第8話 第1部 その7

 同じ頃…。

 上野警察署、留置場。

 カシャーン…。

 冷たい響きを立てて、鉄格子の扉が開く。

 警官二人に両脇をはさまれて、手錠を掛けられた、灰褐色の地味な着物を着た女が、引っ立てられて来た。

 一行は、いくつかの房の前を通り過ぎ、とある房の前で止まった。

 そこで女の手錠は外され、これも鉄格子の扉を開いた警官が、中に声を掛ける。

「おい、新入りだ」

 もう一人の警官が、

「入れ」

 と促すと、女は無表情に大人しく、房の中に入る。

 女は、雪華である。



 雪華が「聖母マリアの家」のトミ子のもとを訪れた、その前夜に話は戻る。

 橘藤が黒板の前に立ち、机を前にして雪華が座っている。

 まるで先生と生徒だが、ここは第七憲兵隊の隊長室である。

 部屋には他に、副官の竹中がいる。

「この任務を遂行するに当たって、いくつか心得ておいてもらいたいことがある。それを今晩、教授する」

 橘藤は云ったが、雪華は鋭いまなざしをじっと向けるだけで返事をしない。

 しかし橘藤も構う様子はない。

「昨夜も訊いたが、改めて訊く」橘藤はもの憂い調子で続ける。「君は「法悦丸」を知っているかね」

 雪華は首を横に振る。

「「法悦丸」は竜宮寺製薬の主力製品で、これのお陰でこの会社は地元はもちろん、中央政界にも顔がきくほどの有力な会社になった」

 橘藤は黒板に「法悦丸」と書いた。

 みみずののたくるような、お世辞にも上手いとは云えない字である。

「しかし、それだけの会社でありながら、竜宮寺製薬の名は世間一般にはそれほど知られていない。現に花澄君、君だって今回の件があるまで、そんな名前聞いたことなかったはずだ」

 雪華はうなずいた。

「それもそのはず。竜宮寺製薬の主な取引先は我が帝国陸海軍だからだ。次いで、世界各国の陸海軍。その次が我が国ならびに世界各国の、いわゆる好事家たちだ。…云っている意味がわかるかね?」

 雪華は怪訝な顔をして首を横に振る。

「「法悦丸」は表向きは精力剤ということになっている。だがその成分は、三分の一がアヘンだ。もう三分の一はコカインと大麻だ。…ここでもう理解してもらえるかも知れないが、「法悦丸」とは精力剤にあらず。実体は幻覚剤、要するに麻薬だ。…ここまでで何か質問あるかね?」

 雪華は首を横に振る。

「しかしだ」橘藤は続ける。「だったらアヘンやコカインを直接売れば良い。実際、信州の某製薬のように、アヘンで大儲けしているところだってある。だが「法悦丸」には他にはない優れた特性があるのだ」

「もったいぶらずに、単刀直入に云って」雪華は表情を変えずに云う。「あんまりもって回った云い方してると、寝ちまうよ」

 竹中が表情を硬張らせて動きかけたが、橘藤が手を上げてそれを制する。

「それは悪かった。悪いクセでね」橘藤はニヤッと笑って続ける。「「法悦丸」の特性とは、中毒性がないということだ。アヘンやコカインやらを常用すれば、やがては中毒になり、そして最後は廃人になってしまう。だが「法悦丸」にはそれがない。残り三分の一の成分に、強力な解毒作用があるとしか思えない。ただ現代の科学ではそれは不可能とされている技術なのだ。…興味はないかね」

「ないわ」即座に雪華は云った。「あんたが聞けって云うから、聞いてるだけだもの」

「正直だな。まあいい。…もちろん我々は「法悦丸」の成分を分析した。その三分のニについては、先程云った通りだ。しかし残りの三分の一は、生物由来の成分だという以外、わからなかった。だが、ごく最近、それがわかった。…何だと思う?」

 雪華はまた首を横に振る。

「内臓だよ」橘藤は淡々と云う。「正確には、心臓、肝臓、すい臓、腎臓、ひ臟…。それらを粉末にしたものだ。そしてそれは、人間のものだった」

 雪華は流石にギョッとして橘藤の顔を見た。

「その話を最初に聞いた時は、俺も君とまったく同じ反応をしたよ」橘藤は無表情に云う。「まったく、恐るべき話だ。だが、我々の立てた仮説は、もっと恐るべき話だ」



 雪華は無言で房の隅、通路に面した鉄格子に寄りかかるようにして、座り込んだ。

 留置場の房は半地下になっていて、高い所に明かり取りの窓がある。

 しかし今は夜なので、淡く月光が洩れこぼれるだけであり、あとは通路の灯りが手前を照らしている。

 房の奥は暗がりになっていて、よく見えない。

 が…。

 そこからじっと、見つめている視線があるのに、雪華ははなから気付いている。

 それは、怯え切って威嚇する時の、猫のまなざしに似ていると、雪華は思った。

 敵意と、怯えと、そしてわずかな好奇と、ちょっぴりの甘えさえも含んだあのまなざし…。

 相手は闇の中で、こちらの様子をうかがっている。

 相手の反応を見るために、雪華はわざと、髪をかき上げてみせた。

 雪華は後ろ髪を三分の一天辺で結えて垂らしている。

 いわゆるポニーテールだが、この当時そんな呼び方はしない。

 前髪は前に垂らして、額を隠している。

 しかし相手は闇の中に潜んで沈黙している。

 雪華は心の中で溜息をついた。

 自業自得(だと雪華は思っている)とは云え、なんとも因果な、厄介な面倒なことに巻き込まれちまったものだ…。

 自分はどうもこの先も、器用に渡世というのは、無理らしい。

 だがもう足を踏み入れちまったのだから、溜息ついたって嘆いたって、仕方ないのである。

 お父っつぁんが、云ってたなあ…。

「雪華、いいか。面倒なことに巻き込まれないで、さっさとケツまくって逃げるのが、一番利口なやり方だ。だがもし巻き込まれちまったら、迷っちゃいけねえ、振り返っちゃいけねえ、逃げちゃいけねえ、この三つだ。前に向かって進むだけだ。それが、生き残るための最大のすべだ」

「でもお父っつぁん」その時はまだほんの子供だった雪華は訊いた。「どうしたらいいか考えたり、どうなってるのか見直したり、悪い奴から逃げなきゃならない時もあるだろう?」

「それはな、その時の考えの根ッこが前向きか後ろ向きかってことさ。生き残るため、前に進むために迷ったり、振り返ったり、逃げたりはいいんだよ。それは卑怯でも何でもねえ。むしろとても大切な術さ。いけねえのは、後ろ向きに考えることだ。それは卑怯なだけじゃねえ。命取りになるのさ」

 とは云っても、お父っつぁん…。

 今になってよくわかったけど、前向きに考えるより、後ろ向きに考える方が、人間ってラクなんだよ…。

 何故って、前向きってのは自分の責任だけど、後ろ向きってのは他人ひとのせいに出来るからね。

 雪華は頭を振った。

 そんなことより…。

 闇の中で猫のように目を光らせているこの相手に、どうやらこっちから話しかけなきゃいけないようだ。

 基本的に人見知りの雪華にとって、これこそ最大の厄介であり、難儀であり…。

 何でこんなことしなきゃならないんだろう…と、思うところなのであるが…。

 だがその内面の葛藤と裏腹に、雪華の顔はあくまで無表情である。

 まなざしは、相手に向けていない。

 どうしても鋭くなってしまうので、これ以上警戒させてはいけないからだ。

 でも相手は身じろぎもせずに、こちらをじっと見やっている。

 相手が何を考えているのか、もちろんわからない。

 わかっているのは、相手が非常に警戒していることだけだ。

 …やり方は、雪華に任されている。

 ならば…。

「あんた、おふみって云うんだろう?」雪華は低く静かに云った。「正しくは、宍戸ふみ。二十二才。…マモノだね?」




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