11.幸運の正体
「もうじき森です」
ある時馬引きの男は言った。
「もう見えるでしょう。あれですわ」
嘉勝は目をこらして見た。それは確かに森だった。自分の国には存在しない、ひどく大きく高く、深そうな森だった。彼はその森に目をやりながら、ほえんのことをふと思い出していた。
「今年、贄は出たのか?」
ふと嘉勝は馬引きに訊ねていた。
「ええ、出たようです。ついこないだかな」
思い出すかのようにふと馬引きは空を仰ぐ。
「でもひどいもんですわ」
囁く様な声で言う。
「何でもそちらの国から連れてきた人だそうですが、どうも思った以上に綺麗な人だったんで、わが国主どのは、贄になどするより自分のものにしたかったんですわ。ですがそのお方、それを断固として断り続けまして。そして自分から森へ飛び込んで行ったらしいです」
!
「無論それも俺達普通の連中には初めから贄として出したと言われるんですよ」
馬引きは苦笑する。
「詳しいな」
「耳聡いだけですわ。耳年増なんですわ。ああそれじゃおばはんのようですな」
彼はやや大げさな手つきで茶化してみせる。
「でも殿さん、あなたはそのまま死なせるには惜しい人ですな」
「さあて」
馬引きはにっと笑った…… ような気が嘉勝にはした。
森の手前まで来た時だった。時々空を仰ぎ見ていた馬引きの表情が変わった。
「何か雲行きがおかしそうですな」
「そうだな」
確かにおかしかった。風の向きが変わったかと思うと、急に黒い雲が低く、空一面を覆い始めた。にわか雨が降るのではないか、と誰もが思った。
その予想は当たった。
ふっと水の感触が頬に当たる―――
と思ったらもう降り出していた。整備のされていない道はすぐにぬかるむ。森はすぐ横にあった。
と、その時だった。
「おっと」
馬引きが急によろけた。馬に身体を軽く預けてその平衡を保とうとする。
「気をつけろよ」
嘉勝がそう言った時だった。
馬引きは懐から小刀を出すと、いきなり嘉勝を縛り付けていた縄を切った。馬を引いていた縄をその手に渡した。にやりと笑う。そして勢いよく馬の腹を蹴った。
!
「逃げたぞーっ!」
馬引きの男の声が辺りに響く。それを合図としたのか、後ろにやはり同じように引かれていた腹心二人も同じように縄を切られて馬を蹴られていた。
「殿!」
高い声が耳に届く。できるだけの大声で嘉勝は怒鳴る。
「散れ!」
固まって動けばそれだけ捕まりやすくなる。
嘉勝は慌てて手綱を持つ。縛られていた手はなかなか勘を取り戻さないが、それでも無我夢中でやれは人間何とかなるものである。
だが馬引きのような奴ばかりではないのが現実である。すぐに馬で追手が出た。
嘉勝はすぐそばに森があることに気付いた。そして馬から飛び降りた。
森へ駆け込んだ。追手が幾人かやはり馬を降りた。
嘉勝を追う。嘉勝は走る。
一人が嘉勝に追いつく。刀を振り上げる。
思いきり横蹴りを加える。
相手は吹っ飛ぶ。刀が飛ぶ。
嘉勝はそれを拾う。大した刀ではない。だが無いよりましだ。
そしてそのまま走る……
*
「へえ。大変だったんだ」
彼女は嘉勝の広い額に触れながらそう言った。
触れた手のひらから記憶が流れ込んでいるらしい。不思議なことだ、と嘉勝は思ったが、そういうこともあるのだろう、とも思った。何せ目の前にいる物自体が怪異なのだから。
「でもこういうことがあったならお前は結構幸運だ。まだお前の命数は尽きていないと見える」
「どういうことだ。俺のどの部分が幸運だというんだ。確かに命拾いしたのは幸運だとは思う。だが」
「そのことを言ってるんじゃないさ」
彼女は片方の眉を吊り上げる。
「あたしはこの国のことなら何でも知っている。あたしは鬼だからな。まあいい。今度はあたしの番だな。お前の会った幸運の正体という奴を言ってやろう」
彼女はにやりと笑う。
「十数年前にこの国の跡継ぎが消えたのは知ってるな」
「ああ、聞いた。神隠しとか言っていたな」
「神隠し、ね。冗談じゃない」
彼女は口の端に意地悪そうな笑いを浮かべる。
「あれは、さらわれたんだよ」
「誰に」
「頭悪いな。考えてみろよ」
「……現在の国主か?」
そお、と彼女はうなづいた。そして再びうつ伏せに寝ころぶと頬杖をつく。
「現在の国主は若い頃から野心家でね。先代の穏健なやり方が気に入らなかったんだ。兄だろうが何だろうがそんなことはどうだっていい。奴は戦国の将になりたかったんだ。今の世がそうだからね」
「……馬鹿なことを」
「あたしはお前の方がまだ似合うと思うがね」
「馬鹿を言え」
「お前に馬鹿呼ばわりされる程あたしは馬鹿ではないと思うがな?……まあいいさ。それでその跡継ぎは行方知れず。だが死んだという確かな証がある訳ではない。ただまわりはあきらめている。何故ならその子供が消えたのが、この森の辺りだからだ」
「お前は人を食うのか?」
「そう言われているらしいな」
上目使いに彼女は嘉勝を見上げる。
「合っているとも言えるし、合ってないとも言える。だがお前達が想像する意味での『食う』なら、あたしはそんなことはしない」
「では合わない人間が来ると殺すというのは」
「それは正しい。というか、あれはそもそもあたしを殺しにやってきた連中だからな。むざむざ殺されるのは性にあわん」
「すると子供は」
「もちろんだ。あたしは食わない。確かに子供は捨てられていたさ。それも冬の最中に身分が判らない程の薄着でね。だがそれは近くの里へと回した。あたしは子供を見殺しにできる程冷たくはないつもりだが面倒を見る程優しくはない」
「その割には俺の面倒は見たな」
「それは簡単だ」
平然と彼女は言う。
「お前にはそうしたかったからな」
「どういう意味だ?」
彼女は再び起きあがると、片方の手を伸ばし、ぐっと嘉勝を引き寄せた。度重ねて見せつけられる、この見かけによらない力に、さすがに彼も慣れてきていた。
「お前はこの顔の奴が好きだったのだろう?」
彼女は自身の顔を指す。嘉勝はうなづく。違うと言った所でこの鬼は彼の記憶を読んでいる。嘘などついても仕方がない。
「この手も」
手を掴ませる。力はあるが、しなやかな手。
「この肩も」
肩を掴ませる。強く掴んだら、壊れそうな程の細くて丸い肩。
「この身体の奴が好きだったのだろう?」
「そうだ」
「お前はあたしが彼女を食ったと思っているのではないか?」
「思わないと言ったら嘘になる」
「だとしたらお前は半分合っている。そしてあたしを半分彼女と思いながら抱いた。それもまた半分合っている」
「お前は何を言いたいんだ」
「食う、という表現がまずいんだよな」
嘉勝の手を自分の首筋に当てさせる。まだやや熱い。
「この身体は彼女の身体だ」
「……乗っ取ったのか?」
「いや」
首を横に振る。
「そうではない。彼女もまた、この中に居るんだ。最初の鬼からの記憶と人格が、ほえんという人間と融け合ったんだ。……つまりあたしは鬼であり、ほえんでもある」
そして彼女は今度は嘉勝の手を自分の額に当てさせた。
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