12.彼女と鬼

 足を踏み入れた森は、ひどく暗かった。

 気を張ってここまで一人で飛び込んでしまったが、この先どうするか、となどほえんには何一つとして思いつかなかった。

 こんな高い木々は彼女は見た事がなかった。自分の国の木にはこんな高いものはなかった。

 とにかく中へ進んでみた。外へは出られないのだ。出たくもないのだ。

 この国の国主の前に連れ出された時、まあ嫌な予感はしたし、だいたいその予感は当たることも気付いていた。

 ほえんは自分を育ててくれた寺の住職が自分を奉公に出させなかったかうすうす知っていた。下手に外に出したら自分がどうなるかなど、目に見えていたのだろう。それよりは敬愛する国主の…… あの嘉勝のもとへ行った方がよほどいい、と。

 ほえんはあの男が最初から好きだった。

 無論最初はそういう意味ではない。ただ見ていて気持ちよい奴と思っていた程度だ。

 それがあの秋、だんだん惹かれていく自分に気がついた。

 ほえんには奇妙なくらい身分意識がなかった。それは自分の声と、歌と関係があった。

 確かに生まれついた所は皆違う。だが例えば自分が歌った時身分によって違う反応を見せるか?

 否。そんなことはない。皆何らかの反応を見せる。そこに違いがあるとすれば、それはただ人が違うからであり、身分が違うからではない。

 そしてまた、ほえんが嘉勝に惹かれたのは、確かにあの時彼に言ったことで正しいのだ。

 彼女はその、彼の叩く太鼓に惹かれたのだ。その音を出す人間に惹かれていったのだ。

 それがたまたま国主だったのだ。

 ただの太鼓打ちだったら話は簡単だったろう。だがまあそれも、彼女にはどうでもよかった。

 いずれにせよ、今ここで森から下手に出たりすれば、一度入ったものとして連れ戻され、今度こそ、一度死んだものならどう扱ってもよかろう、と阪島の国主にいい様にされかねない。

 それは嫌だった。

 この国の国主が嫌、なのではない。

 あの嘉勝以外では嫌なのだ。

 自分が好きなのはあの男だけで、それ以外の奴はどうしても嫌なのだ。それだけなのだ。

 さて。

 ほえんはぺたんと腰を下ろす。ここまで来れば完全に迷ったな。

 それを期待していた。彼女は意外と自分が計算高いことは知っている。下手すると、無意識のうちに出口を見つけているかもしれない。それはまずかった。

 奥へ奥へ。

 ほえんは鬼に会いたかったのである。

 嘉勝との話の中で、鬼はどうやら無闇に人を殺して食っているのではないだろう、とほえんは考えた。

 そして思った。

 この国の地を富むなり痩せさせるなり動かしているような者だったら、何かしら会って話してみれば可能性はあるのではないかと思った。

 言葉が通じないだろうか? 

 だがそうしたら自分にはこの声がある。それが最大の武器だった。それがほえんの生きるための最大の武器だったのだ。

 話言葉には力が無い訳ではない。話言葉には感情を、力を込めないようにしていたのだ。生きるためにそれは必要だった。自分が寺で育ったのもそのせいだった。住職は、そうするように自分を育ててくれた。

 歌はここ一番という時に使いなさい。確かに。実にそれは効果的だった。


 やがてそれはやってきた。ふわりふわりとやってきた。

 意外にも、それは青年の形をしていた。だがその身体から溢れる生気は青年のものにしてはずいぶん弱々しくなりかけていた。

 見かけは本当にただの人間だから、鬼などとは思えなくてもいいのかもしれない。だが決定的なものがあった。

 それの髪は、燃えるような赤だった。炎のようだ、と彼女は思った。長く、結いも何もしていない髪がただ長く伸ばされている。髪は黒、それが当然とされる世の中だった。

 角は…… 角は見あたらない。だけどその赤い髪。それだけで十分だ、ほえんは思う。

 そして鬼は座り込んだほえんを不思議そうに見つめると訊ねた。


「お前は誰だ……」

「私は歌師だ。ここへ贄として送り込まれた」


 すると鬼は悲しげな笑うと、首をゆっくり横に振った。


「帰りなさい」


 彼女には一瞬言われたことが理解できなかった。そして理解したら次には、困った。本当に困ったのだ。


「道を開けてあげよう。帰るがいい」

「帰れません」


 ほえんはきっぱりと言った。両手を固く握りしめる。


「今この森を出たところで私には何にもならないのです」


 そして言葉に感情を、力を込めた。


「お願いします。私を食うなら食ってください。ここから出る訳にはいかないのです」


 すると鬼はすっと手のひらをほえんに差しだし、額に手を触れた。冷たい手だった。だが柔らかな手だった。ほんの数刻だった。


「なるほど。帰る訳にはいかないと。だがお前はそれだけでいいのか?」


 ほえんは目をむいて訊ねる。ああ自分の記憶をのぞいたのか。


「どういうことですか?」

「もう会いたくはないのかい?お前の一番会いたい男に」


 ほえんの脳裏に嘉勝の姿が浮かぶ。


「会いたいです。でも会って今の私に何ができましょう?下手に戻ったところでただのお荷物になりかねません。それは嫌です。嫌なのです」


 鬼はどうしたものか、と言いたげな風情でその場に屈み込んだ。視線が彼女と同じ位の高さになる。


「お前はそ奴の力になりたいのか」

「当然でしょう」

「だが今のままではその男もその国も確実に消されるぞ」


 ほえんは弾かれたように顔を上げた。


「ではどうすればいいと」


 鬼は面倒臭そうに真っ赤な髪をかきあげた。

「……俺はいい加減こんな面倒で厄介な…… 生きてることとは縁を切ろうと思っていたんだが…… だから再三の贄にも手を出さずにきたんだよな」


 ほえんはそれには何と言っていいか判らないので黙って鬼を眺めていた。鬼はふと手を伸ばすと、そのやや爪の長い、細く長い指でほえんの喉を撫でた。


「お前は面白い声をしているな」

「生まれつきです」


 つい反射的に口を出してしまう。気を抜いたり、戦闘的になると一言多いのだ。いつも。


「ではお前、俺と取引をしよう。俺はお前に力を貸すことができる。お前のその大切な奴に力を貸すこともできる。だが俺はもういい加減この身体を捨てようとしていた所だ。もうずいぶん長いこと使っていたからな。だから力をきちんと使おうと思うならまだ若い身体が欲しい」

「身体を」

「……ああ間違えるな。取引と言っても俺は人じゃないから破るということはしない。だが取り返しはつかない」


 ほえんは撫でられた喉が動くのがその目で見て判る程に生唾を飲み込む。


「それにお前の身体だけを貰おうというのではない。俺をお前の中に入れてくれという方が正しい。だが結果的にお前が鬼と呼ばれるものになるのは仕方がないが……」

「あのひとの力になれるのですか?」


 ほえんは鬼が言わんとしていることを理解した。


「それはお前の動き次第だ。上手くやれば今の俺の力に加えて、お前自身の力を強く大きくすることができるやも知れぬ」

「私は私でいられるのでしょうか」


 そうできなかったら意味がない。


「それはお前の意志の力次第だ。お前がお前でありたいと思えば」

「でしたら構いません。私は私で必ずいます」


 ほえんは即答する。


「私の身体に入って下さい」


 ……まあ逆なんだよ実際にはね。食うも食われるも。


 ふっと笑った、鬼の最後の言葉はそんな感じだった、とほえんは思う。

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