第4話 第1部 その3

「馬鹿者!撃つな!」

 橘藤の大音声が、部屋の中を制した。

 雪華の右腕に気は充満しているが、振り出す寸前に踏みとどまった。

「竹中!和田!川村!銃を収めろ!」橘藤は鋭く叱責する。「花澄君も、右手を引きたまえ。平之助君を利用したことは悪かった。謝罪しよう。だがここでことを起こすと、つまらぬことで君を逮捕せねばならん」

「だと、どうなるの?」

 雪華は右腕を構えたまま、無表情に訊いた。

「我々の目論見に支障が出る」橘藤は云った。「我々の目論見は一刻を争うのだよ。それもこれも、実は花澄君、君にかかっていてね。…よかろう、もっと単刀直入に云おう。川村!」

「ハッ!」

 扉の脇に立っていた隊員が部屋を出た。

 しかし川村はすぐに戻って来た。

 観察窓の下に、変化があった。

 現れた隊員たちが、白木の箱の蓋を次々と外してゆく。

 雪華の表情が、変わった。

 鋭かったまなざしが、驚愕で大きく見開かれている。

 その外された蓋の下から現れたのは…。

 その棺桶の中に横たわっていたのは…。

 まずは、大江雪緒おおえゆきおであった。

 続いて、その夫である大江仁一おおえじんいち

 そして…。

「あッ…」

 雪華は思わず声を上げた。

 三つ目の棺に横たわっていたのは、丸山まるやまトミ子なのであった。

 雪華は観察窓にすり寄って額を押しつけ、まじまじとこの光景を凝視している。

 橘藤は内心哄笑しつつも、それは表にはおくびにも出さない。

 しかし、次の瞬間、その内心の哄笑も、橘藤の心から消えた。

 こちらをギロリと見やった、雪華のまなざしがあまりにも凄まじかったからである。

「川村!」

 橘藤はその雪華のまなざしをまともに受けつつ、呼ばわった。

 ここで目を逸らせば、間違いなく殺される。

 間髪入れず、ことを進めねばならない。

 橘藤はいつしか真顔になっている。 

 川村がまた出て行き、そしてまたすぐ戻って来た。

 竹中も和田も、緊張に満ちた顔付きで立っている。

 いつでもまた拳銃を引き抜ける体勢だ。

 するとまた、観察窓の下に変化が現れた。

 隊員に連れられて入って来たのは、粗末な着物姿の、若い女であった。

 女は、不安そうに部屋の中を見回していたが、すぐに棺とその中身の存在に気付いたらしく、ギョッとしたようにその方を凝視したまま、立ちすくんでしまった。

 観察窓のこちら側では、雪華が女のことを凝視している。

 もちろん向こうの女は、それに気付いた様子はない。

 雪華は再び橘藤の方を見た。

 睨み据えた、と云った方が良い。

 橘藤が何を企んでいるのか、雪華は即座に理解している。

 そして窓の向こうの若い女が、いったいどういう女なのかも…。

 雪華は再び、その女を凝視する。

「あの女には、すでに伝えてある」橘藤は云った。「あとは君次第だ」

 雪華は答えない。

「ただし…」橘藤はさらに続ける。「もう時間はない。愚図愚図していると、間に合わなくなる。特に君の友人だった丸山トミ子君に関しては、死亡してからの時間がすでにある程度経っていることと、死体に与えられたダメージが大きいのでね」

「…ちゃんと、元に戻るの?」雪華がポツリと云った。「ちゃんと元の身体に戻って、元の生活に戻れるの?」

 そう云うと、雪華はまたキッと、橘藤を睨み据えた。

 が、その眼力はさっきと比べいくぶん弱くなっている。

「正直に云おう」橘藤は云う。「大江夫妻はかなりの確率で、元に戻るだろう。しかし丸山トミ子君は、かなり重い障碍が残る可能性が高い」

「障碍って、どんな?」

「それはわからない。身体に残るか、知能に残るか、そのどちらもなのか…」

 雪華は再び、観察窓な向こうの、棺に横たわる丸山トミ子の姿を凝視する。

 大江雪緒も大江仁一も同じなのだが、トミ子も白装束に三角巾を頭に付け、周りは真綿で埋め尽くされている。

 綿の海に浮かんでいるようにも見える。

 バラバラに切断されたはずだが、その傷はここからでは見えない。

 大江仁一は額に穴が開いているが、胸を撃たれた雪緒は何の傷も見えず、生前と同じく美しい顔を保っている。

 雪華がすべてを察したようなので橘藤はそれ以上説明しないのだが…。

 上野駅で駅弁を万引きして捕まった女は、もう一つ、驚くべき告白をしたのだった。

 自分は、蘇生術そせいじゅつの使い手である、と…。

 蘇生術…。

 雪華の手刀術と同様、マモノの術の一つである。

 今、観察窓の向こうの棺に横たわる大江雪緒も、その術の使い手であった。

 すなわち、生体が負った外傷を、場合によっては内疾患をも、念によって修復する術である。

 それだけではない。

 熟練すれば、失われた生命さえも、蘇らせることが出来るのである。

 ただし…。

 その場合、蘇生された者の生命が保たれるのは、蘇生させた者の生命がある間だけである。

 つまり、蘇生させた者が死ねば、その者によって蘇生された者もまた死ぬ。

 しかし…。

 その、死んだ蘇生させた者が、別の者によって蘇生されると、再び死んだ蘇生された者もまた、蘇生するのである。

 これが永劫に続くと、この世から死者がいなくなってしまいそうであるが…。

 だが、蘇生された者はいわば「仮の命」を得ただけであり、本来的かつ本質的には、やはり死んでいるのである。

 一旦蘇生してからの時間が経てば経つほど、再びの蘇生は、難しくなる。

 そして、初めて蘇生する場合であっても、死んでからの時間があまりに経ち過ぎると、蘇生するのは困難となる。

 つまり、腐乱がだいぶ進んでいたり、白骨化してしまっていたら、蘇生はムリである。

 蘇生は、一刻を争うのである。

 …今、観察窓の向こうに連れて来られた女が、おそらくその、上野駅で捕まった女なのであろう。

 一見、何の変哲もない、田舎から出て来た若い女であるようにしか見えない。

 顔立ちは整っている方だが、都会の女に比べれば素朴で垢抜けない感じに見える。

 女は棺桶を見て驚いた様子ではあるものの、取り乱した様子はない。

 ある程度、女に話は伝わっているのだろう。

 雪華は黙って観察窓の向こうを凝視し続けている。

 橘藤はじっと雪華を見つめている。

 竹中は額にじっとり汗を浮かべて、橘藤と雪華を交互に見やっている。

 とても長い時間が経過したように思われたが…。

「わかった」

 雪華がそう一言、低く呻くように云った。

「君が何をするのか、訊かなくて良いのかね」

 橘藤が云うと、

「どうせロクでもないことだろうし、後で聞けばいいことだ。それに、断ったとしてもロクでもないことになるんでしょう?」

 雪華は云って、冷たいまなざしを橘藤に向けた。

「ただし、条件がある」雪華はすかさず云った。「蘇った彼らがちゃんと元に戻れるか確認してからだ。もし蘇生に失敗すれば、断る。それから…」

「…何だね?」

「このすべてが、何かのワナじゃないだろうね」雪華は橘藤を見据え続けている。「もしそうだったら、あんたを殺す。必ず」

「現地の警察からあの女の捜索依頼が来ている。ワナではない。この俺が保証する。…それだけかね」

 雪華はしばしじっと橘藤を見据え、うなずいた。

「良かろう」橘藤はニッと笑い、「川村!」

「ハッ!」

 川村がまた扉の外に出て、すぐに戻って来る。

 観察窓の向こうでまた動きがあった。

 隊員が女に何か云った。

 女はうなずき、さらに隊員が指さして何か指示する。

 女は丸山トミ子の棺の傍らに行き、その身体に右手をかざした。

 そこにひざまずいた女は、瞑想するように、目を閉じた。

 雪華は再び、喰い入るように、その光景を凝視する。

 長い時間が、かかった。

 女は身じろぎ一つせず、ずっと右手をトミ子の骸に当てて、じっとしていた。

 そして雪華もまた、身じろぎ一つせず、この光景を見つめていた。

 橘藤も竹中も、和田も川村も、沈黙している。 

 やがて…。

「アッ…」

 雪華が短く叫んで、ガラスに額を押し付ける。

 トミ子の固く閉じられていた眼が、パッチリと開いたのである。

 女は、それでもなおしばらくは、トミ子の身体から右手を離さなかったが…。

 やがて、トミ子がまばたきをして、パクパクと何か云いたげに口を動かし始めると、ようやく女は、右手を離した。

 そして、今度は雪緒の棺の傍らにひざまずき、その身体に右手を当てる。

 雪華は息を呑んでこの光景を見守り続ける。

 雪緒の方は、それほど長い時間は掛からなかった。

 拍子抜けするほどすぐに、その眼が開いたのである。

 そして同時に、隣の大江仁一の眼も、開いた。

 その額の穴は、スウッと消えた。

 女は雪緒の身体から、手を離した。

「良かったな」

 橘藤はニッと笑ったが、たちまちその笑いを引っ込めた。

 雪華が凄まじく冷たいまなざしで、橘藤を睨み据えていたからである。



 同じ頃…。

 東部第七憲兵隊の本部前…と云うより、帝都市ヶ谷の、陸軍参謀本部並びに陸軍省の広大な敷地の門前である。

 門前には警備の兵が立っているし、敷地の周囲の道の要所要所にも、警備の兵の姿がある。

 こんな所をウロウロしていたらたちまち誰何すいかされ、不審なら詰所に連行されるのがオチだが…。

 そうならない者がいるのである。

 客待ちの輪タクや人力車の車夫である。

 輪タクとは自転車タクシーの略であり、人力車や市電と並んで、この頃の帝都の交通の華である。

 その中に、何故かあの刑部刑部の顔がある。

 輪タクの車夫に変装して、第七が動きを見張っているのである。

 が…。

 今夜は何の動きもなさそうである。

 刑部はアクビを噛み殺しつつ、

「畜生、空振りか」

 とブツクサ云うと、

「ヘーックショイ!」

 一つくしゃみをした。



 

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