第6話 第1部 その5

「何を撃ったの?…殺したの?」

 リアガラスの向こうで倒れたバイクを見て、雪華は顔を硬張らせて云った。

「まさか」橘藤はニヤッと笑う。「この程度でいちいち殺していたら、それこそ大変だ。撃ったのはゴム弾だ。当たると破裂するが、死にはしない。ただ、中にスカンクの屁と同じ成分を、さらに三倍に濃縮したものが仕込んである。たいがいの奴は気絶するし、当たった奴は向こう半年は臭いが取れないので、表に出られない。そんなことより…着いたぞ」

 車は、「聖母マリアの家」の前で止まった。

「一人で行ってくるがいい」橘藤は云った。「俺たちが付いて行っては不粋だろう?俺たちはここで待っている」

「…ここで逃げちまうかも知れないよ」

 雪華が云うと、

「フン。逃げるつもりの奴がわざわざそんなことを云うものか」橘藤はシガリロをくわえながら云う。「ホラ、早く行かないと、こいつに火を点けるぞ。俺はこいつが吸えないと、ひどく気が短くなるんでね」

「…ありがとう」

「礼などいらん。さっさと行ってくれ。ゆっくりさせてやりたいのは山々だが、出来れば三十分で済まして欲しい。…それを過ぎたら、不粋だが、呼びに行く」

 雪華はペコリと頭を下げ、車を下りた。

 その姿を見送りながら、川村が云った。

「本当によろしいのですか?一人で行かせて…」

「構わんさ」橘藤はシガリロに火を点け、深く一服しつつ云う。「それより、戻って来たあいつが今みたいな殊勝な態度でいるかどうか…」 



「さっきも面会にいらした殿方がいらっしゃいましたのよ」案内しつつ、シスターは云った。「ついさっき帰られましたから、まだ近くにいらっしゃると思うんですけど、お会いになりませんでしたか?」

「そうですか…」

 雪華はそう答えただけで、言葉を濁した。

 平之助であることは間違いないのだが、今は、顔を合わせたくなかった。

 では、いつなら顔を合わせられるのか…。

 それは雪華にもわからない。

「こちらですよ」

 シスターは先程平之助を案内したのと同じテラスに、雪華を案内した。

「トミ子さん、お友達がいらっしゃいましたよ」

 シスターが呼びかけても、トミ子は何の反応もしない。

 トミ子は先程と同じく、帝都の風景を見やっている。

 虚ろなまなざしで、無邪気な笑みを浮かべて…。

「あらあら、またヨダレを垂らして…。ここに来てから、もうずっとこんな様子なんですよ」

 シスターがトミ子の口元を拭おうとする手拭を、雪華はひったくっていた。

 驚き、やや憤然とした表情のシスターには目もくれず、雪華はトミ子の前にひざまずき、その口から垂れるヨダレを拭い、

「…トミちゃん…」

 と声をかけた。

 すると…。

 虚ろだったトミ子の目がふと動き、そして、雪華の方を見た。

「…ゆきちゃん…」

 云うとトミ子は、無邪気にニッコリと、微笑んだ。

 しかしその雪華を見るまなざしは、虚ろなままなのであった。

 雪華は、ひしとトミ子を抱きしめた。

「トミちゃん!」雪華は叫ぶ。「トミちゃん、ごめんね。ごめんなさいね。私のせいで、こんなことになってしまって。ごめんなさい、ごめんなさい…」

 叫びながら雪華は、泣いていた。

 身体を震わせ、大粒の涙をポロポロポロポロと流しながら、雪華は力の限り、トミ子の身体を抱きしめる。

 雪華の涙で顔を濡らしながら、トミ子は虚ろなまなざしのまま、無邪気に笑い続けている…。



 平之助が目覚めると、そこは…。

 …僕は、夢を見ていたのか?

 あの修羅場も、血まみれの全裸の雪華も、その背中に咲き狂っていた極彩色の刺青も、雪華の手紙も丸山トミ子も、みんな夢だったのか…。

 平之助は、何故だかホッとした。

 夢であってくれて、有難い。

 僕はまだ、大江医院に入院したままなんだ…。

「坊っちゃん、いや、若旦那。お目覚めですかい?」

 どこかで聞き覚えのある声だな、と平之助は思いつつ、その声の方へ顔を向けた。

 馬のように長い顔に猿のような面構え…。

「あれ、彫鉄さん、何でここに?…久しぶりだね」

 平之助が云うと、

「嫌だな若旦那。今朝会ったばかりじゃないですか。何です?変なガスにやられて、頭イカれちまったんですか?」

 彫鉄は云いながら右手で自分の頭を指し示そうとして、そこに指がないことを思い出し、慌てて左手をそれに替えた。

「彫鉄さん、どうしたんだい、その手…」

 云いかけて平之助も、サアッと現実に立ち戻った。

 平之助はガバッとベッドの上に半身を起こした。

「ここは…⁉」平之助は急き込んで彫鉄に尋ねる。「いったいどうなってるんだい⁉」

「まあその、詳しいことは後で」彫鉄はなだめすかすように、小声で云う。「とりあえず、どうやらここの先生と奥さんは、あん時のことはあんまり良く覚えてねえらしいんで、そこんとこは若旦那、お含みおきを」

 すると、ガチャリと扉が開いて、大江医師が入って来た。

「やあ、具合はどうだい?」

 大して面白くもなさそうな仏頂面に、もの憂げな大江の様子は、以前と変わりないように平之助には見えた。

「しかし何だね、こっちが体調不良でぶっ倒れている間に君は勝手に退院したんだそうだね。だのにまたここに担ぎ込まれて来るとは、よくよく君は、僕の所が好きらしい」

 そう仏頂面で軽口を叩く大江の額には、傷一つない。

 平之助はその理由を何となく悟った。

 彫鉄に目で問うと、彫鉄はかすかにうなずく。

「まあしかし、今回は入院するほどのことはない」大江は云った。「と云うより、事情はよくわからんが、君をここで匿う必要はもうなくなったらしいね」

 平之助はベッドの上で姿勢を正して頭を下げようとして、自分が紺絣に袴姿のままであることに気付いた。

「せ、先生」平之助はベッドから立ち上がりつつ云う。「申し訳ありません、いろいろお世話になりっぱなしなのに、ご挨拶もせず、その上またこんな風にお世話になって…」

 頭を下げようとする平之助を、大江は制した。

「いや、いいよ、そんなのは」ぶっきら棒に大江は云う。「僕は君の人柄が気に入ってここに匿ったし、まあ他ならぬ僕の妻の娘の頼みでもあったしねえ。…こういうのは、義理の娘ってことになるのかね?」

 ニコリともせず、真顔で大江は云うのだった。

「しかし先生」平之助が云う。「入院費を、お支払しないと…」

 すると大江は、ムッとした顔になって云った。

「だから云ったろう。僕は君が気に入ったから匿ったのだ。そんなつもりはハナからないよ。それにね…これは実は口止めされているんだが、何故口止めされているのかわからんから云ってしまうが、君の入院費はしかるべき所から支払われたから、君が心配する必要はないのだ」 

「しかるべき所って…?」

「東部第七憲兵隊だ」大江は云った。「何故こんな所が君の入院費を払うのかよくわからないが、しかし君が憲兵隊の関係者であるようにも見えないがね。もっとも、我々夫婦も何故か陸軍病院に入院していたようだからね。ともあれ、何かあったらしい。…何があったのかね?」

 大江に問われて平之助はギクリとし、彫鉄をチラと見た。

 彫鉄はかすかに首を横に振っている。

「あの、実は…」平之助は云いにくそうに云う。「ぼ、僕もよくわからないんですよ。…その、僕も実はずっと、気を失ってて…」

「気を失ってるのに退院出来たのかね?」

 大江に突っ込まれて、

「いや、その、何と云いますか…」

 平之助はさらにしどろもどろになる。

 その時、また扉がガチャリと開き、

「あなた。そんなに問い詰めちゃかわいそうよ。何事にもいろいろ事情はあるものよ」

 云いながら入って来たのは、大江の妻、雪緒であった。

 そうと知って見ると…。

 確かに雪緒の声は、雪華によく似ている。

 いや、それ以上に顔が…。

 瓜二つ、ではないものの、親子である。

 顔立ちが、そっくりである。

 そして…。

 その雪緒の裾に、雪仁がしがみつくように、まとわり付いている。

 雪緒はいつものように、着物の上に白の割烹着という姿である。

 その雪緒を、もう二度と離さない、と云わんが如く、雪仁はその裾にしがみついているのだ。

 平之助は、

「やあ、雪仁君、こんにちわ」

 と笑いかけたが、雪仁はペコリと頭を下げただけである。

 その目は、すべての大人…両親以外の…に対する不審に満ちているように、平之助には思えた。

 その雪仁の顔もまた、雪華を思わせる面影があるのだった。

 雪仁の反応に思わず呆然としてしまった平之助は、ハッとして慌ててペコリと頭を下げる。

「あ、お、奥さん、どうも…」

「平之助さん、お元気で何よりだわ。不思議ね、数日会わないだけなのに、もう何年も会ってなかった気がするわ」

 微笑みながら、雪緒は云う。

 まったく、その通りであった。

 平之助も実は、同じようなことを思っていた。

 と、ふと平之助は気付いた。

「あの、この前の入院の支払いについてはわかりましたが、今日のこれはまだですよね?」

「それも心配はいらんよ」大江が云う。「それも第七憲兵隊が払ってくれるそうだ」

「えッ…」平之助は絶句した。「何故…?」

「いえね、若旦那」彫鉄分云った。「実は、ここへ若旦那を運んで来たのが、その第七の憲兵なんですよ。それでね、実はその時これを言付かりましてね」

 彫鉄は折り畳まれた紙片を平之助に渡した。

 開いて見た平之助は、ハッとなった。

「これは、雪ちゃんの…」

 彫鉄はうなずいた。

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