第7話 怪しい影


 彼がそれに気づいたのは、本当に偶然のことだった。


 彼はたまたま、その教室を横切り、自分の想い人が、自分ではない別の誰かと親しそうにしていることに気づいた。


 その瞬間に、生まれて初めて体験する胸騒ぎを覚えた。


 不安と焦りと緊張が混ざり合っているにも関わらず、胸の中心にぽっかりと穴が開いたような感覚。それに対して、彼はどんな名称を与えて片付ければ良いのか分からなかった。


 帰宅して、風呂に入って、温まりながら天井を見上げる頃になって、ようやくその感情の正体に気づいた。


 それは単純な、意外にも聞きなれたような感情だ。


 一言で言えば〝嫉妬〟だったのだと思う。


 せっかく、諦めたところだったのに。


 あの人の前から去ることこそが、自分があの人にできる唯一のやり方だと思ったのに。


 どうして、あの人は自分ではなくあの彼を選んだのか?


 どうして、あの人の隣にいるのが自分ではなく彼だったのか?


 そもそも、彼は一体、何者なのか?


 自分が拒否されるのは、自分があの人に相応しくないから仕方ないのだと納得していたが、それならば、彼はあの人にとって、本当に相応しい人物なのだろうか?


 考えれば考えるだけ、それが正しいことなのか気になってしまった。


 気づいた頃にはすっかり長風呂してしまっていて、指先がしわしわにふやけてしまった。バスタオルで体を拭き、パジャマに着替えた。乾いた喉に冷蔵庫から取り出した牛乳を流し込み、その冷たさに目が覚めた様に――形を持たなかった考えに輪郭が生まれた。


 分からないのであれば、調べればいい。


 調べた上で、彼があの人に相応しいと思えるのならば、それまだ。


 自分は納得して、気持ちよく手を引くことができるだろう。


 ……。


 それ以上先を考えるのが恐くなって、寝ることにした。


 今まで、自分は罪を犯すような悪い人間ではないと思っていた。生まれてからずる休みだってしたことはないし、万引きなんて論外だ。ポイ捨てだって人に注意できるほど正義感があるわけではないが、自分がしようとは絶対に思えない。


 それなのに、嫉妬の先にある怪しい影に自分で気づいてしまった。


 もしも仮に、彼があの人に相応しくないと思ったら、自分は何をしてしまうのだろう?

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