第18話 第2部 その8

 雪華はチラと車掌の方に目をやり、再びふみを見る。

 ふみはうなずく。

 客に愛想笑いを向けつつ検札をする車掌は…。

 車掌の制服に身を包んでいるが、確かに大柄ではある。

 車掌の制帽を被っているので、入道頭なのかどうかはよくわからないが…。

 しかし手慣れた業務の仕草に、不自然なところは見えない。

 雪華は財布を懐中にまたしまって、右手に念を溜める。

「しばらくの間、この右手右腕には触らないでおくれ」雪華はふみに囁く。「不用意に触ると、あんたのその手がちょん切れるよ」

 ふみは小さくうなずく。

 車掌が雪華たちの席に来た。

「切符を拝見」

 車掌は愛想笑いを浮かべて云う。

「高崎で乗り継ぎました」

 雪華は上野からの切符を見せつつ云う。

「どちらまで乗られますか?」

「終点まで」

「十銭です」

「じゃ、二人分」

 雪華はそう云って財布を出して、手早く二十銭を車掌に渡す。

 車掌は券を切って雪華に渡すと、制帽をぐっと下げて、そのまま前へと移っていった。

 やがて、前方の扉を開けて、車掌の姿は見えなくなった。

 雪華はホウ…ッと深く溜息をつく。

「ホントにあの人なのかい?」

 疑わしげに雪華はふみに云う。

 ふみは慌ててうなずくが、どこかおどおどして見える。

「…からかってるんなら、承知しないよ」

 雪華が云うと、

「まさかそんな…」

 ふみは云って雪華の右手を握ろうとして、ハッとして慌てて手を引っ込めた。

 雪華は念のため立ち上がって、左側の窓を見てみたが、その外に列車の影は見えない。

 もう正午に近い時分のはずなので、影がのびないのだ。

 雪華は溜息をつき、席に座った。

 と…。

「おしっこ…」

 小さくふみが呟いた。

「さっき便所入った時に、ついでにしちまえば良かったのに」

 苛立ち半分、からかい半分で雪華が云うと、

「だってあんたが一緒に入ってたじゃないか」

 とふみが真顔で反論する。

「…もしまた立ちんぼになっても、文句云わないでおくれ」

 雪華は云って、ふみと共に席を立った。



 最後尾の便所の前で、雪華は腕組みして立っている。

 ふみはなかなか便所から出て来ない。

「小だけじゃなくて、大もかい?」

 雪華が中に声をかけると、

「ごめんよー」

 と、中から情けないふみの声が聞こえる。

 列車はゆるゆると進んでゆく。

 ふと…。

 あの車掌、そう云えば戻って来ない…。

 雪華が思った、その時である。

 進行方向左側の乗降扉がいきなり開いた。

 車掌が躍り込んで来た。

「ふみ!出て来るな!」

 雪華は叫び、車掌が振り下ろす右手をかわすのが精一杯であった。

 車掌の右手がシュッ!と鋭い音を立てて空を切り裂く。

 車掌の右腕が刃となっていることが、それだけで雪華にはわかる。

 車掌は続けざまに、右腕を横に切る。

 雪華はそれを下に屈んでかわしつつ、素早く考える。

 この狭い場所では、構えて充分な気と念を右腕に溜めることが出来ない…。

 だが相手はもちろん、容赦なくまた雪華の上に右腕を振り下ろして来るのであった。

 まだ気は充分ではないが、右腕で受けざるを得ない。

 キン!

 雪華の右腕と車掌の右腕がぶつかって金属音が響く。

 車掌は力ずくで押し切ろうとし、雪華はそれに耐える。

 その間に、右腕に気は漲った。

 左腕はまだ気は満ち切ってはいないが…。

 雪華は相手の顔目がけて、思いきり左手を突き込む。

 相手はひるみ、右腕で慌てて雪華の左手を払う。

 キン!

 その金属音に車掌は驚いた顔になった。

 車掌の制帽が飛び、入道頭が露わになる。

 入道男はニヤッと笑い、

「両刀か!」

 と云い、猛然と右腕を突き入れて来た。

 その時雪華は、すでにさっき男が突入して来た左の乗降扉の前に立って、右腕を顔の前に立てる、正眼の構えになっていた。

 キン!

 男の突きを右腕で防ぐ。

 また男がギリギリと力で押しまくってくる。 

 雪華は踏ん張るが、力ではやはり男には負ける。

 雪華の足は草履ばきのままだ。

 そのためもあって、ズルッ、ズルッと次第に、端へと押されてゆく。

 …雪華は、間合いを測っている。

 左の乗降扉は、バタンバタンと音を立てて、開いたり閉まったりしている。

 男はギリギリと、右腕で雪華の右腕を押しまくり続けている。

 その一瞬を、雪華は逃さない。

 相手の神経が一点に集中した時こそが、狙い時なのだ。

 雪華は再び左手の突きを入れ、相手がひるんだ瞬間に後ろ足で乗降扉を蹴り開けた。

 そして、草履を脱ぎ捨てると、そのまま後ろへ倒れ込むようにしながら、乗降扉の両脇にある手すりを、両手でつかむ。

 そのまま身体を浮かせ、後ろへ大きく身体を振って反動をつけ、両脚を勢い良く前へ突き出して、男の顔面を蹴り上げる。

 男は予期せぬ攻撃になすすべもなく顔面を蹴られ、もんどり打って倒れ込む。

 さらにそのまま雪華はもう一度後ろへ大きく身体を振り、手すりからパッと手を離し、くるりと一回転しながら、タン!と列車の屋根の上に立った。

 そして、着物の襟元に手を突っ込み、パッと引くと…。

 着物はパラリとはだけ、黒手甲に黒脚絆、袖なし裾なしの黒装束姿に、雪華は早替わりする。

 彩るのは、腰に締めた真紅の帯一本のみ。

 雪華は素早く正眼に構える。

 すると…。

 入道男が、屋根によじ昇って来た。

 鼻から血を流しているが、顔には薄笑いを浮かべている。

 雪華は、進行方向を背に、男と対峙する。

 男も、右腕を正眼に構えた。 

 ここまでの対決で、男が相当の使い手であることは知れた。

 実は雪華は、父花澄無常以外の手刀師に会うのは、これが生まれて初めてなのであったが…。

 今は、そんなことを云っている場合ではない。

 男は、正眼に構えたままである。

 男も雪華の腕のほどを知り、間合を測っているものと思われた。

 今は雪華の右腕も左腕も気は充分に漲っているので、思いきり両腕を振り出してその気を中空に飛ばす、いわゆる「飛ばし斬り」をすれば、相手を倒すのはわけない。

 しかし、飛ばした気は戻って来る。

 それを、こんな動き揺れているものの上で上手く受ける自信は、今の雪華にはない。

 少しでも受け損なえば、己の身体が真ッ二つである。

 あるいは、この車両にどんな被害が及ぶかわからない。

 そして相手が、一体どんな技を持っているのかもわからない。

 今のところ相手は右腕しか使っていない。

 しかしそれは、左腕が使えない、ということを意味しない。

 手の内を明かすのが早過ぎた…。

 雪華は心の中で歯噛みするが、もう遅い。

 と、男がニヤッと笑った。

 そしてサッと、男は身を伏せた。

 雪華はハッとして振り返った。

 トンネルが、すぐ間近に迫っていた。



 それは、山裾に掘られたトンネルであった。

 長さは20メートルほど、トンネルの上の高さは10メートルほどの、ごく短いものであったが…。

 そのまま突っ立っていれば、激突して即死であった。

 雪華は、とっさに飛んだ。

 垂直に高く上がり、山の上でくるりと一回転して、そして再び…。

 トンネルから出て来た列車の最後尾の屋根にトン!と軽やかに下り立った。

 が…。

 男の姿が、なかった。

 雪華は最後尾の端まで行った。

 どんどん遠ざかるトンネルは、向こうの口まで見渡せたが、そこに人影はない。

 すると…。

 先程雪華がそこから飛び上がって来た乗降扉から、何かが飛び下りた。

 入道男が、ふみを抱えて飛び下りたのだ。

 男はふみを抱えたまま転がりもせず踏ん張ると、そのまま線路脇に停めてある赤い荷馬車の方へ行く。

 そしてその荷台にふみを投げ入れると、御者台に座って、馬にムチをくれた。

 赤い荷馬車が走り出す。

 ふみは抵抗する様子がない。

 気を失っているのだろうか。

 雪華は、列車の屋根から線路へと飛び下りていた。

 そしてそのまま、荷馬車の方へ駆け出してゆくが…。

 すでにもう20メートル以上の距離が出来てしまっていて、いくら雪華でも、全速力で走り出した荷馬車には、とても追いつけない。

 荷馬車は雪華を嘲笑うかのように、線路脇の小道を、列車の進行方向と同じ方へ、走り去ってゆく。

 雪華は崩折れ、その方をキッと睨み据えたまま、手元の線路の赤茶けたバラストを忌々しげに投げるが虚しい。

 飛び下りた男は余裕しゃくしゃくといった様子で悠然とふみを荷馬車に投げ込んでいた。

 それが、小面憎い…。

 と、その時である。

「お嬢ーッ」

 遠くからとっぱずれた男の声と、ガラガラという車輪の音が、近付いて来る。

 雪華はびっくりして立ち上がる。

 道の向こうから、荷馬車を駆りながら、手を振っている男がいる。

 丸坊主の頭に額に傷、そして出っ歯に凶悪そうな目付きなのだが…。

 ニコニコ笑っているその顔は何とも憎めないし、今の雪華には神仏にさえ見える。

 荷馬車は、雪華の前で停まった。

「辰さん」雪華は驚き呆れた顔と声にならざるを得ない。「一体どうしたの?どうやってここがわかったの?これは…」

「細けえこたぁまあいいじゃないですか」辰は笑って云う。「アレを追っかけるんでしょう?さあ、お嬢、乗って下さい。行きますよ、しっかりつかまってて下さいね。遠慮せず、飛ばして行きますからね。ハイヨッ!」

 雪華が慌てて辰の横に乗り込むと、辰は馬にムチをくれ、荷馬車は全速力で走り出した。

 あとには乾いた土埃が立ちのぼり、初冬の寒々とした風景を、いっそう寒々としたものにさせるのであった。

 

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