第11話 第2部 その1
翌日、午前。
上野駅の方へ向かう雪華とふみの姿がある。
今朝方上野署から釈放された二人は、そのまま上野駅へやって来た。
二人とも服装は、留置場に入れられていた時のままである。
雪華の髪も手刀でバッサリ切ったままで、先が不ぞろいなのであるが…。
そんなことよりも…。
「もう少し離れてくれないかい」雪華はふみに云った。「そうからみつくようにぴったりと居られたんじゃ歩きにくいし、かえって目立つよ」
「ごめんよ」蚊の泣くような声でふみは云う。「でも、おっかなくてしょうがないんだ。どこで見張ってるかと思うと…」
ふみは云いながら、おどおどしたまなざしを四方にきょろきょろ向けている。
ふみは雪華の右腕にしっかりとしがみついている。
「わかったよ」雪華は溜息混じりに云う。「ならせめてこっちの左腕にすがってくれない?右は利き腕なんで、開けとかないと」
「あ、ごめん…」
ふみは慌てて雪華の右腕からパッと身体を離したが、たちまち今度は左腕の方にしがみつくのであった。
「髪、そのままでいいのかい?」
ふみが心配そうに云う。
「あんたが切れって云ったんじゃないか」ムッとして雪華は云った。「余計な心配はよしとくれ。あんたは自分の心配だけしてな」
ふみは、シュンとした顔になってしまった。
「ごめんよ」雪華は再び溜息混じりになる。「…ただ、やっぱりもう少し離れてくれない?右が左に変わっても、歩きにくいことに変わりはないから…」
云いながら二人は、上野駅の雑踏の中へ足を踏み入れてゆく。
そのまま、切符売り場へ向かう。
「もしかして、自腹なのかい?」ふみは驚いて云った。「憲兵隊って、ケチなんだね」
「別のことでちょっと立て替えてもらってるから」雪華は懐中から財布を取り出しつつ云う。「これで相殺だよ。…切符買う間は、ちょっと離れてもらっていいかい?」
この様子を、駅の柱から見ている男がいる。
鳥打帽に地味なねずみ色の着物に袴という書生スタイルであるが、二人を見る目付きは鋭い。
その男の傍らに、背広にソフト帽を被った、ロイド眼鏡の男が近付いて来て、囁いた。
「和田、どうだ」
書生スタイルの男は、背広の男の方は見ずに答える。
「今のところ順調です。…しかしああべったりとくっついていては、目立ちますな」
「フン」ロイド眼鏡に背広の男は鼻先で笑う。「今女学生の間でああいうのが流行ってるんじゃないのかね」
「ああ、百合ですか」書生姿の男は笑った。「しかしそれにしては二人とも垢抜けない感じですな…。副官殿、大変申し訳ないのですが…」
「何だ?」
「ちょっと小用に…」
「馬鹿者」背広姿の男は呆れ顔で云った。「大事な任務の最中に何だ。とっとと行って来い」
「ハッ!」
書生姿の男は慌てて駆け出してゆく。
書生姿の男は第七憲兵隊の和田であり、ロイド眼鏡に背広姿の男は副官の竹中である。
一人になった竹中は、ふとある方向に目を留めた。
見たことのある奴が、いるのである。
竹中はそいつの方に、近付いていった。
そいつは、竹中が近付くと怪訝そうな顔をしていたが…。
「おまえ、この間の記者だな」竹中はそいつの肩をつかんで誰何する。「ここでいったい何をしている?」
「ヒッ!」
刑部は竹中の顔をギョッとして見ている。
「こりゃ、第七の旦那」刑部は下卑た笑みを浮かべる。「いえ、今日はその、例の女優殺しの取材の続きですよ。それより、旦那こそ何でこんな所に?」
「貴様はこちらの質問にだけ答えれば良い」竹中は顔をしかめて手で鼻先を振り払う。「それにしても何だ。おまえ、えらく臭いな」
「そりゃ、お宅らのせい…」云いかけて刑部は慌てて口をつぐむ。「旦那、特に用がないなら私はこれで失礼しますよ。ちょっと人と会う約束があるもんでね。では、これにて」
刑部は竹中に敬礼してみせると、足早に駅の入り口へと駆け出していった。
竹中はその姿を見やりつつ、雪華とふみが改札を通る姿も、同時に見届けていた。
上野駅の男子便所である。
駆け込んで来た和田が、用を足し始めた。
初冬の冷えた空気の中に湯気が立つ。
と…。
その背後に音もなく忍び寄る影…。
「ウ…グッ…」
和田の顔が引きつり、小便器の中に崩れるように倒れ込んだ。
その首筋から、鮮血がたらーり…。
和田は目を大きく見開き、絶命している。
忍び寄った影はもう跡形もなく消えている…。
雪華とふみが上野駅の改札を通った、ちょうど同じ頃…。
上野駅の別の改札を急ぎ足に出て来た男が一人。
平之助である。
本日の平之助は紺絣にセルの袴…いつもと同じ姿である。
平之助は駅を出ると、急ぎ足で道を渡る。
目指しているのは上野駅前の有名な食堂「
北国から上京して来た人が帝都に降り立ち、まず最初に目にするのが、上野駅前に建つこの「寿楽」なのである。
同時にここは、上野における待ち合わせの定番でもある。
平之助が急ぎ足なのは、約束の午前十時までもう十分を切っているからである。
その目指す「寿楽」の前にようやくやって来た平之助であるが…。
「あ、先輩!」
向こうから来た男に、平之助は声を掛けた。
「おお、杉戸!」
刑部が手を挙げて応える。
刑部の前まで来た平之助は、顔をしかめた。
「先輩、この臭い…」
「クソ、こないだのせいだよ」刑部も顔をしかめる。「服だって替えたし、身体も頭も洗ったのに、臭いが落ちやしねえんだ。おまえ、ちっとも臭わないな」
「そりゃ、通りかかっただけですから…」
「おまえの診察代、第七が立て替えて払ったんたってな」刑部がはしこそうな目で平之助を見る。「おまえ、第七と何のつながりがあるんだ?」
「いや、別に何も…」平之助は慌てて手を振る。「それより先輩こそ、何で上野に?帝都日日新聞は有楽町が本社じゃ…」
「仕事だよ、仕事」
刑部は云いながら「寿楽」の扉を開いて入り、平之助もそれに続いた。
「その第七を追っかけてこんな目に遭ったら、主筆に大目玉よ。「余計なことに首突っ込んでんじゃねえッ!」てな。それでまあ、今日は本来の上野駅の女優殺しの件で来てたんだが…」
刑部が喋っている間に二人は女給に席へと案内された。
刑部は入口に背を向けて座り、平之助はそれに向き合って腰を下ろす。
「コーヒーをブラックで。杉戸は?」
「同じでいいです」
女給が下がると、刑部は続けた。
「ともかく、この間は済まなかった」刑部はペコリと頭を下げたが、すぐに目をランランと光らせて顔を上げた。「で、おまえ、何であんな所にいたんだ?」
「いや、その…」
平之助は困惑した。
刑部は大学のバリツ部の先輩である。
大学時代は武骨一点張りの男であったが、どういう訳か新聞記者になった。
大学では可愛がってもらったし、世話にもなったので、協力してやりたいのは山々だが…。
「とまあ、詳しく根掘り葉掘り話を訊きたい所だが」刑部は云う。「実はちょっと急用が出来てな。至急社に戻って調べごとをしなけりゃならんのだ。ここはおごる。ゆっくりしてけ」
そう云って慌ただしく刑部は立ち上がった。
と…。
「ウッ…!」
刑部が苦痛に歪んだ形相となり、卓上のものをすべて床に落としつつ、平之助の方に倒れ込んで来た。
「あッ、先輩…!」
叫びながら平之助は慌てて刑部を抱きかかえる。
刑部の背に、短刀が突き立っていた。
「キャーッ!」
店のあちこちから悲鳴が上がる。
真っ正面の店の入口の扉が閉まった所であった。
そこに人影があった気がする。
しかし、追いかけようにも、平之助の腕の中で刑部はズルズルと沈んでゆく。
「先輩!先輩!しっかりして下さいッ!」
叫ぶ平之助の耳に、
「ば、バラのつぼみ…」
弱々しい刑部の声が聞こえた。
それきりグッタリと、刑部の身体は重くなった。
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