停まってるだろう?
橘藤は云いながら、シガリロを運転台の灰皿で揉み消した。
「…僕は、逃げるかも知れませんよ」
平之助が云うと、
「勝手にしたまえ」橘藤は薄笑いのままである。「しかし必ず見つけ出す。じゃ、君が逃げてなければまた後で」
橘藤は手を振りながら車のドアを閉め、近くに立つ巡査の方へ行くと、こちらを見ながら何か耳打ちした。
そうして橘藤は、いかにもかったるそうに、正面の白亜の建物の方へと、歩み去って行った。
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