10.宙に浮く約束
「つまりは」
と使者はつなげた。
「これは取引だと思っていただければ」
話し合いの場は城の中に移っていた。嘉勝と、腹心の二名と、そして使者だけがその部屋には居た。
ヂヂヂ、と灯の燃える音が静かな室内にほんのわずかだが響いた。
「あの歌師を渡していただければ、わが国は、決してそちらには手出し致しませぬ。いえ、私が決してそうはさせませぬ。わが殿が何を申されても、私がこの命をもってお引き留め致します」
嘉勝は黙っていた。
「その鬼というのは、贄をどうするのだろう?」
櫂山が低い声で訊ねた。
「実際にどうするのか、などは誰も知りませぬ。それを知る程に森の中に入ることができる者など居りませぬゆえ。ただ、戻ってはこない。失敗した贄が全身を引き裂かれた死体になって戻ってくるのに対し、そうでない贄は、決して姿を現さないのです」
「不思議なことだな」
南里もいぶかしげにうなづく。
「いずれにせよ、生きて戻ってくるということはないのです」
二人は同時に自分達の主君を見た。嘉勝はじっと目をつぶって腕組をしている。
約束して下さい。
できるか!
嘉勝は生まれて初めて一つのものに執着している自分に気付いいていた。
それまで彼の人生に執着というものはなかった。それは一国の主となる身には当然のことだ、と嘉勝は思っていた。
嘉勝の行動はいくら自由奔放に見えても、その実、国の進む方向からは決してはみ出していないのだ。
自分の一見「違う」行動こそが逆に周囲から求められていることを知っていた。無意識に知っていた。だからこそ、その行動を自分自身で抑えることがなかった…… だけに過ぎない。
そこには迷いは存在しなかった。嘉勝は周囲も自分も正しいと思っていたことを幸運にも無意識に選択できたのだ。
だが彼この時、初めて迷っていた。
ほえんを、手放したくなかった。どうしても。
「……どうなさいましたか?」
低い声が訊ねる。
「ご決断を」
その声はひどく冷静だった。いつもの櫂山とは何か少し違っているように彼には聞こえた。
「……少し待ってはもらえぬか」
嘉勝にはそんな曖昧な返事しか返せなかった。
「何を迷っておられます」
使者を用意した部屋へと送り込んでから、低い声で櫂山は訊ねた。
「殿には迷う余地など無いことなど判っておられる筈です」
櫂山は真っ直ぐ嘉勝を見据える。無論嘉勝には判っている。判ってはいるのだ。だがそれを指摘されたくはなかった。
自分で気付いているからこそ、言われたくはなかったのだ。
嘉勝は立ち上がった。そして部屋を出ていこうとする。
「何処へ行かれます」
「何処だってよかろう」
嘉勝は答える。そして障子を閉める。外へと出る。櫂山はそれまで殺していた表情を生き返らせた。
*
城の本館からやや離れた所にほえんの庵はある。桜園の近く。
先頃訊ねて判ったことだが、ほえんは自由気ままに歌っても城には届かない距離というのが欲しかったらしい。
ほえんの歌声は特殊だった。それは本人も知っていると言う。
その歌に、周りの者の心を渦のように巻き込んでしまうのだという。だからよほどその気で聞く人が相手でないと、大変なことになるのだ、と。
それは生まれつきのものなのか、とある日嘉勝が訊ねたら、ほえんはそうだと答えた。
生まれた時の泣き声が既にそういうものだったから、母親は自分を手放したらしい、と。母親は自分に恐怖したのだ、と。
赤子は強烈に母親を求める。
それを全部そのままぶつけられたら、例え子供を愛している母親であったとしてもたまったものではない。ある程度は流さなくては自分の他の仕事もできない。
なのに、その声で泣くものだから、その強烈に求める心が、そのまま母親を巻き込んで混乱させてしまうのだ、と。
でもこうやって話している声はそうではないではないか。
無論それは後で何とかしたのです。
彼女は続けた。
声に感情を込めたら、それが過剰に広がってしまうのです。だから普段はそれを空に散らしているのです。
それは確かに尋常な歌師ではない。
戸を叩くと、ほえんは待っていたかのように出てきた。
まだ衣装のままだった。嘉勝は小さく笑う。あの舞台の上では風景にはまりすぎる程はまっていた衣装が、この小さな庵の中では奇妙だった。
「まだ着替えなかったのか」
「さっき帰ってきたばかりですから。代えた方がよろしいですか?」
別にいい、と嘉勝は答えた。そしてその場に座り込む。
「お前、俺にあの時何かしたのか?」
「何を、と言われますと」
ほえんは顔色一つ変えず問い返す。嘉勝は床に転がっていた珠付きの飾り紐を手に取った。そしてそれを手の上で転がす。どうやらほえんはその件について言う気はないらしい。
「綺麗でしょう? 適当に飾り物を使っても良いと、櫂山様がおっしゃいましたから、適当に選ばせてもらいました」
そしてほえんもまた座り込むと、嘉勝の手にある紐に掛かったその珠を一つつまみ上げた。つやつやとした紅い珠だった。
嘉勝は反射的に紐を引いた。ほえんはやや安定を崩した。それを彼は慌てて支えた。
すっぽりと、細い肩が嘉勝の手の中にあった。そしてその時、急に強い衝動にかられた。嘉勝は手に力を込めた。
それまで決してしたことのない程の強さで嘉勝はほえんを抱きしめた。
……痛い。
そんな声が耳に届いて、嘉勝はやっと力を込めすぎていることに気付いた。慌てて力を少し緩める。確かに力が強すぎたようだ。息ができなかったらしい。はあはあと荒い息の音がする。微かに汗の香が微かに漂う。
「どうしました?」
ようやく呼吸を整えるとほえんは訊ねた。
「殿は今日は何処か妙です」
「別にどうもせん」
「嘘でしょう」
「どうしてそう思う」
「では私の方を真っ直ぐ向いて下さい」
力を緩めたからと言って、嘉勝は手を解いた訳ではない。ほんの至近距離に二人の位置はあった。
「見られないのですか?」
「そんなことはない」
「嘘です。ほら、こんなにむこう向いてる」
ほえんは急に両手を嘉勝の頬に当て、ぐい、と自分の方を向かせた。
「何が不安なのですか?」
嘉勝はその時初めて、ほえんの瞳がずいぶん深いものであることに気付いた。
大きい目であることは知っていた。時には何処とも知れぬものを見ているようでもあると思っていた。だがそれだけではない。人を引き込む何か。
「お前は本当にここに居るんだな?」
「何をいきなりおっしゃいます」
「言ってくれ。お前はずっとここにいると」
嘉勝は手に再び力を込め、ほえんの首筋に顔を埋める。
「ずっとここにいます」
ほえんは下手な役者のように棒読みする。
「ずっとここにいますよ」
「本当か?」
「あなたがそれを望むなら」
「俺はそれを望む。望むぞ!」
「ではそう致しましょう」
言葉は高くもなく、低くもない。ただ宙に浮いている。
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