2.居る訳がない姿
それは血の臭いだ。
そんな気がしたので彼女は戸を開けてみた。
大きな、深い茶がかかった目を見開く。雨の向こうに何か見えないかと。がらがらと、閉めたばかりの雨戸のすき間を開けてみる。雨の他に何か音が聞こえないかと。
外には雨が降り続いていた。
だが音は無かった。先ほどまでのひどい降りはややおさまって、こぬか雨程度のものにに変わっていた。
森の中は、静かだった。
雨の音も消えた今、時々落ちる家の屋根からの滴が落ちる音、それがなければ、ここが何処なのか、今がいつなのか、どのくらい時間だたったのか、そんなことも判らなくなってしまうに違いない。
それとも既にそんなものは無くなっているのか?
血の臭いがする。
彼女は大きな笠をかぶると、やや普通より高い下駄を履いた。
そして雨のせいで緩んだ地を、軽やかに歩いていった。
いや、もしかしたら飛んでいるのかもしれない。
そう思わせる程にその足どりは軽やかだった。
彼女はやや目を細める。感じとれるその臭いをたどっているかのようだった。
……あっち?
ふわりふわりと白い袂を翻しては彼女は駆けていく。いや、駆けるというよりは踊っているとでも言いたくなるような足どりだった。
高い下駄を履いているというのにその足どりは揺らぐことなく、ぬかるみというのに、その白い着物には跳ねの一つもない。
次第に血の臭いは明確になってきた。それも新しいものだった。潰れた草の匂いにまじって、それは実に彼女には新鮮に感じた。潰れた草の中には、どくだみだのよもぎだの、香りの強い草も混じっているようである。そしてそれが妙な生々しさをもって彼女に迫ってくる。
既に辺りは暗かった。だが彼女にはそんなことは関係なかった。
にゅ、と下駄に何かが当たった。彼女は平然としてそれを見おろす。
ああ、やっぱり死体か。
見慣れたものだった。今更何を惑うこともない。
むしろ彼女が惑うのは。
死体の数は全部で七つあった。どうやら雑兵のようである。身につけている鎧は簡単なものだったし、刀もそう上等のものではない。一人二人切り殺したら使い物にならなくなってしまうようなものだ。
しかし。
彼女は思う。相打ちには見えぬ。少なくとも雑兵同士の殺し合いにしては、傷跡が上手すぎる。
では誰が。そう彼女が思った時だった。
濡れた腕が、彼女の首に巻き付いた。
太くはないが、実に鍛えぬかれた腕らしい。太い血の筋が浮きでているのが、触れている彼女の首にも判る。少し力を込めたら、ほっそりとした彼女の首くらい軽く絞め殺してしまいそうだった。
男は背も彼女よりはずっと高い。彼女は自分の頭が男の胸あたりにあるのを感じていた。
自分を締め付ける腕はひどく冷えている。彼女にはそのことが何よりも強く感じられる。自分を脅しているこの男は、どのくらいこの雨の中にいたのだろう。
「動くな」
地鳴りの様に低い声が、耳に響いた。
彼女は辺りに目をこらす。普通なら見えない筈の夜の中に、彼女は脱ぎ捨てられた鎧を見つけた。武将のものだ。そこいらに転がっている雑兵のものとは格段の差がある。
ではこの腕の主は。
嘉勝であった。いつの間にか、その身体から鎧も何もかも、取り去られている。脱ぎ捨てたのだ。自分を狙う輩への目くらましのために。
自分が小刀を突きつけられていることに彼女は気付いていた。だがだからと言って驚くべきことではない。それは大したことではないのだ。
もっと大切なことは別にある。
「お前がこ奴らを殺したのか」
彼女の口からさらりと言葉が洩れる。高くも低くもない。そして奇妙にその声は浮遊していた。
「そうだ。お前も刃向かえば殺す」
彼女は横目でちら、と自分の恐喝者を見る。彼女の顔に笑みが浮かぶ。視界にはぎらぎらした目が入ってきた。彼女はものすごく嬉しい。この目を見るのはどれだけぶりだろう?
すごく、好きな目だ。
「刃向かいはしないよ……」
そして彼女は気付いた。辺りの死体だけじゃない。彼の身体からも血の臭いがするのだ。それも返り血ではなく、今ここで流れている……
冷えかけている身体。血は冷たいと固まらない。
……ああそれはとても困る。
彼女はするりと嘉勝の手の中から脱けだした。彼は驚いた。少しもそんな気配などなかったのだ。
そして彼女はゆっくりと振り向く。笠が落ちる。肩くらいの髪が揺れる。
嘉勝の表情が変わる。ぎらぎらした目はそのままに、ただその大きさが。濃い眉が歪む。口が開く。小刀が落ちる。
どうして。
彼はそう言ったつもりなのかもしれない。唇はそう動いている。
だが実際に彼の口から出たのは別の音だった。
「お前は?」
彼女は嘉勝の頬にすっと手を伸ばす。そしてふっとそれを横にずらした。
嘉勝の目が閉じる。そしてそのまま彼はその場に崩れ落ちていく。
……あの顔が居る訳がない。居る訳がないんだ!
彼は薄れていく意識の中で叫んでいた。
声にしているつもりだった。
だがそれはもちろん声にはならなかったのである。
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