第13話 第2部 その3
この当時、帝都東京から鉄路で日本海側に抜けるには、信州を経由するか、あるいは北の方をぐるっと廻って会津を経由するしかなかった。
関東と日本海側の間に壁の如く立ち塞がる三国山脈の下を貫く清水トンネルは、目下掘削中である。
上野から信州へ向かう優等列車は、この当時まだ夜行しかなく、昼間はすべて各駅停車であった。
とは云え、そもそも駅の数が今よりずっと少ない。
鉄道そのものが、最高速の交通手段だった時代なのである。
上野〜高崎間の所要時間は約二時間である。
列車は大宮を出た。
「弁当、食べないのかい?」
雪華はふみに訊いた。
ふみは抱えていた弁当を、今は窓際の台に置いている。
「食べていいよ。食べる気なくなった」
ふみは怯えたようなまなざしで小さく身を縮こまらせて云った。
雪華は弁当を手に取って、開いた。
何の変哲もない、幕の内弁当である。
何かが隠されている様子はない。
臭いを嗅いでみた。
特に変な臭いはしない。
と云うか…。
グウーッ、と腹が鳴った。
ここ何日も、雪華もいわゆるクサい飯しか食っていない。
と…。
「よッ、ネエさん、その弁当余ってるならおいらにおくれよ」
とっぱずれた声がそう云って、ひょいっとその弁当をかっさらっていった。
「アッ…」
雪華がそう云った時にはもう、パナマ帽の男はひったくった弁当を持って自分の席ヘ戻り、バクバク食べ始めていた。
パナマ帽の男は食べ終えると平気な顔をしてシーシー時に楊枝を使っている。
「ちょっと、いいの?」
ふみが雪華に囁いた。
「いいんだよ」雪華は片頬でフッと微笑む。「おかげで妙なものが仕込まれてないことはわかったからね」
ふみが、ハッとしたような顔になる。
「敵は、どういう形で狙って来るかわからないからね」
雪華が云った時である。
「ちょっくらごめんよ」
パナマ帽の男がまたとっぱずれた声を上げて席を立ち、また進行方向に向かって歩いて行った。
「妙な人だね」ふみが云う。「さっきもあっちへ行ったじゃないか」
「
雪華が云うと、
「…まさか、あの男とグルなんじゃないだろうね」
とふみが疑わしげなまなざしで云う。
「…何でそう思うんだい?」
「あの男、憲兵には見えない」ふみは疑わしげなまなざしのまま云う。「だったら、あんたとつるんでる奴かも知れないじゃないか」
「あんたを狙ってる奴だとは思わないのかい?」
雪華が云うと、
「だって、あんな奴見たことないもの」
とふみは答えた。
「見たことない奴だって、あんたを狙ってるかも知れないよ」
雪華が云うと、ふみはますます身を縮こまらせて、両腕で己の身体を抱きすくめる。
「ああイヤだ」ふみは嘆声を上げる。「こんなこと、やっぱり引き受けるんじゃなかった」
さっきからふみは、雪華と目を合わせようとしない。
雪華がふみを疑っているように、ふみもまた、雪華に不審感を抱いているらしい。
雪華はともかく、ふみが疑心暗鬼のままでは、今後いろいろと支障をきたす可能性が高い。
ここは、手の内を見せるしかないか…。
「あんたの云う通りだよ」雪華は云った。「あの人は私を助けてくれてる人だよ。ただし、憲兵とは関係ないし、何かの悪だくみでもない。あくまであの人が、自主的に私を助けてくれている。協力者って所だね」
「協力者って…彼氏かい?」
「エッ。まさか」
雪華は思わず云ってしまった。
「協力者って…」ふみは不安気なまなざしを進行方向ヘ向けた。「敵に寝返ったりはしないだろうね」
「そんなことはない。絶対に大丈夫だよ」
これまた思わず、雪華は云っていた。
雪華にそう云われている当の本人、とっぱずれの辰は…。
さっきは隣の車両をぐるっと見て来ただけだったが、今度は一番先頭の車両まで見に行っている。
が…。
入道坊主のようなガタイの大きい男というのが見当たらない。
便所にこもっている可能性というのもあるが、しかしここまでの便所はすべて空いていた。
お嬢が連れてるあの娘、クセえなァ…。
思いつつ、一番先頭の車両のデッキまで来た。
もうこの先は、列車を引っ張っている機関車である。
ジャジャポポジャジャポポジャジャポポ…。
ここまで来ると機関車の音も震動も大きく迫力をもって伝わって来る。
引き返すかあ…。
そう思って辰がくるりと背を向けた瞬間…。
開くはずのない右の乗降扉が、突然開いた。
辰は突風に引き込まれて、思わず手すりをつかんだ。
その扉から、入道坊主のような大男が、踊り込んで来た。
入道坊主は、右腕を辰の頭上に振り下ろして来る。
辰はパッと手すりを放し、間一髪、その下をすり抜ける。
しかし、入道坊主はすぐさま右腕を横に払って来た。
辰は、それをかわすのが精一杯である。
入道坊主の右腕が金属の手すりにブチ当たると、キン!という硬い音と共に火花が散った。
手刀師…。
辰が思う間もなく、さらに入道坊主は右腕を振り下ろして来る。
辰は床の上を転がって、バタンバタンと開いたり閉まったりしている右の乗降扉に体当たりをする。
辰は、線路下の土手の草っぱらに転がり落ちた。
ごろごろごろごろ度土手の下まで転がって…。
いけねえ、お嬢に何とか報せなきゃ。
思って辰はパッと立ち上がり…。
気付いてくんなせえよ…。
「お嬢ーッ!お嬢ーッ!」
精一杯叫びながら、思いながら、辰は敵がいること、そいつが手刀師であることを報せるゼスチャーを、走り去る列車に向かい、身体一杯使って、送るのであった…。
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