8.隣国との微妙な事情②
使者はそれから二十日後にやってきた。
隣国とはいえ、その城がある地にはなかなか遠かった。そこへ返事をする時間、それに対する返事が戻る時間、さらにその準備等々、嘉勝にしてみれば「ひどく面倒な」日々がしばらく続いた。
宴は城の桜園の中で行われることになっていた。
桜はこの国の印のような花だった。
この城の至るところに桜は植えられ、春には満開となった花がまるで雲のように広がる。桜園は城の中だけではないが、城のものが特に規模も大きく素晴らしいものとされていた。
代々の城主はこの桜園を春の、花の咲く時期、国の民に開放する。もともと明るい気風のこの国の民は、秋の祭とともに、春の花見も大切にする。国中からこの時とばかりにぞろぞろと集まってきては、花を愛で、酒を酌み交わし、ここ一番の御馳走を食べ、貴重な日を過ごすのだ。
だがこの年はそれができなくなってしまった。嘉勝は村の代表を呼ぶと、事情を説明した。
「そういった事情だ。すまぬが今年は我慢してはもらえぬか」
代表の一人はとんでもない、と平伏した。
「もちろん我々も年一度の花見はとても楽しみにしておりました。ですが場合が場合です。よろしゅうございます。村の者は私ども、よく言い聞かせましょう」
「うむ」
嘉勝は腕組をして満足そうにうなづく。
「代わりと言ってはなんだが、向こうの桜園を開放しようと思う。どうだ?」
向こうの桜園、とは城からやや離れた所にある所だった。そこは城の桜園よりはやや規模は小さいが、手入れはよくされており、風雅という点では城のものより優れていたかもしれなかった。それゆえそこは城の者の専用の花見に利用されていた所である。代々の国主は、そこだけは一般に開放しなかった。
「よろしいのでございますか!」
代表の一人は驚いた。
「無論だ。俺も花見や祭は好きだ。ましてやお前達には年に一度二度しか巡ってこない大切な時ではないか。それをこちらの都合で反故にするなら、ある程度の見返りは必要であろう?」
「ありがとうございます」
代表の者数名は、揃って平伏した。だがその一人の表情はやや曇っていた。
「何だ」
嘉勝は訊ねた。
「言いたいことがあるなら言ってみろ」
恐れながら、といつもその集団の中では静かな一人が口を開いた。
「殿のお達し、我々はいつも感謝せずにはいられませぬ。ですが我々……いえ私は心配になるのです」
「何がだ」
「殿はいつも我々民のことを気にかけて下さる。それで私達はこの地にて何代も平和に暮らしてきました。あなた様だけではございません。先代の殿も先々代の方も……ですが、時が時です。私は、その民に向ける優しさ、というものが殿の危険を招きはしないか、とても心配になってしまうのです……」
櫂山は、眉をひそめた。だがそれは一瞬のことだった。すぐに真顔に戻り、代表の一人に向かって言った。
「心配するな。そのために我々がついているのだ」
「そうだ」
南里も続けた。
「だからお前達はお前達のことだけ考えていればよい」
「ありがとうございます」
代表はまた揃って平伏した。
だがその言葉は腹心の二人の中にしばらく残った。
*
その日の夜、ほえんの庵の戸を叩く者があった。
どうぞ、と答えると、そこには滅多に見ない顔の者が居た。だが滅多に見ないからと言って知らない、という訳ではない。
「あなた様は」
「邪魔させてもらってよろしいか」
やや低い声で櫂山は律儀に戸口で訊ねる。どうぞ、とほえんは戸を開いた。
茶を立てる彼女の鮮やかな手つきを眺めながら、彼は極力感情を消そうと試みた。これから自分の言うこと、言わなくてはならないことを、正直言って、自分でも納得していない部分もある。
「どうぞ」
「は」
そして顔から表情が消える。
立てた茶の碗をゆっくり手の中で転がしながら、櫂山は訊ねた。
「……ほえん殿。あなたはもし殿に何かあったらどうなさるおつもりか」
ほえんはすぐには答えなかった。櫂山は続ける。
「あなたは現在この国がどういう状況にあるかお分かりか?」
「少しは」
さらりと答える。嘘ではない。
「それではもしこの国とあの方お一人とを比べたらあなたはどちらを取られるか?」
ほえんは黙った。櫂山はその間を気にしないかのように茶をすすった。
「なかなかのお手前ですね。どなたかに教わったのですか」
「いいえ特には」
そう答えるとほえんは、嘉勝には一度も見せたことのないような人の悪い笑みを浮かべた。そういう表情も作ることはできる。だがその必要が、今まではなかったのだ。
「つまりこうおっしゃりたいのですか? 何がこれからあったとしても私は全て従えと」
「何もそうは言ってはおりませぬが」
すました顔をして櫂山は再び茶をすする。
「それに何かある、かどうかも判らぬことゆえ」
「だがあるかもしれない、そうおっしゃりたい訳で」
「さあどうでしょうか」
二人の間に、細い糸が張ったような緊張が走った。
ほえんには予想がついていた。確かに、何かあるのだ。絶対に、でなくともいい。何であるのか詳しくは判らない。でもかなり確実に、それは。
「言っておくが、今ここに私がいるのは私の一存。殿には何の関係もござらぬ」
「そのようなこと、とうの昔に承知でございます」
「ならよろしい。では……」
「お茶のお代わりは如何でございますか」
櫂山が次の言葉を言う前に。間髪入れずに彼女は口をはさむ。彼は、ほえんが話を打ち切るつもりであることに気付いた。
「いや、結構な手前、敬服致しました」
深々と頭を下げる。
「またおいで下さいまし」
同様に頭を下げる。
二度と来るな、という言葉が、櫂山にはその背後に聞こえた。
背中を寒気が走った。
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