3.「彼女」である筈がない。
目を開けたら、懐かしい顔が、そこにはあった。
嘉勝は夜具の上に寝かされていた。身体のあちこちがひどく痛んだ。腕と言わず足と言わず、胴と言わず、あちこちが。
だが意識ははっきりしていた。少しづつなどとは言わず、目も耳も、全てが一気に覚醒した。
そしてはっきり視界が固定した時に、その顔がまず飛び込んできた。
嘘だ。
嘉勝は心中、つぶやく。
夢だったのだろうか?
彼は思う。全てのことが全て。隣国がそれまでの約を違えて攻め込んできたのも、そのために自分の家臣が大半死んだのも…… その原因となった最初のできごとも。
それとも今の方が夢なのだろうか。
「起きられる?」
浮遊する。同じ声だった。懐かしい声。言葉の端がいつも少し絡まったような。高くも低くもない。
嘉勝は身体をゆっくりと起こす。途端に胸に走る突き刺すような痛みに顔をしかめる。胸を押さえる。だが声一つ立てはしない。そんな無様なことは、彼にはできない。
「ちょっとまだ駄目なようだね」
彼女は胸を押さえる嘉勝の背を支えて、再び彼を夜具に横たえた。どうやら思ったより力があるらしい。細い腕が彼を軽く支える。
その何処に一体それだけの力があるのだろう?
彼は思わずにはいられない。
「……お前は」
「まだ喋らない方がいいよ」
「お前がここまで…… 連れてきたのか?」
「そお」
嘉勝はよく目を開けてみる。何処をどう見ても、この目の前に居る奴は。
だが彼女は彼のそんな視線に気付いてか気付かずか、ひょうひょうと喋り出す。
「すごいよね。この傷で七人も殺せるなんて。並のひとじゃあない」
「……雑兵だ、所詮」
彼は声を絞り出す。低い声がさらに地を這っている。
「雑兵だろうが何だろうが、あんな刀を振り回せることが凄いんだよ。ずいぶん重いのにね。お前はひどく変わった奴だ」
……ひどく変わった奴。口も悪い。他人事のように言う。
それではこれはただの空似の他人なのか。
嘉勝は彼女が手巾を浸した手桶を持ってくるのを見ながらそんなことを思う。
だが。
彼女はすっと座り、手巾を硬く絞る。その仕草。そして彼は同じ思いを繰り返す。
それにしても似すぎている。
「少しだけ我慢していて」
何処にそんな力があるのだか、彼女は嘉勝の肩を片手でむんずと掴むと、自分の膝の下に入れることができる程度に上げさせた。確かに多少痛む。彼はまた少しだけ胸が詰まって、軽く咳をした。
だがその胸に冷えた手巾が当てられた時は、ひどく気持ちが良いと感じた。
よく見てみると、身体の所どころに白い布が巻かれている。傷の手当をしたのだろうか、と彼は思う。
「ここは……」
「無理に喋るな」
胸から腕、首すじへと丹念に彼女は手巾を動かす。生暖かくなってしまったら、その都度手巾は手桶の水に浸される。彼は横目で見る。手桶の水はやや黄色や橙か…… 色が付きはじめていた。
「……ああやっぱり半分は返り血だ」
彼女は平然とそんなことを言う。
「ここが何処か知りたい? ここは森の中だよ」
「森の……」
「そお。だから誰も入ってはこない。お前は大丈夫だ」
大丈夫、とは何に対して言っているのだろう?
彼女は一通りの作業は終えた、とでも言うかのように、手巾を手桶のへりに掛けた。だが膝に乗せた彼の肩を下ろす気配はなかった。
嘉勝は何か彼女に言うべきなんだろうか、と考えた。
「助けて…… くれたのか。ありがとう」
「……」
「お前は…… 誰なんだ?」
「……」
彼女は何も言わぬまま、上から彼の顔をのぞき込んだ。
嘉勝は彼女を見上げた。「彼女」ではない。あるはずがない。だがこの顔は「彼女」そのものだ。
視界には、真っ直ぐに綺麗な彼女の髪が入る。
「彼女」である筈がない。そして。
人間じゃない。
彼女の髪は、赤かった。
何を思ったのか、彼女は不意に嘉勝の首を抱きかかえた。
*
何度か朝が来て、何度か夜が来たことは嘉勝にも判った。
だがそれがどのくらいの期間なのかはまるではっきりしなかった。
傷はどれも深くはなかったが、結構な数があった。それに加えて、彼はそれまでの疲れが一気に出たのか、しばらく床についたまま起きあがることもできなくなってしまったのだ。
とにかくひどく眠かった。頭の方は、もう眠るなんて真っ平だ!とわめいているにも関わらず、身体の方が言うことを聞かなかった。
腕も、脚も、肩も、胸も…… 全てが重かった。
変だな、と彼は思う。俺はもう鎧などつけてはいないのに。
そういえば。
夢とも現ともつかない意識の中、彼は考える。
俺の鎧は、俺の刀はどうしただろう?
俺のあの部下はどうなっただろう?
あの場から無事に逃れただろうか?
俺の国は?
いくら考えても答は出ない。
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