4.森の鬼
嘉勝が起きあがることができたのは、寝付いてから十日後のことだった。
実際に十の昼と十の夜が巡ってきたのかは彼には判る筈のもないことだった。ただ、赤い髪の彼女はそう言ったのだ。
「もう大丈夫だよ」
身体を起こして水を受け取る嘉勝に彼女はそう言った。
「お前はずいぶん疲れていた。それに雨に濡れた。それが一番いけなかったんだ」
「すまない」
彼は軽く頭を下げる。彼女は首を横に振る。
「礼を言われるすじあいはないよ。あたしはあたしで好きにしただけなんだから」
ぴくり、と嘉勝の肩が動く。
「どうしたの?」
のぞき込む顔。ああどうしてこんなによく似ているんだ。彼は彼女を思わず引き寄せる。
同じなのに。肩の厚さも、背の柔らかさも、梳かれる髪の流れも。
「……苦しいよ」
「あ、すまん」
視界に飛び込む赤は、それでもやはりそれが別の物であることを示していた。
嘉勝はゆっくりと彼女から身体を離す。彼女はややうつむいたまま、掛け布の端を掴んでいた。そのまま、やや皮肉げな声で、
「本当にすっかり元気になったようだ」
「お前のおかげだ。本当に感謝してもし足りない。だが」
「だが何?」
彼女は顔を上げる。
「俺はお前が何であるかまだ聞いていない。知りたいのだが」
「それが何?」
軽く目を伏せる。彼の目には、そんな一つ一つの仕草までがあの「彼女」と重なる。
「それがそんなに大事?」
ちらり、と薄く目を開けて小首を傾げる。嘉勝はうなづく。
「大事だ」
「どうして?」
「どうして、?」
嘉勝には、彼女がそういうふうに訊ねる意味が理解できない。だが自分が訊ねる理由は彼には判っていた。
間違えてしまう。間違えてしまうのだ。それは良くない。
「別にお前が知りたいなら隠す必要もない。だがお前が聞いたところで大して役ににも立たぬ。だから黙っていた。聞きたいのか。聞いた方がいいのか」
ああ、と嘉勝はうなづいた。
「俺はお前とよく似た奴を知っている」
「そのようだな」
「俺はお前とそいつを間違えそうで困る」
「どうして困る。あたしは別に困らない」
「俺は困る」
彼女は掛け布を強く掴んだ。
「お前が聞くなら構わない。別に言ったところで大したことはない。だが聞いた所でお前が逃げだそうとしてもそう簡単にこの森は脱けることはできない」
「何」
「あたしはこの森の鬼だよ」
彼は雨の中の老人の言葉を思い出す。あれもまた、夢と現のはざまで聞いた言葉だった。
森には鬼が住んどる……
「人を食うとか言われているあれか?」
「たぶんね」
「たぶんとは何だ」
「ある意味では当たっているし、ある意味では間違っているんだ。でも今あたしはそれをお前に説く気はない。それにお前はそう簡単にここからは出られない。出したくはない。ここは森の中なんだ」
それに、と彼女は付け足した。
「あたしはお前にしばらくここに居てほしい」
「何故だ?」
嘉勝は鬼と名乗る彼女を見つめた。
「ここから出ればお前はまた追われるではないか。別に永遠にとは言わない。だが今はまずい。どうなるかなどお前とてよく判っているだろう?」
「それは当然だ。俺はこの地においては敵軍の将ゆえ」
確かにそうだった。彼は自国を追われていた。
この森は、阪島の真ん中にあった。
阪島は彼の治めていた桜野の三倍くらいの広さがある。なのに何が悪いのか、何かと内側でのもめ事が絶えない国である。そしてまた土地がやせている。ここ十何年か、豊作になる年がほとんどないという。
だが阪島は兵の数だけは無性に多かった。
そして阪島はずっと豊かな、隣の国、桜野を狙っていたのだ。
彼は国を奪われた。負けたのだ。守らなくてはならない民を、領地を、全てを賭けた戦いで、負けたのだ。そして捕まった。
だが逃げた。逃げる機会がやってきた。そして嘉勝は逃げた。ここまでやってきた。
無我夢中だった。そして今になって思い出す。あの時分かれ分かれになった部下達はどうしただろう……国はどうなっただろう……
彼女はそんな嘉勝の思いに気付いたのか気付かないのか、わざとらしい程の口調で、吐き出すように言う。
「そんなことはどうでもいいじゃないか」
「どうでもいいことじゃない!」
嘉勝は彼女をきっと見据える。飢えた獣のようなぎらぎらした目が彼に戻ってくる。
「俺は捕まったと言えども、一国の国主だ! 自分の国のことを心配するのは当然だろう!」
ああいいな。目だけで笑いながら彼女は思う。凄く好きだ。この……
だけど口はするすると彼を怒らせるような言葉をつむぎだす。
「国なんて何ができるっていうの?」
もっと怒ってみろ。もっともっと怒ってみろ。その目であたしを見るんだ!
「どうして? 国がお前に何をしてくれたっていうの? お前の一番大切なものを永遠に奪い去ったくせに!」
「黙れ!」
何故それを彼女が知っているのか。そこまでその時の嘉勝には頭が回らなかった。彼女は彼のその時一番の泣き所を突いていたのだ。
頭に血が上っている。彼にもそれは判っている。だけど気付けなかった。彼女が自分を怒らせようとしていることも。
「あの時お前に何ができた?」
「……やめろ!」
「止めることも何も!」
「やめろと言っているだろう!」
いきなり彼は彼女の肩を掴んだ。そして力まかせにその場へ押し倒した。
彼女は伏せた目の中で笑う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます