第5話 第1部 その4

 二日後…。

 帝都、麻布台の丘の上にある、基督キリスト教の教会が運営する、「聖母マリアの家」という名の、養護施設である。

 小春日和の、暖かい日だ。

 陽のあたるテラスの椅子に腰かけて、無邪気な笑みを浮かべて、初冬の帝都の街並を見やっている少女の姿がある。

 少女は、ゆったりとした厚手の白のガウンにくるまっている。

 しかし、その少女のまなざしは虚ろだ。

 微笑んでいるその唇からは、放っておくとよだれが垂れて来てしまう。

 付き添っているシスターが手拭でそのよだれを拭うのだが、少女は笑みを浮かべたまま、何の反応もない。

 シスターと共にもう一人、呆然と少女を見つめている姿がある。

 その人は、紺絣の着物にセルの袴をつけ、下駄を履いた青年であった。

 青年の懐中には、一通の手紙が入っている。


 杉戸平之助さま

 突然このような不躾な手紙を送り付けて申し訳ありません。

 平之助さんには、ちゃんとお目に掛かってお詫びをしなければならないことが多々あるのですが、今は故あって、お目に掛かることが出来ません。

 いつか必ずきっと、お目に掛かってお詫び申し上げたいと思います。

 その上で、大変勝手ながら、お願いがございます。

 平之助さんもご存知の私の友人、丸山トミ子が故あって教会の施設に入ることになりました。

 トミ子は父母を失い、頼る身寄りの者がございません。

 なので、平之助さんにトミ子の後見人になって頂きたいのです。

 そしてもう一つ、これも平之助さんがご存知だと聞き及びました、大江医院の先生夫妻と息子の雪仁君のことも、気にかけてやって下さいませ。

 実は、彫鉄さんにも同じような内容の手紙を送りました。

 私は、先程も書きましたように、故あってお目に掛かることが出来ません。

 詳細は、彫鉄さんが知っていますので、訊いて下さいまし。

 重ね重ね勝手を申しまして、申し訳ございません。

 今は急ぎますので、これにて失礼致します。

 追伸 トミ子は麻布台の「聖母マリアの家」という施設に居ます。

 シスターには事情が説明されているとのことです。

                      花澄雪華


 それは確かに、流麗な雪華の筆跡であった。

 平之助の許に速達で届いたのは、昨日である。

 文面を読んで、平之助は安心した半面、複雑な思いを抱かざるを得なかった。

 何かとても切迫しているのはわかる。

 しかしそれにしても何とも他人行儀な、水くさい内容である。

 詫びる必要なんて、ないのだ。

 詫びるのはむしろ、自分の方だ。

 まあでも、雪ちゃんの気持ちもわかる。

 雪ちゃんはそういう子だ。

 だが…。

 何だろう、この切ない、やるせない気分は。

 必ずお目に掛かる、と記されているのにもかかわらず、何か雪華に、突き放されているような感じが拭えないのである。

 特に最後の署名…。

 杉戸雪華ではなく、花澄雪華という署名は…。

 これは明らかに、もはや平之助とは、兄妹ではない、ということの宣言である。

 そしてもう一つ…。

 平之助の心をやるせないものにしているのは…。

 この手紙の文面ではないのだが…。

 あの修羅場で見た、鬼神の如き雪華の姿と、そしてあの、背中一面に彫られた極彩色の刺青いれずみであった。

 平之助の脳裏に、一生忘れないであろう強烈な印象が叩き込まれた。

 雪華は遠い所に行ってしまった。

 だがしかし。

 一方で、雪華は自分を頼って来ているのである。

 これは、命にかえても、果たしてやらねばならない。

 今朝彫鉄と会って、大体の事情は聞いた。

 大江雪緒が雪華の実の母であることも知った。

 それと共に、雪華のあまりに悲しく切ない事情に、平之助は同情より、ショックを覚えた。

 まさか雪華の出生に、そんな秘密があったとは…。

 何も知らずに呑気に雪華と接して来た自分が、平之助は情けなく、ふがいなく感じた。

 そして先の手紙を読んで、突き放されたように感じたなどという、何とも甘ったれたちゃちな感想を抱いた自分を、平之助は恥じた。

 どんな思いで、雪華がこの短い手紙をしたためたことか…。

 それを思い、平之助は男泣きに泣いたのである。

 突然泣き始めた平之助を、彫鉄はその馬のように長い顔に猿の面をびっくり仰天させて、唖然として見やっていたが…。

 こうして平之助は、早速雪華の頼みを果たすべく、まずはその麻布台の「聖母マリアの家」に向かったのだった。

 あの明るい丸山トミ子が両親を失くしてどれほど打ちひしがれていることだろう…。

 平之助は、トミ子を巡って起きた事件があった時には大江医院に匿われていたり、第七憲兵隊に拘留されていたりしたので、その件についてはまるで知らないのであった。

 ただ、丸山トミ子の所へ行く、と云ったら彫鉄はひどく怪訝な顔をしたのであったが、特段平之助には何も訊かなかった。

 そもそも彫鉄はトミ子のことは知らない、と平之助は思っている。

 雪華も彫鉄にはトミ子のことは報せていないのだろう、と平之助は解釈した。

 一方、大江一家に関しては、あの「帝国グランギニョールランド」での修羅場の際、大江夫妻の一子雪仁ゆきひとを保護したのは、彫鉄である。

 彫鉄は、雪仁を自分の家に匿っている。

 雪仁は熱を出して寝込んでいるらしい。

 無理もない。

 目の前で、父と母が死ぬのを見てしまったのだから…。

 あとでまた彫鉄の家に行くつもりだが…。

 そう云えば…。

 ふと平之助は思い至り、雪華の手紙を読み返す。

 雪仁のことを頼まれるのはわかるが、大江夫妻って、どういうことだろう。

 あの修羅場はあんまり慌ただしかったから、雪ちゃん、大江夫妻が死んだことを知らないのかも知れないな。

 大江夫妻が蘇っていることをまだ知らない平之助は、そう思った。

 そう思うと、またも平之助の心に、やるせないものがこみ上げて来るのだった。

 だが今は、丸山トミ子だ。

 トミ子はきっとひどく落ち込んでいることだろうが、しかし自分が顔を見せればまたあの屈託のない無邪気な笑顔を見せてくれることだろう…。

 そう気を取り直して「聖母マリアの家」にやって来た平之助なのであった。

 そしてシスターに案内され、丸山トミ子に面会した平之助は、打ちのめされたのであった。

 丸山トミ子は、平之助のことがまったくわからなかった。

 わからないばかりでなく…。

「…回復の見込みは、ないのですか?」

 平之助が震える声で問うのに、

「いいえ、まったくありません」

 とシスターは静かに、しかしキッパリと云った。

 これでは、生きる屍だ…。

 彼女がこんな状態だと知っていて雪ちゃんは、僕に託したと云うのか…?

 いったい、どういうつもりで…。

 そこで平之助は、ハッとした。

 これは雪華が自分に与えた、罰なのではないか?

 やはり雪華は、自分のことを恨んでいるのではないのか?

 平之助は暗然とした気持ちになって、帝都の風景を無邪気な微笑みと共に見つめ続ける丸山トミ子を、見つめるのであった。



 同じ頃…。

 市ヶ谷の東部第七憲兵隊の本部から、相次いで黒塗りの自動車が二台発進した。

 自動車は門を出ると、それぞれ別の方角へと、走り去ってゆく。

 この様子を、遠くの物陰から双眼鏡で見ている男がいる。

 刑部刑部である。

「フン。奴さん、出て来たぜ」

 二台目の車の助手席に、橘藤が乗っているのが確認出来たのだ。

 刑部はヘルメットを被り、ゴーグルを掛ける。

 そしてオートバイに跨がると、教えられた通り、勢い良くペダルを踏み下ろした。

 ヴァン!ダッダッダッダッダ…。

 大学の先輩を拝み倒して、当時まだ珍しい、このオートバイを借りたのである。

 と云うより、その妻帯者である先輩の浮気を奥方にバラすと脅したのであるが…。

 ヴォオオオオ…ン…。

 聞き慣れぬ轟音に、何事かと道行く人が振り返る。

 刑部は、ちょっと得意気だ。

 掌で鼻をこするクセも、大連発だ。

 刑部は、橘藤の乗る黒塗りの車の後を追う。

 轟音を、立てながら…。



「後からつけて来るよ」

 後部座席に一人座っている雪華は助手席の橘藤に云った。

 今日の雪華は、淡い黄色の紬に海老茶の帯を締めている。

 もちろん雪華のものではなく、第七で用意したものである。

 黒髪は庇髪ひさしがみに結っている。

 今日のために橘藤が髪結いを第七に呼んだのである。

 自動車の後部座席の窓にはカーテンが掛けられていて、外からは見えない。

「わかっている」橘藤は薄笑いを浮かべる。「ハーレーダビッドソンか。雑魚のくせに、いいバイクに乗ってやがる」

「隊長殿、いかが致しますか?」

 運転している隊員の川村が訊いた。

 ちなみに、川村は少尉である。

 川村はすでにハンドル脇のスイッチに手をかけている。

「いや、まだだ」橘藤は薄笑いのまま云う。「もう少し泳がせておけ」

 橘藤は細巻き葉巻シガリロに火を点け、ふかした。

 雪華が手で煙を払いながら軽く咳込むと、橘藤は灰皿にシガリロをねじ込んで消した。

 その様子を、川村が軽い驚きの表情で見やった。

「何だ」

 橘藤が低く不機嫌そうに云うと、

「ハッ、何でもありません。失礼致しました」

 と川村が慌てて答える。

「…で、あのひとの説得は上手くいったの?」

 雪華が云った。

「ほう。ずいぶん積極的に興味を持ってくれるのだね」

 皮肉っぽく橘藤は云ったが、雪華は冷ややかなまなざしのまま、黙っている。

 そのまなざしと橘藤のまなざしが、バックミラーの中でぶつかる。

「いや、まだだ」

 橘藤は云った。

「どうして?だって、さっきの先に出た車に、あのひとを乗せたんでしょう?どこへ連れてったの?」

 雪華が云うと、

「上野署だ」橘藤は答える。「あんまり第七こっちに長々と引っ張っていると、他所よそから嗅ぎ付けて来るハイエナどもが、いらんことを云って来るのでね」

「でも上野署にあんたたちがしょっちゅう出向いて訊問したって、同じことでしょ?」

 雪華がさらに云うと、

「フン、察しがいいな」橘藤は苦笑する。「君が女じゃなきゃ、我が第七にスカウトしたいところだな。もっとも俺は女も軍人になれるよう法改正すべきだと思ってるがね」

「お断りしておく」雪華はにべもない。「それより、どうするつもりなの?」

「後で話す。これから懐かしい友人に会おうと云うのに、野暮な話は聞きたくあるまい?」

 橘藤に云われて、雪華は小さく肩をすくめた。



 「聖母マリアの家」を辞した平之助は、暗澹たる気分のまま呆然と、坂を下っている。

 その坂を登って来る、一台の黒塗りの自動車があった。

 何気なく目を上げた平之助はハッとして、反射的に目を逸らしてしまった。

 あの橘藤が助手席に乗っている!

 だが次の瞬間、平之助はギクリとして、視線を戻した。

 その橘藤の後ろに見えた顔、あれは…⁉

 しかしその時には、黒塗りの自動車はちょうど平之助の横を、通り過ぎた所だった。

 思わずその車の過ぎ去る方に、平之助は向き直った。

 その車のリアガラスに、後頭部だけが見える。

 女だ。

 だがその後頭部だけでは、それが雪華だとは平之助には確信出来ない。

 平之助が元来た道を引き返そうと、足を踏み出した時である。

 ダッダッダッダ…。

 轟音が下から迫って来て、平之助は思わずそちらを見てしまった。

 平之助は目を見張った。

 オートバイである。

 と、そのオートバイが平之助の前で止まって、乗っている奴がゴーグルが上げた。

「杉戸、こんな所で何してんだよ」

「お、刑部先輩!先輩こそ…何です、このバイク?」

「仕事だよ!仕事!」刑部はゴーグルを下げ、「じゃ、またなっ!」

 サッソウと、ヴァン!とバイクのエンジンをふかし直し、再び坂を登ってゆく。

 平之助は唖然としてこの様子を見やっていたが、ハッと思い返して、自分もまた坂を登り始めた。

 遥か先にあの黒塗りの車が、そしてその後を刑部のバイクが追っている。

 バイクは見る見るうちに車との距離を縮めてゆく。

 と…。

 黒塗りの車のテールランプの双方が、パカッと開くのが見えた。

 次いでそこから、ノズルのようなものが現れた。

 いやそれはノズルではない。

 …銃口⁉

 ギョッとした平之助は、駆け出していた。

 が、時すでに遅く…。

 双方のノズルから何かが発射され、小さく白煙が上がる。

 パン! 

 小さな炸裂音が響き、

「わあッ!」

 刑部の叫びが聞こえて、バイクはよろよろと蛇行し始め、ドシャッ!と横倒しになり、刑部が投げ出された。

 平之助は全力で坂を駆け上がる。

 平之助は倒れている刑部の傍らに屈み込む。

「先輩!刑部先輩!」

 しかし刑部は、怪我をしている様子はない。

 気を失っているだけのようだ。

 が…。

 平之助は目をしばたかせ、手で辺りの空気を払う。

 何だこの猛烈な臭気は…。

 平之助の意識も遠のいてゆく。

 刑部の上に折り重なるように、平之助も倒れ込んでしまった。



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