1話 土産は処女で
一週間前。
学校から帰宅した僕は、郵便受けから頭一つはみだす一通のエアメールを抜き取った。雲海に浮かぶ切り立った岩峰がプリントされた絵葉書を裏返してみると、シンプルなメッセージが一文だけ。
『ダーリンへ
今から❤日本に帰ります
アナタの許嫁・斎部彩々』
イイナズケ―――――。
この前時代的かつ封建的でどこかしら漬物的な響きを含んだ言葉は、小春日和にもかかわらず僕の背筋をバッキバキに凍りつかせた。
いたなあ…………そんな奴…………。
その名前に苔むす記憶が呼び覚まされる。
よくある話だ。
本人達以上に仲の良かった互いの両親同士が、「ウチの子とアナタの子が結婚したらアタシ達家族になれるのにねー。うふふふ~~」なんて勝手に盛り上がったあげく、当人達になんの了承もなく勝手に婚約を決めてしまう。
そんな映画や小説でお馴染みの設定とは全く関係なく、バリバリ本人主導で婚約を交わしたことが確かにあった。
とはいえ、当時の二人は幼稚園児。十年以上も前の約束をまさか本気にしていたなんて。
小学校卒業と共に彩々が中国に転校して、めでたくご破算になっていたものとばかり思っていたけれど。
玄関に立ちつくし、初春というにはあまりにハリキリすぎな日差しに背を焼かれ、
「……ハートの位置おかしいだろ……」
ようやく一言つぶやくと、顎から滴った汗が絵葉書にシミを作った。
※
「リョーアン……やっと、気付いてくれたんだね……」
―――ミシリ。
築三十年を超え、そろそろ老朽化が心配されるリフォーム会社垂涎の一戸建て。その二階の床が微かに軋んで音を立てたかと思うと、
「会いたかったよ――――――! リョ―――ア――――ン!!!」
「ぐぅえぇっっ!」
胸板に強烈な衝撃が飛び込んできた。
抗うべくもなく後ろのベッド倒れこむ……
「どぅりゃああああ!」
……勢いを利用して、体にへばりつくソイツを巴投げの要領でブン投げた。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああ」
目には見えない質量を吸収したマットの凹みが、枕元から足もとへとウェーブのように走り、
ドシ―――――――ン!
あ、落ちた。
「いったぁぁぁい! 酷いよ! 一度ならず二度までも暴力を!」
ベッドの向こうから泣き声が上がる。
しかし、いない。どこをどうみてもこの部屋には僕の他に誰もいない。
「なんてドメスティックなの! このドメスティック男!」
姿なき幻聴に、家庭的な男と誉められたのか?
「幻聴じゃないって、リョーアン」
「やめろ、僕の名前を呼ぶな、幻聴のくせに! もし、幻聴じゃないとしたらなんなんだ! ポルターガイスト? ひぃぃぃぃ、幻聴の方がよっぽどマシだあ!」
「ポルターでもないもん!」
床に落ちていた雑誌がふわりと浮かび、猛烈な勢いで飛んできた。
「はい、来た! 典型的なポルターガイスト現象いただきました!」
「違うもん!」
バシバシと机を叩く音が部屋中に響き渡る。ラップ音というやつだ。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
「オキョー唱えないで、成仏しないから! アタシ死んでないから! とーめー人間になっただけだって何度言えばわかるの? ほら、彩々だよ、見たらわかるでしょ?」
無茶言うな。
「ひ、ひどい。ひどいよー。許嫁の顔を忘れるなんて~」
……いや、だから、顔は覚えてるんだって。
姿なき幻覚は、よよよと泣き崩れているのだろう。声が涙に震えている。
「……許嫁」
言葉の味を確かめるように口の中で呟いた。
絶対に秘密にしようと誓い合った。一人でも他人に漏らしたら婚約はナシだと。
もちろん、僕は誰にも言ってない。このことを知っているのは、僕以外にこの世でただひとり。
「……インベーダーだけだよな」
「誰がインベーダーよ、誰が! そのあだ名やめてって言ってるじゃん!」
そして、俺が密かに名付けた『インベーダー』というニックネームを知っているのも、全宇宙でただひとり。
「彩々……なのか?」
恐る恐る口に出してみた。
「そうだよ。彩々だよ、リョーアン」
「そこにいるんだな?」
誰もいない部屋に呼びかける。
「うん。いるよ。ここにいるよ」
誰もいない部屋で声だけが答える。
「……なら、手を握ってみろ」
我ながらバカみたいだけれど、僕は本棚に向かって右手を伸ばした。
心臓が一気に早鐘を打ち始める。
一歩、また一歩と歩み寄る度に足元が揺らぐ。まるでかって知ったるこの現実が今にも崩壊しようとしているようだ。
いるのか。本当にそこにいるのか。見えない彩々が。
して、震える指先がついに感触を捕らえた。硬く無機質な……
本棚の棚板の感触。
「リョーアン、アタシ後ろだよ」
「早く言えや!」
真逆向いて何やってんだ、恥ずかしい!
気を取り直して今度は扉に向かって手を伸ばす。
今度はすぐに手応えがあった。まるで向こうから飛びついてきたようにしっかりと握りしめられる。薄い掌、細い指。目には見えない、しかし、間違いなく二つの人間の手が僕の手を握りしめていた。
「リョーアン、アタシだよ…………わかる?」
「………………うん、手の感触だけだと誰かわかんない」
「リョ――――ア――――ン!」
「ぐぅええ!」
言い終るより早く、感極まった声とともに再び胸が衝撃に襲われた。なすすべもなく再びベッドに倒れこむ。
「リョーアンリョーアンリョーアンリョーアリョーアンリョーアンリョーアン!」
「うおっ! うおっ! ちょ、や、やめろ! うわっ、ぎぃやああああ!」
「うれしー! リョーアン。やっと、やっと会えた。ずっとこうしたかった。ずっとこうしてほしかった。ふううう、リョーアン、リョーアン!」
目に見えない何かが体の上にのしかかって、這いまわって、締め上げる。
いる。
確かに、僕の体の上にいる。
細い腰、柔らかな腕、華奢な胸、そして肋骨をたたく激しい心臓の鼓動が、網膜に映らない彩々の存在を教えてくれる。
「本当にいるんだな……彩々」
「うん……リョーアン……」
彩々が首をもたげたのだろう。首元にのしかかっていた重さがふっと消えた。生暖かい液体の感触が僕の頬を打って流れ落ちる。
彩々が僕を見つめているのが分かった。
「リョーアン…………結婚……しよ?」
「無理」
「え……?」
間の抜けた彩々の声が降ってきた。そして流れるしばしの沈黙。
「うっ、ううん!…………リョ~アァン、結っっ婚しよっっ?」
咳払い一つを挟んで、鬱陶しいくらい情感たっぷりのセリフが浴びせられるも、
「いや、だから…………無理」
「……なんで?」
声に露骨な冷やかさがこもった。
「なんでって、ほら、なあ? 再会したばかりでいきなりそんな結婚って、なあ?」
「あ、ああ、そうか! そーゆー事かあ、ごめんごめん。いくらなんでもいきなりすぎたよね、アタシ。ちょっとテンションあがっちゃって。あははは」
髪の毛をぼりぼりと掻き毟る音が聞こえた。
「あ、ああ。そうなんだよ。いくらなんでも、ほら、僕たち高校生だし、十年ぶりだし」
お前透明だし。
「そーだよねー。そーだよねー。順番すっとばしすぎだよね。結婚の前に色々やらなくちゃいけないことあるし」
「うんうん。そうそう」
「じゃあ、エッチしよっか?」
「違う違う違う、そーゆーことじゃないんだ! そーゆーしなくちゃいけないことじゃないんだ」
「あれ、違うか? 違うよね。ごめんごめん。なんかアタシもテンパちゃってて。そうだ。帰ったら渡そうと思ってたお土産があるのよ。欲しい?」
「お、おお、欲しい欲しい。なんだよ、くれよ」
「世にも珍しいアタシの処女という名のお土産が……」
「ワーオ! めっずらしーって、バカ! どこの地方のお土産だ! そんな土産持たせる国があるか。そーじゃなくて、ほらこの十年でお互いに知らないこともいっぱいできただろうし」
「ああ、そうだよね。まずはそれを知りあう事が先決だよね…………じゃあ、アタシの体、確かめて。隅から隅まで舌と指で!」
「結局全部それだろがあああああああああああああ!」
結局巴投げでブン投げた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ベッドのマットに目には見えない質量を吸収したヘコミが生まれ、それがウェーブのように足元から枕の方へって…………あ、そっち壁だ。
ビタ―――――――――ン!
「ふんぎゃあ!」
家が揺れた。
「ちょっと! さっきから人のことポンポン投げないでよ! アタシはあれか、あの、ほら、えっと、柔道技の練習とかに出てきそうな感じの、木の人形か!」
「例えるの下手だな、お前!」
「くうう。なによなによ。とーめー人間を怒らせたらどーゆー事になるか教えてやるぅぅ」
彩々が手をついて立ち上がったのだろうか、ベッドのマットがぐにゃりとへこんだ。
「な、なんだ、おら。かかってこいや」
不穏な空気を察し、即座に身を引いて壁を背にする。透明人間だかなんだか知らないが、所詮は女の力だ。後ろをとられさえしなければなんとでもなる。
「透明人間必殺奥義・召喚魔法!」
「透明人間関係ねえ!」
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