少年と翼

extra.1 ♀翼の思い出


「う、嘘でしょ……」


 七渡君と山沿いの道を歩いていると、前方から野生の熊がのそのそとこっちに向かって来た。


 大人の二倍はありそうな大きな身体。

 鋭い牙や爪も見える。


 そんな熊と目が合ってしまい、私はその場に腰をついてしまった。

 人生で初めて死ぬかもしれないという気持ちが芽生えてきた。


「な、七渡君……」

「ヤバいな……絶体絶命じゃんか」


 走って逃げてもすぐに追いつかれちゃいそうだ。

 でも、逃げ道は後ろにしかない。


 このままじゃ、死んじゃう……


「一か八かだ」


 七渡君は先ほど駄菓子屋で買ったビックカツを開け、勢いよくガードレールの外側に投げた。

 それを見た熊はお菓子を追って、道から逸れて木々の隙間に入っていった。


「作戦成功だ! でも、俺のお菓子が……」

「今の内に早く逃げないと」

「そ、そうだな」


 七渡君は私に手を差し出してくれるが、その手を掴めなかった。


「あっ、立てない……」


 私は情けないことに腰が抜けちゃって立てなくなっていた。

 そんな私を七渡君は力を振り絞っておんぶしてくれた。


「よし、行くぞ」

「ありがと……」


 七渡君の背中は温かくて、震えていた身体が落ち着いてきた。


「七渡君、恐くなかったと?」

「そりゃ恐かったよ」


 七渡君は私と違って冷静に対処しているように見えた。

 でも、心の中では恐いと思っていたみたいだ。


「ぜんぜんそうは見えんかったよ?」

「だって、恐がってたら翼のこと守れねーじゃん」


 その言葉を聞いた私は、黙って七渡君の背中に頭をつけた。


 物心がついてからはほとんど七渡君と一緒にいた。

 同い年だけど七渡君をお兄ちゃんのように思っていたし、誰よりも仲が良いお友達として見ていた。


 でも、この日を境に、七渡君に対して異性として好きという感情が芽生えたの。


 七渡君とこれからもずっと一緒にいたいと思ったし、次は私が七渡君を守ってあげたいって思ったんだ。


「でも、おっかしいなー九州には野生の熊はいないってお父さんが言ってたけど」

「くまモンはいるのにね」

「野生のくまモンだったか」


 私を安心させるためか、ニコっと笑って笑顔を見せてくれた七渡君。


 何も無いこの田舎町で、七渡君の存在は私にとって希望の光だった。


 七渡君が側にいてくれたら、どんな現状でも、どんな環境でも、受け入れられると思ったんだ――



     ▲



 私の幼馴染の七渡君。


 同い年の同級生で、隣同士の家に住んでいて、物心ついた時からずっと一緒だった。


 私の住む福岡の田舎町は周りに田んぼしかなくて、山や川に囲まれてのどかだけど、都会から見ると何も無い町だった。


 幸いにも私には七渡君がいたから、田舎での日々は退屈じゃなかった。

 この町に何も無いからこそ、七渡君が……

 城木しろきつばさの全てだった――



 私の家族と七渡君の家族で食事会をしていた。


 お隣さんということもあって、月に二、三度は一緒に食事をしている。

 お母さん達は料理を作って、お父さん達はお酒を飲み交わして話し込んでいる。

 私のお姉ちゃんは暇さえあれば本を読んでいた。


 私と七渡君は隣同士に座って、肩をくっつけて仲良くご飯を食べる。

 食事が終わったら一緒にテレビゲーム。

 七渡君の股の間にちょこんと座って、二人で同じ画面を見ながら遊ぶ。


 七渡君とはいつも一緒。

 登下校も休み時間も放課後も休日も。

 十歳になるまではお風呂も一緒に入ったりしていた。


 近所の人からは兄妹みたいねと言われることも多い。

 でも、兄妹と言われるは嫌だったの。

 だって、七渡君にちゃんと異性として見られたいんだもん。


 ずっと一緒にいられるのは嬉しいんだけど、それだけ七渡君と家族みたいな仲になっていっちゃう。

 慣れ過ぎていて、七渡君に女の子として見られているのか不安になってきちゃう。


「翼ちゃんは本当に息子と仲が良いな」


 七渡君がお手洗いへ行っている間に、七渡君のお父さんから話しかけられた。


「す、好きで、七渡君とずっと一緒にいたくて……」

「だそうだぞ」


 七渡君のお父さんは、私のお父さんに話を振っている。


「では、娘の心を奪った責任を取って息子の許嫁にしてもらおうではないか……そして、遺産分けて」

「よかろう……二人に我が家を引き継いでもらうか。そして、畑分けて」


 お互いに酔っているからか、笑いながら握手している二人のお父さん。


 でも、突如提案された許嫁という言葉に、私は胸が弾んだ。


「七渡、お前は今日から翼の許嫁だ」

「どぅえ!?」


 お手洗いから戻ってきた七渡君に許嫁になったことを知らせる七渡君のお父さん。


「私の愛娘を大切にしてくれよ」

「どぅどぅえ!?」


 私のお父さんも七渡君に私を大切にしてと伝えてくれる。


 七渡君の家族とは本当に仲が良いし、それだけ信頼してくれているのだろう。

 お父さんも七渡君のことを良い男だっていつも褒めてくれる。


「翼さ、二人に何か言ってやってくれよ。許嫁とか言ってるぞ」

「……七渡君のお嫁さんになるね」

「どぅどぅどぅえ!?」


 驚きのあまりその場に転げ落ちた七渡君。


 半ば強引に許嫁になっちゃったけど私は嬉しかった。

 これで七渡君と形式的にもずっと一緒に居られると思ったし、七渡君もずっと私をパートナーとして意識してくれると思ったから。


 でも、この日から私達の関係は少し崩れてしまった。

 私達はお互いを恋人として意識するようになったせいか気恥ずかしくなってしまい、会話も減って距離も離れて一緒にいる時間も少なくなってしまった。


 メリットもあったけどデメリットもあった許嫁の約束。

 でも、時間が経って慣れていけば問題は解決すると思っていた――



     ▲



 地元の神社で開催された夏祭り。


 七渡君と一緒にお祭りに行ったけど、人混みの多さに途中で離れ離れになってしまった。

 私と七渡君は許嫁になった気恥ずかしさから、少し距離を空けていたのが仇となってしまった形だ。


 私は必死に七渡君を探したけど見つからなかった。

 そしていつの間にか自分の居場所もわからなくなってしまい、迷子になってしまった。


 もう帰れないんじゃないかと思うと怖くなってしまい、訪れたことのないお墓が並ぶ場所で膝を抱えて泣いていた。


 辺りは真っ暗で闇が広がる世界。


 でも、私には希望の光が降り注ぐ。



「……まったく、心配かけさせんなよな」


 十分ほど座っていると、大汗をかいている七渡君が私の前に現れた。


「心配してくれたの?」

「当たり前だろ。翼は……俺のお嫁さんなんだから」


 許嫁になったことを後悔しそうになっていたけど、その言葉が聞けてやっぱり許嫁になって良かったなって思えたの。


 きっと七渡君は私のことを一生大切にしてくれる。

 だからずっとついて行くことに決めたんだ。


 七渡君がどんな道を歩もうと全力でサポートする。

 それがお嫁さんである私の役目なの。


「七渡君は旦那様?」

「そういうことだ。悪いな、こんな情けない旦那でさ」

「そんなことなかよ。七渡君は一番素敵な男性だもん」

「大袈裟だな」


 七渡君は大袈裟って言うけど、私は本当にそう思うの。

 他の男の子とは違う、何か特別な魅力が七渡君にはあるから。


「でも、絶対幸せにするから」


 そんなこと言われちゃったら、私はもう七渡君のことしか考えられなくなっちゃうよ。


「ありがとう七渡君……私も七渡君のこと幸せにしてあげたい」

「なら、ずっと俺のこと想い続けてくれ」

「うん、わかった」


 七渡君は私に手を差し伸べてくれて、私はそれを握り返した。


 この日から七渡君のこと以外は何も考えられなくなっちゃった。


 七渡君が喜ぶこと、七渡君が嬉しいと思うこと、七渡君が楽しいと思うこと、七渡君を幸せにするためにいっぱい考えた。


 これからもきっと七渡君との幸せな日々が待っていると思っていた。

 いっぱい遊んで、たくさん話して、ずっと傍にいて……


 でも、

 私達に待っていたのは悲劇だった――



     ▲



 小学五年生になった。


 身体が成長しているからか、胸がはりつめていて痛みを感じ出した。

 いつの間にか七渡君も大きくなっていて身長が抜かされていた。


 そして最近、七渡君の家とお食事会をしていないなと不安になった。


 それぞれの両親の仲が不仲になれば、許嫁の約束も消えてしまうかもしれない。

 七渡君もここのところ少し元気も無かったし、どこか嫌な予感がしたの。


「お母さん、七渡君の家って何かあったの?」

「あ~……」


 気まずそうにして言葉を濁したお母さん。

 絶対に何かがあった証拠だ。


「教えて!」

「両親が喧嘩しちゃったみたい」

「そ、そうなんや……」


 私は七渡君と喧嘩することもあった。

 でも、いつもすぐに仲直りした。

 それで前よりももっと好きになる。

 それの繰り返しだった。

 

「すぐに仲直りするよね?」


 私の質問にお母さんは何も答えてくれなかった。


 家の前には珍しくトラックが停まっていて七渡君のお母さんの姿が見えた。

 七渡君の家から荷物を積んでいて、その様子はまるでどこかへ引っ越すみたいに見えた……


「お、お母さん、七渡君どこかに行ったりしないよね?」

「ごめんね、翼が傷つくと思って黙っとったけど、七渡君はね……」

「待って、待ってよ……」


 私は膝から崩れ落ちた。

 お母さんの表情で察しはついてしまう。


「何で言ってくれなかったの?」

「心配かけたくなかったの。その話を聞いたら、翼は気が気じゃないと思うから。それに、私も仲直りするように頑張って説得してたのよ。でも、一度壊れたものはそう簡単に直らなかったみたい」


 慌てて外に出ると、スーツケースを持った七渡君のお母さんが立っていた。


「ど、どこに行くの?」

「東京」

「すぐに帰ってきますよね?」

「……ごめんね。もう二度とここには帰ってこないんだ」


 七渡君のお母さんは下を向いたまま、そう答えた。


 そして、隣の家から七渡君が大きなリュックを背負って出てきた。


「翼……」

「七渡君、どこにも行かないよね?」

「ごめん……」

「ね、ねぇ七渡君」


 どこにも行ってしまわないように七渡君の服の裾を掴んだ。


「翼ちゃん、七渡は何にも悪くないの。責めないであげてね」


 七渡君のお母さんは、七渡君の手を握って私から引き離した。


 七渡君の酷く落ち込んだ姿を見て胸が詰まった。


 きっと私の知らないところでたくさん悩んでいたに違いない。

 両親が喧嘩していて七渡君は辛かっただろうに、肝心な時に私は何もしてあげられなかったのがたまらなく悔しい。


 そして、七渡君とお母さんはそのまま背を向けて歩いていってしまう。


「……ずっと好きやよ」


 蚊の鳴くような腑抜けた声でしか、言葉を発せられなかった。

 届いているかもわからない。


 唐突な別れに現実を受け入れる暇もなく、ただ大泣きしながら手を振ることしかできなかった。


 ずっと一緒だと思っていたのに、七渡君はいなくなってしまった。

 一生傍にいられると思っていたのに、七渡君は遠くに行ってしまった。




 関係の終わり。訪れた別れ。

 離れ離れの結末。

 バッドエンド……



 でもね、私は七渡君を諦めないよ。


 別れたならまた会いに行けばいい、離れたなら近くに行けばいい。


 今はまだ子供だからできることは少ないけど、大人になれば会いに行ける。


 待っててね七渡君……

 迷子になった時は私を見つけてくれたけど、今度は私の方から探してあげるから。


 私は七渡君のお嫁さんになるって心に決めてるんだもん――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る