第11話 事件ですか? 事故ですか?
若いころは教師であり自らが経験者ということもあって柔道部の顧問をしていたために体力に自信があったが、年月というのは残酷なもので、頭はとうに白髪を通り越して頭頂部が透ける寂しさを醸し出していたし、耳が遠くなることもあれば物忘れや勘違いで家族に迷惑をかけることも多くなった。衰えるばかりの身体を思いウォーキングだけは毎日続けていたが、今日は昼寝をしてしまい、気づいたら外が暗くなっていた。
こんな時間から外出したいと申し出れば家族から反対されるのは目に見えていたし、桂はひとりで静かに家を出た。
安全のために懐中電灯も持っていたし、携帯電話もしっかり持ち出した。多少の肌寒さも昼間の熱さと比べれば過ごしやすいぐらいだと家を出た当初は考えていたが、これが思った以上に体にこたえた。
夜に出歩くこと自体が久しぶりであったし、こんなにも自分の住む町は街灯が少なかっただろうかと首を捻りながら、いつもは一時間ほどかけてゆっくりと歩く散歩コースを、十分もしないうちに引き返すことにした。
無理はよくない。
やはり自分はまだ正確な判断を下せる――そう思って安堵していた直後だった。
目の前にある自らの勤めていた私立高校の敷地内から、悲鳴が届いた。
正直に言って、足が竦んだ。
今、桂はたった一人であり、誰かを助けられるほどの体力はない。若いころならいざ知らず、今の自分が駆け付けたところで足手まといになることは目に見える事実であったし、数日後に控える喜寿の祝いの席に出られなければ遠方からはるばる来てくれる親族に申し訳が立たず、それ以上に孫の顔が見れない事態になれば素直に悔しいと思う。
しかし、持ち前の正義感の強さから、このまま何もしないわけにはいかなかった。
不意に思いついて携帯電話を取り出し、110を入力しようとしたところで不安がよぎる。
聞き間違いではなかったと思うが、正直にいうと確信がない。
散々悩みながらも、桂は通報することにした。
通話が繋がるまでの短い間に、ぼけ老人だと思われないように小さく咳をして喉の調子を整える。間違っていたら警察の方に申し訳ないが、それ以上に、困っている人がいるならば、見過ごすわけにはいかないと思った。
『はい110番、警察です。事件ですか? 事故ですか?』
桂は首を捻る。
直接目撃していないから、どちらなのか判断がつかない。
「事件……だと思います。実は、勝宮高校の敷地内から女性の悲鳴が聞こえまして」
『女性の悲鳴? 他に何か目撃されたりはしていますか?』
「散歩の途中に悲鳴を聞いただけですから、それ以外には何も……」
『こんな時間にお散歩を?』
「……はい」
『お名前を伺ってもよろしいですか?』
正直に話したが、担当者の反応は芳しくなかった。
確かに、自分の証言は曖昧過ぎるかも知れないし、考えてみれば悪戯電話に近い内容になってしまったかも知れない。
「桂栄治です」
『桂栄治、桂さん?』
しかし、桂が名を答えた瞬間に、担当者の声の調子が変わった。
『あの、柔道部の顧問をされていました? 桂先生ですか?』
「……そうですが?」
桂がそれを認めると、電話の向こうの声は申し訳なさそうに言葉を返してきた。
『私用でお時間を割いてしまいすみません。十五年ほど前にお世話になっておりました
世間の狭さに驚きながらも、桂は胸を撫でおろすのだった。
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