第14話 第2部 その4

 行ったきり辰が戻って来ない。

 雪華は不安気に辰の行った方向を見やる。

「心配なのかい?」ふみが云った。「やっぱりあんた、優しいんだね」

 その時である。

 窓外に何かが転がってゆくのが、雪華の視界の端に映った。

 慌てて雪華は立ち上がり、窓を上げた。

 線路の土手の下に転がり落ちて立ち上がる人影が見えた。

 どんどん遠ざかってゆくので、ハッキリとわからないのだが…。

「お嬢ーッ!お嬢ーッ!」

 かすかに声が聞こえる。

 そして…。

 辰は何だか必死に腕を振り回している。

 前の方に向けたり、それを縦や横に振り回したり…。

「どうしたんだッ⁉」

 背後から男の声が聞こえた。

 雪華は窓を閉め、振り返った。

 竹中が怖い顔をして立っている。

 その傍らに、川村もいる。

 雪華は不敵な笑みを作る。

「何でもないさ」雪華はふてぶてしく云う。「それより、三人じゃないのかい、付いてくるのは。確かそう聞いていたけど」

 竹中はムッとした顔になったが、

「急な要件があって二人になった。それより、不用意に窓なんぞ開けるんじゃない」

 と云った。

「細かいことまで指図されたくないけど」雪華は口辺に笑みを浮かべつつ続ける。「今ここで仲間割れしてる時じゃない。その秘密工場とやらの用心棒ってのが、この列車に乗ってるらしい。入道坊主みたいな大男だそうだよ。ついでに云うと、そいつも手刀師らしい」

 竹中も川村も、そしてふみもハッとした。

「川村、おまえは列車の後ろを見ろ」竹中はきびきびした口調で命じる。「俺は前の方を見る」

 竹中と川村は足早に分かれた。

 雪華はなおも立ったまま、左右を見回している。

 周囲の客も怪訝そうにこちらを見やっているが、今はそれに構っているヒマはない。

「あいつら、憲兵だよね」

 ふみは震え声で云う。

「そうさ」雪華はなおも周囲を見回しながら、元の席についた。「橘藤さんは三人付けるって云ってたけど、二人しかいない。何かあったのかも知れない」

「…あいつが殺ったんだ。違いないよ」

 ふみは両耳を塞いだ。

「さっきの私の相棒もこの列車から落とされた」雪華は云った。「彼はすばしこいから落ちるだけで済んだようだけどね。…他に怪しい奴は見てないだろうね」

 ふみは耳を塞いだまま首を横に振る。

 雪華は、さっきまで辰の座っていた席を見た。

 風呂敷包みが置きっぱなしになっている。

 雪華がそれを取ろうと立ち上がりかけると…。

「どこ行くの⁉」

 ふみが雪華の腰にしがみつく。

「どこにも行きやしない。その荷物をこっちに…」

「駄目だ」ふみが雪華を睨み据える。「一体何がその荷物に入ってるって云うんだい?」

「わかんないけど、大したものは入ってないと…」

 云いかけて、雪華は口を閉ざした。

 雪華の目は、向こう側…進行方向向かって左の、さっきまで辰が座って見ていた窓の外へ、向けられている。

 そこには、この列車の影が、列車と共に移動し続けているのだが…。

 その列車の影の上に、影があった。

 人の影だ。

 列車の影と共に、その影も動いている。

 つまり…この影の主は、ちょうどこの真上の列車の屋根にいる。

 そして影は、進行方向の前から後ろへと、移動しつつある…。

 雪華は天井を見上げ、そしてさっき川村が向かった車両の後方を見た。

「どこ行くの⁉」

 またふみが叫んで、雪華の腰にさらに強くしがみ付く。

「行かないと、川村さんがやられちまう」

「嫌だ、行かないでよ!」ふみは叫ぶ。「私は、絶対ここを動かないよ!」

 川村はもちろん、竹中も戻って来る気配がない。

 周囲の客がざわつき始めている。

 雪華は、どうすることも出来ない。



 川村が、列車の最後尾のデッキまで来た。

 この先の連結部の扉には、鎖が頑丈に巻いてある。

 入道坊主らしい奴はいなかった。

 なあんだ、と云うように、川村はフッと笑い、懐中からタバコを取り出して、くわえた。

 と、川村の顔の前を何かがスッ!と横切った。

 次の瞬間、タバコが寸断されてポロリと床に落ちた。

 ギョッとして天井を見上げた川村の目に映ったのは、そこに貼り付いている大男の入道坊主の姿であった。

 その入道坊主が、川村の上に降って来た。

 …ややあって…。

 列車の最後尾の屋根の上に、首と両手をくくられて横たわる川村の姿がある。

 川村は白眼を剝いて、息絶えている。



 竹中が、雪華たちの所に戻って来た。

「川村は戻って来たか?」

 竹中の問いに、雪華は首を横に振った。

「クソッ!」

 竹中の顔は焦りのいろを示した。

 そのまま竹中は、列車の後方へと足早に行ってしまった。

「このままこの列車にずっと乗ってるのかい?」

 ふみが声を潜めて云った。

「信州を経由して行くのが計画だからね」

 雪華が答える。

「嫌だよ。その前に殺されちまう」ふみは雪華にすがり付いて云う。「高崎で下りて、国境の山を越えようよ」

「越えるって…」雪華は云う。「だってあそこはまだトンネルがつながってない…」

「清水峠には道がある。そこを越えればいい。そこを通る乗合馬車もある。こっちへ逃げて来る時は、それを使わなかったんだ。簡単に捕まっちまいそうだったからね。でも、あんたがいるなら安心さ」

 一気に小声でまくし立てたふみは一息入れると、また続けた。

「その越えた所に私の生まれた故郷があるんだ。そこならとりあえず安心だ」

 雪華は答えない。

 ふみはもどかしそうな表情で、さらに云う。

「…その方法でないのなら、私は行きたくない。こんなとこでグズグズしてたら、殺されるよ。…さっきの憲兵、大丈夫なのかい?」

 雪華は立ち上がって、また窓を上げた。

 列車の最後部から、人が転がり落ちるのが見えた。

 遠目だったが、さっきの竹中と同じ服装であるように見えた。

 雪華は黙って窓を閉め、元の席に座った。

 ふみが思い詰めたようなまなざしで、雪華を見つめている。

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