第16話 第2部 その6
「しかし、この間上野駅の便所で女優が殺されたと思ったら、今度は名にし負う第七の隊員が、とはねえ」
背後からなおも署長が云い続けているが、橘藤はとりあわない。
と、橘藤がフト立ち止まった。
視線の先に、ノッポとチビデブの二人の刑事に連れられてゆく、平之助の姿がある。
平之助が橘藤の姿に気付いた風はない。
署長が、橘藤の視線の先に気付いたらしい。
「コソ泥ですよ」署長は云った。「女の腰巻を盗んだんですよ」
「ほう。腰巻をね」橘藤は大して興味もなさそうな調子で云った。「署長、お見送りは結構。私はこの後内務大臣閣下の元に急ぎ参上せねばならんのでね。いろいろ迷惑をかけた」
橘藤は冷ややかに署長を一瞥すると、署長がする敬礼に返すことなく、そこから足早に立ち去った。
平之助は、自動車の後部座席に押し込められると、たちまち手錠をかけられ、猿ぐつわを噛まされ、目隠しまでされてしまった。
抵抗する間も、声を発する間もなかった。
身体を動かして抵抗を試みるが、
「動くんじゃねえ」
チビでデブの刑事の声と共に、脇腹に硬く冷たい感触が押し当てられる。
流石に平之助にもそれが拳銃だとすぐに察せられた。
大人しく、している他ないが…。
何故こんなことになるのか、もちろん平之助にはサッパリわからない。
しかし…。
刑部の死の件が、思っていた以上に何か重大なことであるらしいということと、はからずも自分がそれに巻き込まれてしまったらしいことはわかる。
巻き込まれるのはともかく、一体自分が何に巻き込まれたのかわからないのは、もどかしい。
恐怖とそのもどかしさがないまぜになったまま、平之助はかなり長い時間、車に乗せられていた。
やがて、車が止まった。
「下りろ」
チビでデブの刑事の声が云い、平之助はひきずり下ろされた。
足の裏に、柔らかい感触がある。
土か、落葉の上であると察せられた。
「来い」
腕をグイッと引っ張られて、平之助は前後不覚のまま、歩かされた。
「止まれ」
チビでデブの刑事の声が云い、目隠しと猿ぐつわが外された。
しかし手錠はそのままだ。
「…ここは、少なくとも検察ではないですね」
平之助が二人の刑事を見据えながら云った。
ノッポの刑事とチビでデブの刑事は薄笑いを浮かべている。
そこはどこだかわからなかったが、雑木林であることだけは確かであった。
「余計なことは云わず、向こうへ向かって真っすぐ歩け」
ノッポの刑事が右手を振って云った。
その方向が東なのか西なのか、それとも北なのか南なのか…。
皆目見当もつかないが、平之助は云われた通りにした。
下手に抵抗して撃たれてはかなわない。
何か事情があって、自分をここで解放する…訳がない。
なら手錠を外すだろう。
これは…。
数歩歩いて平之助は下駄(平之助は下駄履きであった)を脱ぎ捨て、一目散に駆け出していた。
平之助には見えていないが、二人の刑事が薄笑いのまま、平之助に向けて、拳銃を構えた。
ズキューン!ズキューン!
立て続けに、二発の銃声が林の中に響き、木々からパッと鳥たちが飛び立った。
平之助はビクッ!と立ち止まった。
そして、恐る恐る、振り返った。
ノッポの刑事とチビでデブの刑事の双方とも、落葉の上に倒れていた。
その後ろに、構えた拳銃から煙をたなびかせて、立っている男がいた。
「ヒッ!」
思わず平之助は声を上げた。
顔が、恐怖で引きつってしまった。
逃げようにも脚が凍り付いたように動かず、その場に尻もちをついてしまった。
軍服姿の橘藤が、顔に斜めに包帯を巻いて、その向こうから冷たく鋭いまなざしで、平之助を見据えていた。
橘藤は、拳銃の銃口をふっと吹いて煙を飛ばすと、腰のホルダーにしまった。
「逃げんでいい」橘藤は云いながら、平之助の方へやって来た。「君を撃ったりしたら、俺が花澄雪華に殺されちまう」
橘藤は平之助の前に来ると手をさしのべたが、平之助は断って自分で立ち上がろうとした。
しかし手錠のために上手く立ち上がれず、結局、橘藤にグイッと引っ張り上げられた。
「あ、ありがとうございます」そそくさとお礼を云うと、平之助は訊いた。「…一体、これはどういうことなんですか?」
「それは俺が訊きたいよ」橘藤は薄笑いを浮かべる。「上野署の署長の話だと、君は女の腰巻を盗んだコソ泥だそうだが」
「そんなバカな…」
平之助は絶句した。
「まあいい」橘藤は懐中から
「いいえ」平之助は首を横に振る。「自分では吸いませんが」
「それは良かった」
そう云ってシガリロに火を点けた橘藤に平之助は云った。
「今度はどこへ連れて行くつもりですか?また何かに僕を利用するつもりですか?」
「助けてやったのに、ずいぶんな云い草だな」云いながら橘藤は、倒れているチビでデブの刑事のポケットを探っている。「フン、こいつら、丹波の取り調べをしていたヤツらだ。ま、これも因果ってやつだ」
「…死んでるんですか?」
「仕方なかった。本来ならこいつらをしょっぴいて泥を吐かせるべきなんだか」橘藤はチビでデブの刑事から鍵を取り出した。「無抵抗の一般市民を殺そうとしていたんだ。見過ごすわけにはいかん」
橘藤は云いながら平之助の方へ向き直った。
平之助はギクリとして後退る。
「そう怯えるな」橘藤はフッと笑う。「君を消す気ならとっくにそうしている。しかしまあ、助けてやった以上は、少々協力してもらうよ」
「…今度は何の陰謀なんですか?」
「任務と云ってもらいたいね」橘藤は云った。「陰謀は任務の一部に過ぎない。とりあえず、ここに長居は無用だ。…悪いがちょっと付き合ってもらう。別件の用があるんでね。愚図愚図しているとそれに間に合わない。君の質問には俺の車ン中で、答えられる範囲で答えてやるよ」
橘藤は左腕の腕時計を見ながら云う。
その右手は腰の拳銃のホルダーに置かれている。
平之助は、またも従わざるを得ない。
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