第7話 第1部 その6
「我々ももらったよ」
大江が云うと、雪緒が懐中から大事そうに、おしいただくように、紙片を取り出した。
雪緒がそれを渡してくれるので、平之助は受け取った。
まずは、彫鉄から渡された紙片に、平之助は目を落とす。
平之助さん
たまたま平之助さんが事故に遭われた現場を通りかかりました。
無理を云って頼めそうな病院は大江さんの所しか知りませんので、またお願いしました。
お元気そうで安心しました(と云っても気絶なすってましたけど)。
事情あって当分お会いすることは出来ませんが、いつか必ずお目に掛かって、お詫び申し上げます。
とり急ぎで失礼致します。
雪華
走り書きではあったが、流麗な、まごうかたなき、雪華の筆跡であった。
懐に入っている先にもらった手紙に比べれば短いが、しかしこの方がずっと、雪華の息づかいを感じるものであった。
平之助の顔に、思わず微笑みが浮かぶ。
雪ちゃんは、俺を恨んでなんかいないな…。
何故だかこの短い文面だけで、平之助はそう確信したのだった。
平之助は、雪緒に渡された紙片にも、目を落とした。
大江先生
誠に勝手乍ら、また平之助さんをお願いします。
でも今回は気を失っているだけですから、半日もあれば帰れると思います。
診察代は、とりあえず憲兵さんが立て替えてくれるとのことです。
以前は何の御礼も申し上げず辞去してしまい、申し訳ございませんでした。
いつか必ず、改めてご挨拶に伺います。
それから、お母さんへ。
頂いた紬の着物、大切に着ています。
お元気で居て下さい。
それから、雪仁君にもよろしくお伝え下さい。
花澄雪華
短いのだが、そこに万感の思いが詰まっていることが、平之助にはひしひしと感じられた。
平之助は紙片を雪緒に返した。
雪緒はそれを大切そうに丁寧に畳んで、懐にしまい込んだ。
「あ、そうだ」平之助はハタと思い当たった。「先輩はどうしたろう」
「先輩?誰ですそりゃ」
彫鉄は怪訝な顔をする。
「いや、雪ちゃんは事故って云ってますけど…」
云いかけて平之助はちょっと考え、
「正確には事故に遭ったのは僕の先輩で、僕はたまたまそこに居合わせて、巻き込まれたんですけどね…」
と云った。
すると彫鉄が、
「ああ、そのことか」
と合点がいったような顔をした。
「いえね」彫鉄が続ける。「若旦那を連れて来た憲兵が、バイクの人も心配ないから伝えてくれって、云ってたんですけどね。そのことですかね」
「ああ、そう。良かった」
平之助はホッとして云った。
すると、大江が口を開いた。
「まあ、何だかわからんが、とりあえずは良かった。しかし…」大江は一呼吸置く。「こういうことを云うのは何だが、云っておかねばならない。今後は…申し訳ないが、当院とは関わらないでもらいたいんだ」
平之助も彫鉄もショックを受けたが、誰よりも愕然とした表情を浮かべたのは、雪緒であった。
「それは…雪華…もですか?」
震える声で、雪緒は云った。
「君には済まないがね」大江は云う。「しかし僕は、ヤクザ者が来るのは構わないのだが、憲兵なんて連中に来られるのはまっぴらなんだ。軍医くずれの云うセリフじゃないかも知れんがね。雪緒、わかってもらいたい。いいかい、君は今、僕の妻であり、雪仁の母親なんだよ」
雪緒は張りつめたような表情でいたが、やがて一言、
「わかりました…」
と云った。
それから間もなく、黄昏時の下町を連れ立って歩く、平之助と彫鉄の姿がある。
二人とも、気まずい心持ちで大江医院を辞してしばらくは、無言であった。
だが、やがて…。
「若旦那」
「彫鉄さん」
同時に云った。
「若旦那からどうぞ」
「いや、彫鉄さんから」
「じゃ、お先に」彫鉄は云いかけて、「若旦那、ここは私がご馳走しますから、どうです?ちっと一杯…」
そう云って彫鉄は、おでんの看板の下がった屋台を、長い顎で指し示した。
二人は並んで、おでんを肴に、酒を酌み交わし始めた。
「何です若旦那」彫鉄は平之助に酒をすすめつつ云う。「何かおっしゃりたいんじゃないんですかい」
「彫鉄さん、その若旦那ってのはやめてもらえないかい」平之助は苦笑する。「もう杉戸組は解散したんだし…。名前で呼んでくれればいいよ」
「へえ、そうですかい」彫鉄は平之助からの返しの酌を受けつつ云う。「じゃあ、平之助さん…てことで?」
「ああ、それでいい」
「私もこの通り」彫鉄は右手を振りつつ云う。「彫師は廃業したんで、彫鉄ってのは変なんだが…。しかし長いことそうとしか呼ばれてねえもんですから、元の名前なんて忘れちまいましたよ。…そんなことですかい?おっしゃりてえってのは」
「いや、まさにその手のことを訊きたいんだよ」平之助は云った。「雪ちゃんの背中にあれを彫ったのは彫鉄さんだってのは今朝聞いた。あれを彫ってもう思い残すことはないって理由で、彫鉄さんが指をバッサリ…ってのも聞いた。しかし…何故そんなことに…?」
彫鉄は右手て頭をかこうとして、気付いて左手でポリポリ頭をかいた。
「うーん」彫鉄は困った顔をした。「一言で説明するのは、難しいねえ。丹波さんも、いねえしなあ…」
「やっぱり、丹波さんなのか」
平之助は猪口の酒をグイッと飲み干した。
「誤解されちゃ困りますが」彫鉄は平之助に酒をつぎつつ云う。「丹波さんに云われて雪ちゃんはあれを彫った訳じゃない。丹波さんの真似をした訳でもない。むしろありゃあ、丹波さんを思い切るためだ。何て云うんですかね、雪ちゃんは、その、実の父親のことも含めて、すべてのしがらみを断ち切るために、あれを背中に入れたんじゃないですかね」
「だったら何で」平之助は語気を荒くする。「第七なんかと一緒にいる?すべてのしがらみを断ち切るんじゃないのか?その断ち切るしがらみって奴の中に、僕も入ってるってことか?」
「へ、平之助さん。落ち着いて下さいよ。まあ、ホラ、ぐっとやって下さいよ。…オヤジ、がんもとはんぺん。…まあ確かに第七とつるんでたり、大江先生やおっ母さんや、その友達のトミ子さんとやらを蘇らせたり…。せっかくしがらみを断ち切ったのに、また新しいしがらみを、こさえてるンだよなァ…」
彫鉄の言葉に平之助はハッとした。
「…そうか。てことは誰かが、みんなを蘇らせたってことか」
「そりゃそうですよ」彫鉄は目の前に出されたアツアツのがんもとはんぺんを箸でつつきながら云う。「おそらく、それで雪ちゃんは第七に従わざるを得ないんでしょうな」
「彫鉄さんはずいぶん呑気だな」平之助は猪口の中の酒を睨みながら云う。「心配じゃないのかい。まるで他人事みたいだ」
「そりゃ心配ですよ」彫鉄はハフハフ云いながらがんもを頬張っている。「でもじゃあ私らに何が出来るってえんです?ここでこうして酒飲んでクダ巻くことぐらいしか出来ゃしませんや。…平之助さん、雪ちゃんのこと、好きなんですねえ」
云いながら彫鉄は、刺青彫り終えた際に雪華が自分に迫って来たことは、少なくともこの平之助には死ぬまで黙っていよう、と思った。
「え、や、な、何を云うんだい。やぶから棒に…」
平之助は真っ赤になって、徳利をひったくって手酌で猪口につぎ、グイッとあおる。
「じゃあまあ、図星ついでに云っときましょう」彫鉄は自分も手酌しながら云う。「実はね、平之助さんが大江先生ン所へ担ぎ込まれた時、雪ちゃん居たんですよ」
「エッ…⁉」
「いや、実際大江医院に平之助さんさんを担ぎ込んだのは二人の憲兵なんだが、平之助さんを乗せて来た車には雪ちゃんが乗ってたんですよ。大江先生と奥さんは平之助さんに掛かりきりだから、雪ちゃんが来てたことは知りません。憲兵の一人に…って、実はそいつのことは私も知ってましてね」
「エッ…?」
また平之助は驚いて、まじまじと彫鉄の顔を見やっている。
「第七の橘藤ってのは、丹波さんが満州に居た時の同僚なんですよ。私は丹波さんの部下でしたからね、当然顔は知ってます。鼻持ちならない気障な野郎ですけどね、切れ者なのは間違いない」
平之助は呆然と彫鉄の顔を見ている。
「平之助さん、何か頼みませんか?」
彫鉄がすすめるが、平之助は呆然としたまま首を横に振る。
「まあ世間ってのは広いようで狭いと云うか、狭いようで広いと云うか…」彫鉄ははんぺんをハフハフ頬張りつつ続ける。「まあともかく、橘藤のヤツがね、ちょっと車に行ってくれって、私に耳打ちするんですよ。で、行ったら雪ちゃんが、車の後ろに乗っていて…」
「…やっぱり」平之助は云った。「実は、トミ子さんの所から戻る途中で、橘藤が乗った車とすれ違ったんだ。その後ろに雪ちゃんが乗ってるような気がしたんだが、間違いじゃなかったんだ…」
「まあ、そうなんでしょうなあ。だから平之助さんが事故に巻き込まれてるのにも出くわしたんでしょうねえ。ともかく雪ちゃん、平之助さん宛と大江夫妻宛の走り書きを渡してくれって云うもんで、せめて大江夫妻には顔を合わせたらどうかって云ったら、まだ気持ちの整理がつかないからって。自分が来たことは大江夫妻にも平之助さんにも黙ってて欲しいって…。無理強いは出来ませんからねえ。水くさいっちゃ水くさいが、しかし雪ちゃんらしいっちゃあ雪ちゃんらしい…。どうです、平之助さん、そう思いませんかい?」
平之助は、黙ってうなずくよりなかった。
彫鉄に…と云うか、他人にそう云われると、妙に腑に落ちる。
「平之助さん。あんたは気絶してたから気付かなかったろうが、多分大江医院までずっと、車ン中で雪ちゃんは、平之助さんのことを抱きかかえて来たに違いないですよ。そういう子だってことは、平之助さんだって、良くご存知でしょう?」
平之助は無言で何度もうなずく。
「まあ、待ちましょうや」彫鉄は云った。「雪ちゃんが私ら…いや、平之助さんや大江夫妻に会う心づもりが出来るまで、気長にね。さ、どうです、もう一杯」
彫鉄は平之助に酌をした。
平之助が
川を下る乗合船で夜風に吹かれたので、平之助の酔いは醒めてしまっていた。
子分たちは全員去り、今家に住むのは平之助と母のかねだけである。
玄関の開く気配に、すぐさま足音が奥からやって来る。
しかし、決して駆け出て来たりはしないのが、母の、と云うより杉戸組々長杉戸松五郎の妻であったという、矜持なのである。
「平之助、お帰り」
「ただいま帰りました。遅くなって済みません」
平之助が頭を下げると、
「男の人には外のお付き合いというものがあります。いちいち謝ることはありません」
とかねは毅然として云う。
平之助は心が痛んだ。
平気な顔をしているが、平之助の帰りが遅いのを、死ぬほど心配していたに違いないのである。
一方で、ちっともそういう弱味を見せようとしない母が、少々小憎らしくもあるのだが…。
「夕食はどうしました」
かねが訊いた。
「ちょっと外で飲んで来ましたが…頂きます」
「そうですか。では温め直しましょう」
かねはそう云うと、立ち上がった。
「そうそう」かねは懐中から紙を出して、平之助に差し出した。「あなたに電報が来てますよ」
すわ、雪華か…。
一瞬心がいろめき立った平之助は、文面を見て溜息をついた。
ホンジツハスマヌ オワビイヒタシ ミョウゴニチ ゴゼンジュウジ ウヘノジュラクニテアヒタシ オサカベ
そりゃそうか。
雪華からなら、かねがもっといろめき立っているはずだ。
平之助はもう一つ溜息をついて、だだっ広く薄ら寒い家の中を見やる。
どこか静かな所に、かねを連れて引っ越さなきゃな…。
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