第3話 第1部 その2

 闇の中に一人端座しているのは雪華である。

 雪華は、貫頭衣のような、麻の、灰色の服を着せられている。

 上半身は、両腕を後ろ手に縛られた上に、鋼鉄の拘束具をはめられている。

 喋ることも、立って歩くことも出来るが、両腕だけは使えないのである。

 そこは、六畳二間の小綺麗な和室であった。

 一見、旅館の一室のような造りであるのだが…。

 扉は頑丈な鋼鉄製であり、小さな窓には鉄格子がはまっている。

 両腕を鋼鉄で拘束された雪華の姿と相まって、異様な空間を形作っている。

 この部屋は第七…東部第七憲兵隊々員の間で通称「客間」と呼ばれている。

 洋室タイプと和室タイプがあるが、ここに泊まる「お客」にそれを選ぶ権利はない。

 選ぶのは隊長の橘藤である。

 その橘藤が、闇の中に端座する雪華の様子を、見下ろしている。

 その傍らには、副官の竹中がいる。

 二人が上野署に行った同じ日の、夜になったばかりである。

 二人はいつもの軍服姿に戻っている。

 「客間」の壁の上部に通風口があるのだが、それは実は、監視窓なのであった。

 特殊ガラス張りなので、雪華の側からこちらは見えない。

 橘藤は甘い香りのする細巻き葉巻シガリロをくゆらせて、まるで美術品か骨董品を鑑賞するかのように、雪華の姿を見やっている。

 その橘藤の様子に、竹中は少々苛立ちと焦りを感じていた。

 隊長殿…。

 しびれを切らして、竹中が声を掛けようとしてした時だった。

「竹中」橘藤が監視窓の方を見たまま口を開いた。「偶然とは云え、良いカムフラージュになったな。その何とか云う女優には気の毒だがな。…その女、美人なのか?」

「さあ」竹中はますます苛立ちと焦りを覚えつつ、答える。「あいにくそういう方面には暗いものですから」

「だろうな」大して面白くもなさそうな顔で橘藤は云った。「…おまえ、何をさっきから焦ってるんだ?」

 竹中はギクリとした。

 が、ここで云わなければ…。

「隊長殿。これは千載一遇のチャンスと思われます。と云いますか、隊長殿もそうお考えのことと…」

「竹中、おまえ、マモノか?」

「は?いや、滅相もございませんが…」

「マモノの中には人の心を読む奴もいるそうだが…」

「で、では、隊長殿もやはりそうお考えで…」

 竹中がホッとしたように笑顔になると、

「竹中。おまえは俺に指図する気か?」

 橘藤がギロリと竹中を睨む。

「いえ」竹中は顔を引きつらせる。「滅相もございません」

「竹中」橘藤は細い目をますます細めた。「俺がもし、おまえが考えているのと真逆の考えを述べたら、おまえは俺をどう説得するつもりだ?」

「ハッ…それは…」

 竹中な顔面は蒼白になり、額にじっとり、汗が浮かんできた。

「フン」橘藤は鼻先でせせら笑う。「竹中。覚えておけ。間違っても俺に指図したり、俺を説得しようなどと思うなよ。行くぞ」

 橘藤はピッ!とシガリロを投げ捨てると、監視部屋から足早に出て行く。

 竹中は硬張った表情で後を追う。



 ややあって…。

 先程と同じような監視部屋に、橘藤と竹中がいる。

 しかし先程の部屋よりこちらのほうがずっと広いし、特殊ガラスを張った監視窓もずっと大きい。

 ちなみに、これら監視部屋は正式には「観察室」と呼ぶ。

 当然窓も、「観察窓かんさつそう」が正式な呼び方である。

 その観察窓の眼下に、複数の長方形の白木の箱が並んでいる。

 観察室の扉が、ガチャリと開いた。

「隊長殿、連れて参りました」

 若い隊員が敬礼をして、サッと扉の脇に立つ。

 入って来たのは、雪華であった。

 上半身は鋼鉄の拘束具をはめられたままであり、服装も灰色の貫頭衣のままである。 

 雪華の後ろにはさらに三人の隊員が従っていて、一人は観察室に入り、二人は表に立った。

 扉が、閉められた。

 雪華は鋭いまなざしで部屋の中をぐるりと見やったが、何も云わない。

「花澄君」橘藤はニッと笑う。「そのような不自由をお掛けして申し訳ないが、一応規則でね。…しかし君の能力なら、そんなものを断ち切るのは訳ないと思うが、何故そうしないのかね」

 雪華はじっと橘藤を見据えるだけで何も答えない。

「返事をしないか!」

 竹中が怒鳴るのを、橘藤が右手を挙げて制する。

 橘藤がツカツカと雪華の方に寄ってゆく。

「アッ、隊長殿…」

 竹中は思わず声を上げた。

 橘藤が雪華の後ろに回って、カチャカチャと拘束具の鍵を外したからである

 橘藤はさらに胸からナイフを取り出すと、後ろ手に縛っている雪華の縄も切った。

「今から君と行うのは訊問じゃない。取引だ。つまり、我々と君は、対等だ」

 橘藤は云った。

 雪華はなおも黙っている。

「さっきも云ったように、君の能力があれば、拘束具を外すはもちろん、ここから逃亡するのだって訳ないはずだ。それをあえてしなかった。何故だ」

「私はそっちに入るんじゃないの?」

 雪華がようやく口を開いた。

 云いながら雪華は観察窓の向こうを指さしている。

「そこは死刑場じゃないの?そこに並んでるのは、棺桶でしょう?私一人を死刑にするには、数が多い気がするけど」

「ハハハ…」

 橘藤は笑い出した。

「なるほど」橘藤は笑いながら云う。「それは考えなかった。なるほど。確かにあれは棺桶だ。だが、君が入るんじゃない。と云うか、あの棺桶にはもう中身が入っている」

 雪華が怪訝な表情になる。

「まあ、それは今は置いておこう」橘藤は愉快そうに続ける。「君は死刑になどならないし、裁判にも掛けられない。君が殺したのは、我々第七に処理命令が出ていた連中だ。まあそれ以外にもずいぶん殺したが、どうせ全員ロクでもない奴らだ。ところで、君は昨晩いったい何人殺したか、知っているかね?総勢72人だ。多分我が国において、近代刑法成立以来、一人で一度に殺害した人数としては、史上最多となるだろう。…おや、これは失礼。そんなことは聞きたくなかったかね」

 雪華は耳を塞いでうつむいていた。

 が、やがて首を振ってまた橘藤の方を、キッと見据えて云った。

「自分がしたことだから、罪の報いは受ける」

「なるほど」橘藤はまたニッと笑う。「あっぱれな心掛けだが、先程云ったように、君は裁判にも掛けられないし、従って死刑にもならない。君は我々第七のやる仕事を代りにやってくれたのだ。手間がはぶけたので、むしろ我々としては、感謝しなければならない。が…」

 橘藤はわざとらしく一呼吸置く。

 雪華は橘藤を見据えたままだ。

 橘藤は続ける。

「それはあくまで我々…いや、この私がそのように裁量しているからだ。私が不問に伏しているからだ。もし、私がそうしなければ…」

 橘藤はまた一呼吸置くのだが、雪華は全く顔色を変えることもない。

 何となく橘藤が負けているように、竹中には思えた。

「君が思っているとおり、君は死刑になる」

 橘藤は重々しく云ったが、それが全く効果を上げていなかった。

 橘藤もそれに気付いたのか、小さく咳払いをした。

 雪華は全く動じた様子がない。

「取引って何のこと?」

 雪華が云った。

「…うむ。ではその話をしよう」

 橘藤は、話の主導権を握られてしまったのを感じたが、焦りを表に出さぬよう気をつけつつ、言葉を続ける。

「今朝、上野駅で一人の女が、駅の売店で万引きして捕まった。駅弁を持って逃げようとしたのだ」

 雪華はまた怪訝な顔をしたが、黙っている。

 橘藤は続ける。

「上野署に連行された女は、取り調べの刑事に対し、驚くべき告白をした。女は、中越地方の山中にあるという、竜宮寺製薬の秘密工場から逃げて来た、と云うのだ」

「竜宮寺…」

 雪華の表情が、わずかに変わった。

 しかし、それ以上は何も云わない。

「飲まず食わずでどうにか汽車に乗って上野まで来たが、もはや金の持ち合わせもなく、空腹に耐えかねて、駅弁をかっぱらって、捕まったという訳だ。かねてから我々は竜宮寺製薬の秘密工場に関して探りを入れ続けていたが、我々をもってしてもどうしても尻尾をつかむことが出来なかった。それを上野署には内々に伝えてあった。と云うのも、中信越地方から帝都への玄関口と云えば、上野なのでね。いずれこういうこともあるだろうと考えての措置だ。それで、すぐさま上野署から我々に連絡が来た、という訳だ」

 雪華は黙っている。

「何か質問はないかね?」

 橘藤は訊いたが、雪華は首を横に振る。

「何故我々が竜宮寺製薬の秘密工場を探っているか、知りたくないかね」

 橘藤は重ねて云ったが、雪華はまた首を横に振る。

「別に聞きたくないし、知りたくない。私には関係のないことだ」雪華は鋭く橘藤を見据える。「そんなことをもし聞かされたら、否応なしに私がそこに巻き込まれる」

「フン、賢いな」橘藤は再びニヤッと笑う。「だが、悪いが無理矢理にでも聞いてもらう。その秘密工場で作っているのが「法悦丸ほうえつがん」だ。「法悦丸」を知っているかね」

 雪華は両手を耳に当てて、首を横に振る。

「実は君の友人、いや、義理のお兄さんだったね、杉戸平之助すぎとへいのすけ君にも、その「法悦丸」を飲んでもらったのだよ。あの「帝国グランギニョールランド」で彼は勇猛ぶりを発揮していたが、あれは「法悦丸」のお陰だよ。「法悦丸」は興奮作用と幻覚作用の両方をあわせ持つ、大変優れた精力剤なのだ」

 平之助の名前が出て、雪華は再びハッとした。

「平之助さんを、利用したんだね」

 雪華の声が震えた。

「あッ!隊長殿ッ!」

 竹中が叫び、腰の拳銃を抜いた。

 背後の二人の隊員も拳銃を抜いた。

 雪華が右手を正眼に構えたのだ。

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