第10話 第1部 その9
雪華の目の前に、大きく目を見開き、顔を引きつらせている女がいる。
あの観察窓から見た女である。
もちろん化粧ッ気はまったくないが、かなり整った顔立ちである。
美人、と云うよりは、可愛い、と云った方が良い顔立ちであると云える。
「マモノなのに、額に刻印がないね」
雪華が云うと、
「…あんただって、そうじゃないか」
と相手…宍戸ふみは云った。
「父親が名誉臣民だったからさ。あんたは?」
雪華は云った。
改めて説明しておくと、名誉臣民とは、帝国陸海軍において、特にその特殊能力によって功のあったマモノの兵に与えられる名称である。
名誉臣民の名称が与えられると、その家族並びに子孫はマモノに義務付けられている額への刻印が免除され、かつ一般市民と同じ身分が保証されるのである。
もちろん、軍隊内での出世も可能であった。
「私は…」ふみは答える。「あそこで生まれ育ったんだ。これまで、あそこしか知らなかった…」
「あそこって、あんたが逃げて来た所かい?」
雪華が訊くと、ふみはうなずいた。
「マモノの女に赤ん坊を産ませて、その赤ん坊の内臓で「法悦丸」ってのを作ってるってのは、本当かい?」
雪華がさらに訊くと、ふみはハッとしてパッと両手で両耳を塞ぐ。
「イヤだ!」ふみは叫んだ。「思い出したくないよ!」
雪華はその喉元に、右手を突きつける。
「大きな声を出すんじゃないよ」雪華は鋭く囁く。「それ以上叫ぶと、あんたの喉を切り裂かなきゃいけない」
ふみはギョッとして、雪華の右手を見つめる。
見た目には、何の変哲もないただの、華車な女の白い手だ。
「どこにあるんだい?その秘密工場ってのは」
雪華は右手をふみに突きつけたまま訊く。
ふみはブンブンと首を横に振る。
「マモノの赤ん坊の内臓で「法悦丸」を作っているってのは、本当なんだね?」
雪華が問うと、ふみはややためらった後、小さくこくりとうなずいた。
「ひどい話だ」雪華は云った。「そんなひどいことは、やめさせなきゃいけない。そう思わないかい?」
ふみは、雪華の右手から雪華の顔へと視線を向けた。
何か云いたげに見えるが、ふみは何も云わない。
「ヤなこと訊くけど」雪華は続ける。「あんたも…赤ん坊を産まされたのかい?」
ふみの目が、また大きく見開かれた。
みるみるその目に、涙が溢れて来る。
「ウッ…グッ…」
ふみが嗚咽を洩らし始める。
雪華は慌ててその口を右手で覆い、その身体を抱き締める。
ふみの鼓動の高鳴りと全身の緊張が伝わって来る。
雪華はふみの耳元に囁く。
「ごめん。悪かった。悪かったよ。もう訊かない。だから、今は泣かないどくれよ。…私を信じて頂戴。きっとあんたを助ける。だから、その秘密工場ってのに案内して欲しい。そこにはあんたみたいなマモノの女の人が、他にも大勢いるんだろう?」
ふみは、雪華の腕の中で、うなずいている。
雪華はふみの背中を撫でさする。
「…あんた、優しいんだね」
ふみが云った。
雪華はふいに身体を離した。
「私は、ひどい女だよ」雪華は吐き捨てるように云う。「何人もこの手で殺した。本当なら死刑になって当然なんだ」
ふみがギョッとしたように大きく目を見開いている。
雪華は首を横に振って云った。
「ごめん。今はそんなことはどうでもいい。それよりあんただ。…その秘密工場ってのに案内してはもらえないかい?あんたの身は私が絶対に守るから」
しかしふみは、怯えたように首を横に振るばかりである。
「せめてその場所を教えてもらえない?」
重ねて雪華は訊くが、ふみはなおも首を横に振り続ける。
「殺される…」
ふみは震える声で云った。
「殺される?」雪華は云った。「だから私が守る…」
「竜宮寺製薬を舐めちゃいけないよ」ふみは雪華にキッとしたまなざしを向ける。「あいつら、蛇のようにしつこいし、軍人ともつるんでるんだ。私のことだって、どこで見張ってるか知れないよ。うかつなことを云えば、どこで聞いてるかわからない」
「だったら…」雪華はフッと笑う。「この私だって、信用ならないよ」
ふみはギョッとして、雪華からパッと身を離し、後退った。
またあの、追いつめられた猫のようなまなざしで、雪華を見やっている。
雪華も黙って、ふみを見つめている。
しばらく、二人は沈黙したまま対峙した。
やがてふみは、雪華を見据えたまま、云った。
「でも、本当にあんたが竜宮寺製薬の廻し者なら、そんなことは云わない」
「信用してくれてありがとう」
雪華が微笑むと、
「信用したとは云ってない」
とふみが返した。
「あんた、手刀師って云うけど」ふみは続ける。「どんな腕前なのか、私にはわからない。それを見せて」
「わかった」
雪華はそう云って懐中から何かを取り出した。
「ヒッ!」
ふみは小さく悲鳴を上げ、背を房の壁に押し付ける。
雪華が取り出したのは、
わずかな光に短刀の刃がギラリと光る。
雪華は左手に持った短刀を振り上げる。
「ヒイイイッ!」
ふみは悲鳴を上げた。
カン!カン!カン!
乾いた音が、三つ響いた。
頭を抱えて身を縮こめたふみが、恐る恐る顔を上げた。
三つに寸断された短刀が、床に落ちていた。
雪華が顔の前に右腕を縦に真っすぐ構えている。
雪華がフッと笑う。
「そんな風に目を伏せるから、肝心な所を見せられなかったじゃないか」
短刀は、こんなこともあろうかと、あらかじめ用意していたものだ。
すると、房の外を駆けて来る足音がした。
「何事であるかッ!」
やって来た見張りの警官が怒鳴った。
「すいません」雪華が答える。「夢見てうなされたみたいです」
「何だ、そうか」警官は云った。「大人しく、早く寝ろよ」
「はあい」
雪華は返事して、ふみの方へ向き直る。
ふみは、寸断されて散らばった短刀と雪華の顔を、呆然とした表情で交互に見やっている。
「あんた…本当に私を守ってくれる?」
ふみが云った。
「約束は守る」
雪華は答える。
「本当に?」
「本当だよ」
「なら…」ふみは房の壁に背をつけたまま、探るように雪華を見やっている。「その証拠を見せてよ」
「証拠?」雪華は困惑する。「証拠って云っても…」
「あんたの髪、長くて綺麗だね。…その髪を、切ってみせておくれ」
「え…っ?」
「髪は女の命だ。その髪を今ここで切れば、あんたが本気だって信じるよ」
ふみは例の猫のようなまなざしで、雪華を見据えつつ、云う。
「わかった」
雪華は云うと、すっくと立った。
まずは天辺で髪を結えている紐を解いた。
バランとばらけた腰まで届く髪の、まず右半分を左手でまとめ、顔の前でその上に右手を振るう。
左手の髪の束を、バサリと床に落とす。
それをふみの唖然としたまなざしが追う。
雪華は今度は左半分の髪をまとめてつかみ、やはり顔の前で右手を振るう。
床にバサリと落ちる髪の束をふみのまなざしが追う。
肩の辺りまで髪が短くなった雪華は、ふみの前に屈み込むと、その手を取った。
髪の束を呆然と見やっていたふみが、ハッとして雪華へと向き直る。
雪華はふみの手をじっと見つめ、それからその目にまなざしを移し、云った。
「どう?信じてもらえた?」
ふみは、呆然とした表情のまま、うなずいた。
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