第2話 第1部 その1

 翌日の正午過ぎである。

 帝都、警視庁上野警察署前。

 黒塗りの乗用車から、二人の男が降り立った。

 しかし、二人が車を降りたのは、上野署の真ん前ではなく、通りをはさんだ向かいに建つ病院の前だった。

 二人とも地味な背広姿であり、ソフトを目深に被っている。

 そのうち一人は、顔に斜めに包帯を巻いている。

 鋭く細いまなざしを持ち、唇の上にこれも鋭く細い口髭をたくわえている。

 その男が、目の前の病院を見上げて、もう一人の男に云った。

「竹中。なぜ警察署の真ん前に産婦人科があるか知ってるか」

 竹中と呼ばれた、ロイド眼鏡をかけた実直そうな男は、鳩が豆鉄砲くらったような顔をした。

 なるほど、確かに目の前の病院は産婦人科である。

「さあ、わかりませんが」

 竹中は答えた。

 すると包帯の男はニヤッと笑って云った。

「ここに来るのは主に吉原や玉の井の女だ。要するに、ここは産ませる専門じゃなく、その逆ってことだ。そしてそれがここにあれば、警察も管理がラクってことさ」

「はあ…なるほど」

 そう答えた竹中は思った。

 今の隊長は、すこぶる上機嫌だ。

 昨日の今日でろくに眠っていないはずだが、隊長には関係ないらしい。

「しかし、この騒ぎは一体何でしょうか」竹中は上野署の方を見て云った。「もうブン屋が嗅ぎつけた…」

「まさか」包帯の男がせせら笑う。「たかがこれしきのことで連中がこんなに集まる訳なかろう」

「裏へ廻りますか?」

 竹中が云うと、

「いや、時間がもったいない」

 云いながら包帯の男は通りを横切ってゆき、竹中もあとに続く。 

 確かに、上野署の前は大勢の人間がいて、騒々しい。

 鳥打帽を被り、動きやすいニッカーボッカー姿で、せわしない目付きで手帳を広げ鉛筆を舐めているのは、新聞記者ブンヤ連中である。

 あとは野次馬であろう。

 二人が車を通りの向かいに駐めたのは、たまたま上野署の前がこんな状況だったからでもあるが、そうでなくても、わざわざそうしたはずであった。

 それ位、今回の件は内密のことなのだ。

 二人が地味な背広姿なのもそのためだ。

 二人の男はたむろする連中の間をかき分けて、上野署への石段を上がってゆく。

 と、鳥打帽姿で手帳を持った男の一人が、包帯の男の背広の袖をグイッと引っ張った。

 いかにもはしこい感じの若い男である。

「ちょっと、あんた潮乃しおのしぶき殺しの関係者ですかい?…うわッ、痛てててッ」

 その不躾な記者の手を竹中が引き離し、軽くひねり上げたのだ。

「ヒッ!」

 記者が小さく悲鳴を上げたのは、ひね上げられた手の痛さのためだけではない。

 包帯の男がギロリと睨んだ、その眼光の鋭さにビビったのだ。

「散れ」

 包帯の男は記者に冷ややかに一言云うと、石段を再び上がっていった。 

 竹中も記者を突き放すと後に続いた。

 入口脇で記者たちと押し問答している見張りの警官に竹中が何か囁くと、警官はハッとして慌てて敬礼した。

 包帯の男と竹中は、上野署の中に入ってゆく。

 その姿を見やりながら、先程の記者の男が、

「クソ…。あいつら一体何者だ?」

 と、ひねられた手をさすりながら、傍らの年長の記者に訊いた。

 すると、訊かれた記者は声を潜めて云った。

「…ありゃ第七だよ」

「第七?」

「東部第七憲兵隊。包帯のヤツが、第七の橘藤だよ」

「エッ」訊いた記者は絶句した。「あれが第七の橘藤…。そいつが何でこんな所に?」

「さあね」

 年長の記者は云いながら、若い記者の顔がみるみるギラギラした野心に満ちてゆくのを見た。

「やめとけよ」年長の記者が心配気に云う。「あいつに喰らいついて無事だった奴はいないんだぜ」

「へえ」若い記者は舌なめずりする。「そいつはますます面白い」

「よせよ」年長の記者は重ねて云う。「命がいくつあっても足りねえぜ」

「ヘン、余計なお世話だ」

 若い記者は掌で鼻をこすりながら、云うのであった。 



「潮乃しぶきとは何者だ?」

 橘藤が竹中に訊いた。

 竹中は橘藤の副官で、大尉である。

 岡目八目と自負している(と思われる)橘藤でも知らないことがあるのか…と竹中は思った。

 とは思ったが…。

「自分も知りません」

 竹中は答えた。

 署内も、慌ただしい雰囲気である。

 制服、私服を問わず、警官が右往左往している。

 二人は受付も経ずに、そのまま階段を最上階の五階まで昇ってゆく。

 さらに五階の廊下の突き当たりの部屋の前まで来ると、竹中がその扉をノックする。

 扉の上には「署長室」とある。

「第七です」

 竹中が低く短く云うと、扉の向こうで明らかに慌てる気配があった。

 やがて開いた扉から顔を覗かせたのは、ゴマ塩頭に鼻の下にはやはりゴマ塩のチョビ髭をたくわえた、制服姿の小太りの男である。

「やっ、これは…。お約束は一時だったはずですが…」

 男がニコヤカに語りかけるのを遮るように、橘藤と竹中は無表情に敬礼する。

 男も慌てて真顔になって敬礼する。

「いや、これはこれは」男は敬礼していた右手を下げると、またニコヤカな顔に戻った。「隊長殿直々にいらっしゃるとは…。しかし偶然とは云え、よりによって今日とは…」

「何があったのかね」

 橘藤が無表情な声で訊いた。

「イヤ、そちらにご連絡した例の件…」

 男が云いかけると、突然竹中が男の身体を扉の向こうに押し戻しながら、橘藤と共に入って来た。  

 橘藤が後ろ手に扉を閉める。

「署長、発言は慎重に願いたい」橘藤は静かながら鋭い口調で云う。「あんたたちにはつまらん事件でも、こちらにとってはそうではない」

「ハッ、そうでしたな」

「昼食の途中を失礼して申し訳ないがね」

 橘藤は立派な木の机の上に広げられた弁当をチラと見やって、皮肉な口調で云った。

「しかし」橘藤は皮肉な調子のまま続ける。「部下はてんやわんやなようだが、署長は呑気に昼飯かね」

「イヤ…」署長は明らかにムッとした顔になった。「食わんと体力がもたんのでね。それにあんたたちが来ると聞いたから、早目に…」

「で、何があったのかね」

 橘藤は署長を遮って云った。

 署長はますますムッとしたが、二つ大きな咳払いをしてから、云った。

「あんた方に連絡をした件があった後で、同じ上野駅の便所で、女の絞殺死体が見つかったのだ。身元を調べたら、潮乃しぶきという舞台女優だった。…流石の第七も、今日の今日では情報が追いつかなかったようですな」 

 一矢報いて署長はニヤリとしたが、二人の男は無表情のままだ。

 署長は気圧されて、また咳払いをして続ける。

「潮乃しぶきは暴行された形跡はなく、金がなくなっていたから、いわば追い剥ぎですな。そんな訳で…」

「では早速、面通しさせてもらいたい」橘藤はまたも署長を遮って云う。「その女の云うことが本当なら、ことを急ぐのでね」

「しかし」署長は慌てる。「そっちの殺しの件で人を取られていて、その女の取り調べはまだ充分に出来てないんで…」

「それはこちらで調べるので結構です」竹中が云った。「それより、この件に関しては、署内でどれほどの人間が知っているのですか」

「今の所、取り調べた刑事と私…」

「ならば」橘藤はニヤリと笑った。「署長もその刑事たちも、この件については一切忘れることだな。この件は我々第七がお預かりするのでね」

「しかし」署長はなおも云う。「それではウチの連中が納得しませんよ」

 橘藤の目が、ギロリと鋭く光った。

「それを納得させるのがあんたの仕事だろう。我々はその女を無理矢理連行することも出来るところを、こうしてあんたの顔を立ててここにわざわざ来てやったんだ。あんたもしっかり自分の仕事をするんだな。愚図愚図しないで、とっとと案内するんだ」

 橘藤は静かだが、鋭く刺すように云った。

 署長も蒼白の顔を震わせていたが、黙って先に立ち、扉を開いた。



 それから、ややあって…。

 上野署の裏口に、黒塗りの自動車が横付けされ、そこにそそくさと乗り込む人の姿があった。

 乗り込むやいなや、自動車はタイヤを軋ませ、猛スピードで発進する。

 と…。

 上野署の陰から躍り出て、これもあらん限りの猛スピードで後を追うのは…。

 一台の自転車である。

 懸命に漕いでいるのは、先のあの、若い新聞記者である。

 この男、名を刑部刑部おさかべぎょうぶと云い、「帝都日日新聞」の記者なのである。

 刑部は懸命に自転車を漕ぐのだが…。

 悲しいかな、自動車と自転車では、結果は火を見るより明らか…。

 黒い自動車はたちまち、刑部の視界のはるか彼方へと、土埃を巻き上げながら、消え去ってゆくのであった…。

「ヘッ!」しかし刑部は掌で鼻をこすりながら、負け惜しみを云う。「おまえたちの行き先なんて、ハナからお見通しなんだ。ナメんじゃねぇぜ!」

 

 

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