1.森には鬼
「そっちへ行くでねえ!」
老人の声だった。しゃがれ、疲れた声だった。
畑からの帰りだろうか。笠を目深にかぶり、鍬と篭をかついでいる。
「……何でえ?」
子供の声だった。振り向きざま、大きな水滴が飛んだ。笠はかぶらない。裸足だ。大きな里芋の葉を傘の代わりにして持っている。膝近くまで既に泥まみれになっている。
「何でだよお」
「森には鬼が住んどる。おめぇ鬼に食われてぇけぇ?」
いやだ、と子供は即答した。
「だったらさっさと来!」
「見たことあるのけぇ? じじ」
「いや、ねぇ。だが年寄りの言うことは信じるものだが」
「……ちぃっとだけ見てみてぇがや」
「よさんか!」
ぐい、と老人は空いている方の手で子供を引っ張る。いや、きっと手が両方塞がっていてもそうしただろう。
「いい加減にしねぇか! さっさと帰るで!」
さすかの子供もあきらめたようだった。まあいいか、ともう一度、傘代わりの葉をぐるん、と振り回した。大きめの水滴が宙を舞った。
何処かに落ちる音を期待していたようだが、何の音も自分に戻ってこないので、子供はとうとうそこから走りだしていった。
*
顔に大きな水滴がぶつかったので、男は目を覚ました。
……それでも俺はまだ生きてるんだな。
頭に巻いた黒い長い布を外す。するとやはり黒い長い、そして硬く重そうな髪が自由になる。ばらりと男の額と言わず頬と言わず顎と言わず絡みつく。
夕闇近くなった空の、わずかな光を反射して、そばに転がっている刀がぎらりと光る。刀は既に刃こぼれ激しく、ぼろぼろだった。
降り注ぐ雨が刀の血を全て洗い流していた。男の顔に手に飛び散った血もまた同様に。
俺はそれでも何とか生き延びたのか。
男は再びそのようなことを考える。死ぬ気はない。今でもない。だがあの時は死ぬ程の覚悟で飛び出したのだ。
ひどく身体が重かった。
雨の中で眠ってしまったせいかもしれない。疲れ果てた身体は、雨の中でその温もりを保つのも難しい。
だがそれだけではない。ひどく重いのは身体だけではない。男の身につけている鎧…… それが水を含んで重みを増しているのだ。
……もうこれを身につけてどのくらいになるのだろう?
外してしまえばずいぶん身体が自由になるだろう、とも思う。だが外してしまったらおしまいだ、とも思う。
いずれにせよ、そのどちらを選択する気力も、男には殆ど残されていなかった。
だが気がついた以上、再びそこで眠りに入る訳にはいかぬ。
男は桜野の国主だった。現在の桜野における城主であり、桜野の家におけるただ一人の男である。この戦国の世で、彼には親も兄弟もいない。名を
では何故その桜野の国主が、その隣国である阪島の地で雨に打たれているのか? 話せば長くなるだろう。
だが今の彼にとっては、それを語るような余裕はない。
雨が重かった。ひどく重いような気がしていた。
彼は全身の重みを、身体の倍の倍程もある太さの木にもたれさせる。重みに耐えきれなく潰れ果てた草の香が漂う。その香に混じって、彼は自分の血の臭いを嗅いだような気がしていた。
だがそれは間違いだった。
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