第9話 第1部 その8

 雪華はゲンナリした顔をして、両手で両耳を塞いで、目を閉じている。

 橘藤は黙って、雪華が目を開くのを待つ。

 再び場面は前夜の第七の隊長室である。

 やがて、雪華は目を開いた。

「気持ちはわかる」橘藤は云った。「我々もこのおぞましい結論が真実でないことを願うよ」

「でも…そうなんでしょう?」

 雪華はうんざりしたような溜息と共に云った。

「ああ」橘藤は懐中から細巻き葉巻シガリロを取り出しながら云う。「99,9%の確率で、マモノの赤ん坊の内蔵を使っている。…これは失礼。気色の悪いことをまた繰り返してしまった」

 云い終えると橘藤はシガリロに火を点け、ふかした。

 甘ったるい香りと共に、紫煙が広がる。

 雪華は顔をしかめて、煙を手で払う。

「この部屋に入った時から気になってたんだ」雪華は云った。「この甘ったるいニオイ、それなんだね」

「イヤか」

 橘藤が訊くと、

「イヤだ。煙もこのニオイも」

 と雪華は答える。

「コラッ!失礼だぞ…」

 云いかける竹中に、

「黙っていろ!」

 橘藤は云い、

「悪かったな」

 と云って自分の執務机に行き、そこの灰皿へシガリロを押し込んでもみ消した。

 竹中が目を丸くしてこの橘藤の様子を見ている。

「この部屋に染みついている臭いの方は、勘弁してくれたまえ」橘藤は苦笑する。「長年ここでこいつを吸っているせいで、ちっとやそっとじゃ落ちない」

 橘藤は黒板の前に戻ると、云った。

「さて、何か質問あるかね」

「もし」雪華が云った。「その仮説が本当だったとして、いったいどうやって、その…母体を調達しているの?」

「うむ…いい質問だ」橘藤はニッと笑う。「しかし、その答えもあくまで仮説になってしまうが、良いかね」

 雪華はうなずいた。

「当初我々は、そういう秘密工場は人知れぬ山中に造られるだろうと考え、その線で探索を始めた。しかし、尻尾はつかめなかった。それで、新たな線を考えた。花澄君。もっとも効率良く母体を調達出来る場所、そしてそれが不自然でない場所があるんだ。どこだと思うね」

 雪華は首を横に振る。

 橘藤は薄笑いのまま続ける。

「岡場所だよ。花街とも云うがね。大きな町ならどこにでもある。ここ東京にも吉原や玉の井があるようにね」

 雪華は仏頂面になって、フウッと溜息をつく。

「…ずいぶん女をバカにした話だね」

 雪華は云った。

「そうかも知れないが」橘藤は続ける。「我々は現実的に考えるのが仕事なのでね。とは云え、それでも尻尾はつかめなかった。…いや、正しくは敵がつかませなかったんだ。潜入させた部下は行方不明か、事故死か、廃人か…いずれかの道をたどってしまった」

「そうまでして探る理由は何?」雪華は訊く。「だって、竜宮寺製薬の最大のお得意様は、あんたたち軍隊なんでしょ?」

「そうだ」橘藤は答える。「それも良い質問だ。もっとも、その軍隊の中には我々憲兵隊…いや、この第七憲兵隊は含まれていないがね」

 橘藤はそこで懐中にふと手をのばしかけて、気付いてやめた。

「確かに竜宮寺製薬の最大の取引先は、我が帝国陸海軍だが、それ以外に海外諸国の軍隊も取引先になっている。友好国なら構わんが、中には貿易を禁止している国も含まれている。つまり、露西亜ロシアだ」

「…密貿易ってこと?」

「その通り」橘藤は云った。「ロシアと我が国は知ってのとおり、先の戦争で、我が国が勝利した。その後国交は一時回復したが、あちらの革命騒ぎと、それに対処するために再び極東地域に軍事展開をロシアが始めたために、再び国交は断絶している。そのロシアに、竜宮寺製薬は「法悦丸」を横流ししているらしい」 

「隊長殿」竹中が心配げに云う。「あまり突っ込んだ話をしては…」

「…指図をするなと云ったはずだが」橘藤はギロリと竹中を睨む。「黙っていろ!」

「ハッ!」竹中は直立不動になって敬礼する。「失礼致しましたッ!」

「竜宮寺製薬は地元に強力なパイプを持っている」橘藤は続ける。「その地元は陸軍の中越師団が仕切っているし、地元の憲兵隊もいわばグルなのでね、こちらとしても正面切って手を出すことが出来ない。確たる証拠があれば、抑え込みも出来るのだがね。いまだその確たる証拠をつかむ以前の状態なのだ」

「で、私は何をすればいいの?」

 雪華は云った。

「…まだ説明することはあるが」

 橘藤が云うと、

「興味ないわ。ロシアがどうだの、あんたたちの内輪の縄張り争いの話とか」

 と雪華は吐き捨てるように云った。

「そうか」橘藤は苦笑する。「なら、話が早い。花澄君、君にやってもらいたいのは…」



 闇の中で、相手の様子に変化があったのがわかる。

 相手はいまだ警戒している。

 しているのだが、明らかにハッとしたのが感じられた。

 闇の中からこちらを見るまなざしに、探るようないろが、現れている。

 しかし相手は、何も云わない。

 息を潜めて、じっとこちらの様子をうかがい続けている。

「そっち行っていいかい?」雪華は相手に向かって云う。「あんたに話があるんだよ」

「あんたは…誰?」

 初めて相手が声を発した。

 声が震えている。

 若い女の声である。

 ソプラノの、なかなか良い声だ。

「私は…花澄雪華。あんたと同じマモノで、手刀師だ」

 雪華がそう答えると、

「手刀師…」

 相手はそう呟いて、あとは黙った。

 絶句しているらしい。

 やがて。

「手刀師…。聞いたことがある。手が刀になって、人を斬るんでしょう…?」

 闇の中から震える声が云った。

 地方の訛りがある喋り方だ。

「そうだ」雪華は答える。「…私は頼まれてここに来た」

「頼まれて…?」相手はそう云ってハッとした。「あの薄気味悪い兵隊たちにかい?あんたもあいつらの仲間なのかい?」

「仲間じゃないけど」雪華はフッと笑う。「あいつらに頼まれて来ている」

「何故…?」

「断れない義理が出来たから」

「義理…?」相手はそう云ってまたハッとする。「もしかして、私が蘇らせた人たちって、あんたの…」

「そうだよ」雪華はぶっきら棒に云う。「別にこっちが頼んだ訳じゃなかったけど、あんたにはお礼を云っとく。ありがとう」

 しかし相手はそれには答えず、

「イヤだよ」

 と云った。

「私にまた、あそこへ戻れって云うんだろう?」相手は続ける。「命からがら逃げて来たんだ。もう二度と戻るもんか」

「私があんたの用心棒として付いてゆく」

 雪華は相手を遮るように云った。

 相手は黙り込んだ。

 闇の中から、また探るようなまなざしを感じる。

 やがて、相手は云った。

「用心棒って…あんた、女じゃないか」

「女じゃ用心棒にならないかい?」

 雪華が云うと、

「だってあんた…そんなに細いし、綺麗だし…」

 と相手は云う。

「じゃ、私が男でもっとガタイが大きくてコワモテだったら、あんたはその命からがら逃げて来たって所へ、また戻ってくれるのかい?」

 雪華は畳みかけるように云った。

 相手は黙った。

 今の云い方は失敗だったか…。

 雪華は息を潜めて、相手の出方をうかがう。

 しかし相手は沈黙している。

 相手もまた、こちらの出方をうかがっているのだ。

 今度もまた、こちらから切り出すしかないようだ。

「あんたが逃げて来たって所って」雪華は云った。「そんなにひどい所かい?」

「地獄だよ!」

 相手は吐き捨てるように云った。

 それだけ云って、相手はまた黙った。

 雪華はふと立って、素早く相手の前に行き、屈み込んだ。

 相手に身動きする隙を与えない、敏捷な動きであった。



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