続・魔俠伝 六花地獄

自嘲亭

第1話 プロローグ 

「お嬢、お嬢ーッ、どこにいるんですかーいッ」

 夜闇よやみ川面かわもに、かん高くとっぱずれた男の声が響き渡る。

 先程までの乱闘がウソのように、今はひっそりとすべてが鎮まり返っている。

 ここは帝都の東端、県境を流れる川の河口辺り…。

 と…。

 バシャッ…。

 向こうの方で、音がした。

 とっぱずれた声の主…短く丸めた頭に額の傷、三白眼に出ッ歯という、顔付きだけは凶悪そうな男だ…は、ハッとして、その音の方へ、舳先へさきを向ける。

 男は小舟に乗って櫓を漕いでいるのだ。

 舟は、この辺で「べか」と呼ばれているものだ。

 バシャッ、バシャッ…。

 小舟も近付くが、音の方も近付いて来る。

 やがて…。

 黒い水面を、何か白くなまめかしいものが、かき分けて来る。

 しかしそれは白いばかりでなく、何やら艶やかな極彩色にもいろどられている…。

 男はしかし、夜闇の水面に目を凝らすばかりで、例えばカンテラなどで照らそうなどとはしない。

 それは追手に位置を悟られないためなのだが、だから男にはその極彩色まではわからない。

 不意にガッ!と小舟のへりに白い手がつかまった。

 続いてもう一つの手がガッ!とへりをつかむ。

 そしてザ…ッと、白いものが水の中から躍り出る。

 男はびっくりまなこでそれを凝視していたが、ハッとして慌てて目を逸らす。

「お嬢、素ッ裸なら素ッ裸って、云って下さいよ!」

 水から上がって小舟に乗り込んで来たのは、男が云うように全裸の若い女であった。 

 抜けるように白く透き通った肌、その裸身に絡みつく長く艶やかな黒髪、美しく整った顔、そして何よりも印象的な、意思の強そうな、鋭いまなざし…。

 だがその女は、船に上がるやいなや、全身震わせて、小さく縮こまって、しゃがみ込むのであった。

 男は、女の方に近寄って、用意してあった手拭を手渡す。

 女は震える手でそれを受け取り、震える声で云う。

「辰さん…ありがとう」

 その意志の強そうなまなざしと裏腹に、その綺麗な響きの声は何ともやるせなく儚げで、男は思わず抱きしめてやりたくもなるのだったが…。

 いけねえいけねえ。

 そんなことしたら、たちまちこの白い細腕が刀になって、こちとらの首がストンと落ちちまわあ…。

 女は受け取った手拭で、まずその黒髪を拭き始めた。

「はあ」辰と呼ばれた男は呆れ顔になった。「こんな時でもまずは髪ですかい。髪は女の命とは云いますがねえ…。ほら、これを羽織りなせえ。風邪引いちまわあ」

 云いながら辰は、これまた用意してあった長襦袢を、その女の裸身に掛けようとして、ギョッとして云った。

「うわ、お嬢、こりゃいったい何です?」

 辰が驚いたのも、無理はない。

 女の背一面に、極彩色の刺青が、施されていた。 

 先程の極彩色の正体がこれである。

「…似合う?」

 女は髪を拭きながら、辰にニッコリ微笑んでみせる。

「似合うって…」辰は絶句して、ようやく言葉をつないだ。「こりゃ、観音様ですかい」

「悲母観音って云うのよ。彫鉄さんに彫ってもらったの。ずいぶん長い間川ン中に居た気がするから、観音様も赤ちゃんも、風邪引いちゃうんじゃないかって、気が気じゃなかった」

「赤ちゃんって…ハァ、確かに…」 

 観音様の斜め下に、赤ん坊の姿が彫られている。

 観音様と赤ん坊は紐のようなもので。結ばれているのだが…。

 この紐は、あン時の傷ですかい?

 訊こうと思ったその言葉を、辰は呑み込んだ。

 その時である。

 川の向こうが、突然カッと幾重にも明るくなった。

 エンジン音と共に、その灯りはぐんぐん近付いて来る。

「いけねえ」

 辰は慌てて櫓をひっつかみ、大急ぎで漕ぎ出す。

 女も急いで長襦袢をまとって帯を締める。

 が、相手は軍の高速艇である…。

 たちまち、前後左右を囲まれてしまった。

 そのうちの一艘から、

花澄雪華はなずみゆきか。無駄な抵抗はやめろ」

 と低く鼻にかかったような男の声がした。

「気をつけろよ」その男の声が続いて云う。「さっきおまえたちも見ただろう。こんな華車な娘だが、云わば動くギロチンだ。殺戮マシーンだ。いいか、俺が指示しない限り、絶対におまえたちも手を出すな!」

 そして男の声は、

「と云う訳だ。花澄君、君も無駄な抵抗はよしたまえ。ここにいる全員が、君に向けて銃を構えている。…大人しく手を挙げるんだ」

 ライトの群れに囲まれて、花澄雪華と辰の姿だけが、その中に浮かび上がっている。

 低い声の主である男の姿は、眩し過ぎて雪華からは見えない。

 見えないが、大勢が異様な緊張をもってこちらを注視しているのはわかった。

「キットウさん…だったね」

 雪華はいまだ手を挙げず、揺れる小舟の上に仁王立ちで、胸の前で腕組みしたまま、云った。

 先程のやるせなく儚げな声と真逆の、ドスの利いた低く不敵な声である。

「覚えていてくれて光栄だ。その通り、自分は東部第七憲兵隊々長、橘藤伊周きっとうこれちか中佐である」

 男の声が答えた。

「一つ約束して欲しい」雪華が云った。「ここに居る彼は、このまま安全に解放してやって欲しい。彼は私を助けようとしただけなんだから」

「…よろしい。約束しよう」

「約束を破ったら」雪華はニッと笑った。「あんたら全員殺す」

「約束は守る。軍人に二言はない」

 橘藤がそう答えると、雪華は両手を挙げた。

「お嬢…!」

 叫ぶ辰に、雪華はニッコリと微笑みかける。

「いいんだよ、辰さん。心尽くしてくれて、ありがとうね」

「何だいお嬢、せっかくまた会えたってのによう、もうお別れなんて…」

 辰は右腕を目に押し当て、鼻をグスングスンいわせ始める。 

「ふふッ」雪華は笑った。「辰さんって、案外泣き虫なんだねえ。…私のことなら大丈夫。上手くやるよ。また、助けてね」

 最後のそっとした囁きに、辰がハッと顔を上げた時にはもう、雪華は両手を挙げたまま、小舟に接した高速艇に、ひょいと軽々と、乗り移っていた。

「では花澄君。規則により君を拘束する」

 橘藤が云うと、部下の一人が意外そうな声で訊いた。

「隊長殿、逮捕ではないのですか」

「馬鹿者。拘束だ」

 声は怒鳴っているが、橘藤はニヤリとしている。

 再びエンジン音が鳴り響き、高速艇は文字通り高速で小舟から離れ、他の艇も次々それに従う。

 波が逆立ち、あおりを喰らって…。

「ありゃりゃりゃッ⁉」

 小舟は転覆し、辰は川面にドボンと落ち、波間に消えた。

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