第52話 ピンときた


 和泉いずみ佐夜子さよこにとって、それは青天の霹靂であった。


 いつものようにパートから車で帰り、その道すがら寄ったスーパーで考えた今夜の献立は麻婆豆腐で、帰宅時に「ただいま」と声を出したものの玄関にはまだ息子の靴が無く、自分が最初に家へと帰宅したのだと気づいていた。


 子供にとって寄り道をしないことは偉いともいえるが、高校生にもなれば話は別だ。どうも息子は幼馴染の五十嵐いがらしさん家のりんちゃんと、これまた近所に住んでいる貝塚かいづかさん家のしょう君ぐらいとしか交流がないようで、いつも家で本を読んだりゲームをしたりして過ごすことが多く、出かけるのも大体がバイトであったし、それが少しだけ佐夜子は不安だった。


 だが、ここ最近、妙に息子は家を出ることが多くなった。


 バイトのシフトを増やしたという話も聞いていないし、今日も何かしら私用で帰っていないのだと思う。


 その変化は佐夜子にとって嬉しいことであった。


 なぜなら、息子はどこか明るくなったような気がしていたからだ。


 息子が帰るのを見越して夕食の準備に取り掛かる。


 フライパンに油を垂らし、ひき肉とにんにくにしょうがを炒め、鶏がらスープと醤油を一さじ、さらに大きめに切り分けた豆腐を投入した。沸き立つ香りに腹が減る。予約しておいた炊飯器は予定通りにご飯を炊いてくれているし、あとはそれを平らげる家族の帰りを待つだけだと思っていた頃に、固定電話が鳴った。


 それを聞いて、珍しいな、と佐夜子は思った。


 夫と自分、さらに息子の家族全員が携帯電話を持っているために、もっぱら電話がかかってくるのは携帯電話がほとんどで、たまにかかってくるのはセールスなどの電話だ。もはや解約しようか――なんて夫と冗談交じりに話したこともある。


『和泉さんのお宅でしょうか?』


「はい。そうですけど?」


 電話に出ると、相手は坂倉さかくらと名乗った。


 息子の高校の養護ようご教諭きょうゆ、いわゆる保健室の先生であるらしい。


 どんな要件か疑問を浮かべていた佐夜子に、坂倉は驚くべき一言を口にした。


『お子さんが、刺されて病院に搬送されました』


 そこから――正直な話、細かいところを佐夜子は覚えていない。


 きちんと火は止めたし、電気も消した。戸締りもしたし、病院まで車で向かったが事故を起こすほど慌てていた記憶は無いし、自分が焦ったところで状況が好転するわけでもないのだからと、最後まで冷静でいられたと佐夜子は思う。


 後に医師から聞いた説明によると、運が良かったのだという。


 動脈が切られなかったために出血は抑えられ、刃先は腸までは届かなかった。さらに良かったのは刺されたナイフを抜かずにそのまま刺したままにしていた点らしい。刺されたナイフを抜けば傷口は広がるし、出血もさらに酷かったに違いない。それらの要因によって、搬送された息子の血圧は安定していたのだという。佐夜子は現場に駆けつけて応急処置をしてくれた坂倉先生に感謝してもし切れない。


 他に語るとするなら、佐夜子は手術と言えば麻酔によって意識をなくすものだと思っていたが、手術室で息子を待っていたのは局所麻酔だったようだ。


 駆けつけてくれた息子の友達である翔君と坂倉先生と共に事情を聞きながら待っていると、ストレッチに乗せられて手術室から出てきた息子には意識があった。


「悪い」


 息子は視線が合うとばつが悪そうな顔をしていて、一気に心配が吹き飛んだ。


「まったく心配かけて、もっと謝りなさい」


 そのまま病室に移動して説明を受けると、息子は糸抜までに二週間ほどの入院となるらしい。


 翔君と坂倉先生は、息子と少しだけ話をして病室を後にした。


 そのまま佐夜子が入院の手続きの用紙を埋めていると、新たな来客があった。


 それは息子のバイト先の店長であるくまさんと、切通きりがよいと名乗る女子高生と、その母であった。


 駆けつけてくれた切通さんにありがたいと思う反面、ただのクラスメイトがお見舞いに来るには早すぎると思い、佐夜子にはピンときた。涙目で息子の無事を喜ぶ娘さんの様子を見て、察するなというほうが無理な注文であるのかも知れない。


 そういう関係に縁がないと思っていたが、息子は意外と上手くやっているらしいと、佐夜子は知るのだった。

 

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