第33話:限界




 僕の言葉によって生じた沈黙を破る様に、フローリアさんが返答する。


「……ユイリからも報告は受けておりましたが、コウ様はどうして彼の事を気にされるのです?」

「えっと、質問に返すようで申し訳ないのですけど……、むしろ、どうしてそのような質問をされるのですか?戦術云々は別として、あの勇者としての力は、僕にとっては眩しいものです。気にしない、というのは些か無理があると思うのですが……」


 まるでトウヤの事を話す事自体が禁忌であるかのようなフローリアさんの問い掛けに戸惑いつつも、僕はそのように答える。

 ……まさか彼に自分の持つ『自然体』を含めた、『勇者』の資質を移す為などと、自身が勇者であると認めるような発言は出来る筈もないが……。それにしても、フローリアさん達のトウヤに対する印象が悪いような……?


「……トウヤ殿に力がある事は認めます。かの『竜王』を追い落とした偉業は、彼でなければ達成出来なかったのは事実でしょう。ですが……」


 フローリアさんがそこで区切ると、ユイリを見やる。それに従い、ユイリは席を立ってこの王城ギルドの部屋を離れると、


「今、ユイリには我が国に伝わる秘匿文書を取りに行って貰いました。彼女が戻ってくるまでの間に、トウヤ殿の事をお伝え致しましょう……」


 そう前置きしてフローリアさんが話し出す……。トウヤがこの世界に呼ばれて、今日に至るまでどういう事をしてきたかを……。

 彼の力自体は認めるものの、彼の行動はとても褒められるものではなく、ストレンベルクでは禁忌とされている『魅了』の能力スキルを持っていて、それを駆使して既にこの王宮に勤めていた侍女や貴族の関係者、あろう事か王女殿下にまで掛けようとしている等、相当好き放題にやっているという事実。

 魅了を掛けられた人物たちも色々事情があり、何とか上手い具合に収まったものの、トウヤを幾度となく諫めようとも自然に発動してしまうからと聞く耳を持たず、さらには偽りばかりを話す為、とても信用できるような人物ではないという事。

 確かに未知の技術も持っていて、ピストルやガンブレードといった、今までになかった武器を伝えはするが、量産等に関しては全て丸投げで権利や印税だけを主張するといった人間性に大きな問題があるという事など、僕が想像していた以上に評判の悪いトウヤに、正直戸惑いを禁じ得なかった。


 そんな話を聞いていたところに、ユイリが部屋に戻ってくる。


「ご苦労でした、ユイリ。コウ様、此方をご覧頂けますか?」


 ユイリが『収納魔法アイテムボックス』を使い、取り出した分厚い辞典のような本を僕の前に置いた。

 

「これは……」

「……先程お見せしたトウヤ殿が考案されたという陣形ですが……、もうご承知でしょうけれど、既に我がストレンベルクに伝えられているものも多く存在するのです。その中には、コウ様が口にされた内容も乗っております。まだ魔王の脅威に晒される前、各地で紛争が行われていた時代の兵法や、今までに召喚された数多ある世界の勇者様や、不意の事故か何かでこの世界にやって来られた転移者方の伝えた戦術など……。まるで自分が・・・考えたかのような物言いをされていたようですが、それが偽りである事も既に『真贋判別魔法ファクトフィクション』にて判明しております」


 本を次々とめくっていくと、確かに数多くの戦術や陣形、兵法といったあらゆる記載がされているのがわかる。中には見た事も無いような策略もあり、地球以外のところからもこの地にやって来ているんだなと思いつつ、それらに目を通していると、


「……『魅了』の能力スキルは本来、それを習得していると判明した時点で国からの追放対象となるのです。『魅了』されてしまうと、本人の意思や感情さえも相手に奪われてしまう為、王族達が掛かってしまったら国の崩壊に繋がる事になりますから、それについての対策はなされておりますが……。勿論、生まれ持ってそれらの能力スキルや才能を得てしまう方もいますから、その場合は此方で精査します。時としてその『魅了』の能力スキルを封印させて貰う事もありました。もしくは、信頼できる人物として、同じく信用できる方の傍に居て貰うという方法もありますね」


 シェリルを見ながらフローリアさんが話すのを見て、成程と思う。彼女もただそこにいるだけで、人を魅了してしまう様な天性の美貌を持っている。だけど、それは能力スキルみたいなものじゃないから……、封印なんて出来る筈がない。シェリルもフローリアさんに小さく頷くのが見え、その事を自覚しているのだろうと思われる。外に出る際はフード付きの外套で覆い、エルフ族を示す耳や元の身分を隠すだけでなく、出来得る限り素顔を見せない様にしているのは、まさにそういう事だ。


 ……うん?待てよ?信用できる方の傍に居て貰うって……、まさか僕の事を指しているのか……?なんかこの話の流れって、あまり僕にとって歓迎する事態ではないような……。それに、よく考えると今何気なくみているこの本って、確かこのストレンベルクの秘匿文書って言っていなかったか……!?そんなモノを見せられている時点で、これは…………。


「……いい機会ですのでお伝えしておく事にしましょうか。コウ様、我々は貴方こそが正式な『勇者』としてこの地に参られたと推察しております。自ら勇者と触れ回っているトウヤ殿ではなく、貴方こそが待ち望んだ『勇者』である、と」


 今まで僕を伺っていたのか、フローリアさんがそう切り出してきた。それに伴い、周囲の雰囲気もまた変わったように感じる。

 ……何となく、そんな事を言われるような気がした。あの時……、この世界ファーレルに召喚された際にはわからないだらけの状況であったが、今となっては自分が『勇者』の資質、というよりも資格がある事はわかっている。だけど、認めてしまう訳にはいかない。


 僕は言葉を選ぶ様にして、フローリアさんに返答する。


「それはまた……、最初に王女殿下にもお伝えした事ではありますが、僕はそんな大それたものではないですよ。何処にでもいるような……、ただの一般人です」

「今まではそうだったのかもしれません。ですが、この地に参られてから貴方の様子は全て拝見させて頂きました。貴方の言動や振舞い……、そして貴方が積み重ねてこられた事を……。それはユイリやレン達からも報告は上がってきております」


 僕が、積み重ねてきた事……?なにか、やったかな……?それこそトウヤが竜王を追い払い、ストレンベルクに更なる繁栄を齎したような分かりやすい成果も無いし、まして積み重ねた事なんて言われても……。

 困惑する僕に畳みかけるようにして、ユイリも口を開く。


「いつだったか、話してましたよね?はじめから覚えていた能力スキルの中に、『自然体』というものがあったと……。これは、この世界に降りられた勇者様が持つと云われる固有の能力スキルなのです。そして、先日の魔神も言っておりました。貴方は、勇者が覚醒せし姿である、『界答者』の器を持ちし者である、と……」

「……そんな事を言ったかな?それにあの魔神だって、僕なんかにシェリルを奪い返されて混乱していたようだったし……、あまり深い意味なんて無かったんじゃないか?そもそも、その『自然体』だって、これからトウヤ殿も得られるような後天的な能力スキルかもしれないし、この世界にやって来た時から持っているものとは断言できないと思うよ?」


 ……まさか、自分を馬鹿にしているんじゃないかと思われた『自然体』が、勇者固有の能力スキルだったなんて……。

 いつもと異なり、何処か他人行儀で話してくるユイリに対し、苦しい言い訳だなと我ながら思いつつも、うっかり口を滑らせた過去の自分を責めながらそう返答する僕に、


「『自然体』を保有している事は否定なさらないのですね。それに、『界答者』の事についても知っているご様子ですが……」

「……貴女方の仰る『自然体』と、僕の認識している能力スキルが異なっているかもしれません。また、『界答者』についても、あのパンドーラとかいう魔神がペラペラ説明してましたから、どういうものなのかは何となくわかっています。ただ、これだけは言えますが……、今の・・僕は貴女方の言っている『界答者』ではありません」


 フローリアさんの追及に、僕はそう断言する。

 ……一応、嘘ではない。覚醒していない僕は、まだ・・『界答者』ではない筈だ。敢えて『勇者』ではなく、『界答者』として答えたのはそういう訳であって、論点をすり替えて答えたから、もし嘘かどうかを見分ける能力スキルや魔法を掛けられていたとしても、問題はないだろう。


 すると次は経緯を見守っていた王女殿下が問い掛けてくる。


「……コウ様の仰るように、トウヤ様にも『自然体』の能力スキルが発現される可能性もあると思います。ですが……、現時点において、彼がその能力スキルを宿していない以上、勇者では有り得ないのです。それに……、今までお話しておりませんでしたが、召喚者であるわたくしには、誰をこの地にお迎えしたのかわかるのです。勇者に相応しき人物で、わたくし共が望むような魂の輝きを持つ方を呼び寄せる『勇者召喚インヴィテーション』……、『招待召喚の儀』によって紡がれし絆を、確かにわたくしは感じているのです。そしてそれは……、トウヤ様にではありません……」


 僕を見つめながら、はっきりとそう答える王女殿下。それでは誰を召喚したのか、誰にその絆というものを感じているのか……。そんな事、改めて問うまでも無い。

 ……他ならぬ自分も、彼女に対し何かしら感じるものはあったのだ。最初は、初めて見る高貴な雰囲気を持つ、美しい王族の女性というのもあって、見惚れてしまった事からくる勘違いだと思っていたし、あの時は急にこの世界に呼ばれた困惑と緊張もあって、それどころではなかったという事もあったが……。

 そういえば、あの不思議な空間であった存在も言っていたっけ……。召喚者本人には、勇者が誰かわかっていると……。


「貴方は一般人であり、そのような器はないと仰いますが……、それを決めるのはコウ様、貴方ではないのです。この『招待召喚の儀』は、神がこの世界の存続の為に、先祖代々伝えてこられた究極の召喚魔法であり……、その『勇者召喚インヴィテーション』に選ばれし者は、その資質もさることながら、ある意味で召喚者の理想も伝えてしまうのです。わたくしが望んでいたものは、見た目の良し悪しではなく、内面の……、と申し訳御座いません、話が逸れてしまいましたね……」


 慌てた様にそう繕う王女殿下。若干顔も赤くなっているようで、告白されているような気がしないでもなかったが……、今はそれどころではない。

 召喚者である王女様が直接ではないにしろ『貴方が勇者だ』と宣言したのだ。このままでは僕は、なし崩し的に『勇者』にならなければならなくなってしまう。

 それは……元の世界に帰れなくなる事を意味する。それだけは……、絶対に認める訳にはいかない!


「……買い被りすぎです。僕は、自分の事しか考えていない人間ですよ?今だって、元の世界に戻る事だけを考えている……。その為だけに、僕は動いているんです。王女殿下の仰るような高尚な人間ではありませんよ」

「そうかしら?貴方が自分の為だけに動く人であるのなら……、今頃こんなところにいないのではないかしら?既に元の世界に戻れる目途はついたのだし、あとは星銀貨や白金貨集めに邁進すればいいだけの筈よ。それこそ貴方が面倒くさがっている利権や印税も利用できるだけ利用して、少しでもそれらを入手する手段を得ればいいのだし、そもそも姫の隷属の首輪を外すという選択肢もなかったでしょうね」

「ああ、それにそこで丸くなってるアサルトドッグの存在も無かった筈だぜ。先日の魔神の野郎と戦う事になった時も、お前がいなけりゃシェリルさんは助けられなかった。まぁ、あんな修羅場にだってお前が自分の事だけを考えていたら、遭遇する事もねえよ。よく貴族が依頼してくるが、自分は安全の場所にいて俺らに任せるって選択肢もあったろうからな。第一、あの魔神と対峙できる事自体、自分の事しか考えてねえ奴には出来ねえよ。正直、俺だって逃げ出したかったくらいだからな」


 僕の逃げ道を、ユイリとレンが塞いでいく。皆に認められ、喜ばしい事態の筈なのに、褒められれば褒められるほど、外堀を次々と埋められていくような錯覚に陥る。


 ……一体、何でこんな事になってしまったんだ?どうして僕は……ここに居る?勇者になってしまったら、二度と帰れなくなってしまうというのに……、どうして勇者である事を認めざるを得ない状況になってしまっているんだ?

 勇者としての器を認められていくのと同時に、僕の心はどんどん追い詰められていく……。考えないようにしていた元の世界での事を思い出され、今にも心が張り裂けそうになる……。


「……この地へお越し頂いた際に、トウヤ様のステイタスはわたくしの『生物鑑定魔法エキスパートオピニオン』で確認させて頂きました。ですが貴方に置かれましては、承諾も無くいきなり此方の世界に召喚されてしまい、わたくし共を警戒されていらっしゃいましたから……、まずはご信頼頂けるよう努めて参りました。……今でもまだ、わたくし共を信用しては頂けませんか?」

「それは……。いえ、そんな事はありません。今では貴女方を……信頼しております」


 もう、此方の世界を見捨てられない程に、僕の事に心を砕いてくれている王女やユイリたちを信頼してしまっている。このように答えたら次にどんな言葉が飛んでくるかも察してはいるが……、王女殿下からの問い掛けにこう答えるしかない……。

 やめてくれ……、それ以上は……!僕の心が張り裂けそうになっているとは露とも知らず、僕の返答を聞いて嬉しそうに王女殿下は口にする。


「それは何よりです、コウ様。でしたら……、あの時は教えて頂けなかった、貴方のお名前をお聞かせ頂けませんか?そして、貴方に『生物鑑定魔法エキスパートオピニオン』を……」


 それ以上続けられたら……、僕が、ボクデ……、ナクナッテシマウ……ッ!!










 あの日、彼に掛ける事が叶わなかった『生物鑑定魔法エキスパートオピニオン』を使用させて貰う了承を取ろうとしたところで、


「……っ!?」


 脳裏に浮かんできたその展望ビジョンに、思わず言い淀む私。今のは……一体……!?


「……王女殿下?如何なされましたか?」


 そう怪訝そうな様子で宰相であるフローリアから声を掛けられる。彼に勇者である事をわかって貰うと同時に、『界答者』への覚醒を促したいという私達の望みもあり、最初の一歩であるコウのステイタスを確認する……。その懇願の最中に言葉を詰まらせてしまった私に、彼女の怪訝は当然と言えるが、


「……いえ、ですが少し性急すぎましたね。本日は、ここまでに致しましょう」

「!?お、王女殿下!?それは、どういう……!」


 戸惑うフローリアを目で制止つつ、


「……いいのです、フローリア宰相。少しお願いしたい事もあるので、この後わたくしに付き合って下さい。ライオネル団長とガーディアス隊長も宜しいですか?」

「畏まりました、レイファニー様!」

「私も構いませんよ。不肖ガーディアス、お供致しましょう」


 2人の了承した旨を聞き、フローリアも頷いたところで、私は彼に視線を戻す。


「……王女殿下」

「コウ様、先程貴方が仰っていた権利等のお話ですが……、トウヤ様に一度打診しておきます。もし、彼がそれらについて御存じであったなら、トウヤ様に利権や印税が発生するように致しましょう。その際に、貴方の名前をお伝えしておきます。そうすれば、彼への接触の切欠となるでしょうから……」


 彼がどうしてトウヤに接触したがっているのかはわからないが、コウであれば話を上手く持っていくだろう。そこでどんな話をするかは、後でユイリに報告してもらうとして、


「ですが……、彼がルール等を御存じなかったりした場合は、コウ様のお名前で登録する事はご承知おき下さい。ユイリに棚上げ状態となっている、料理関連の特許も同様です」

「……有難う御座います。それで、構いません……」


 よく彼を見てみると、酷く疲れているような印象を覚える。先程の展望ビジョンといい、どうして彼がこのような状態になっているのだろうか……。そんな彼を見ていると心がチクりと痛むような感情にとらわれそうになるが、ニコリと笑顔を見せ、


「本日は有難う御座いました、コウ様。とても有意義な時間を過ごす事が出来ましたわ。それでは、わたくし達はこれで失礼します。また帰還の件も、進展がありましたらユイリかレイアを通してお伝え致しますので……」

「……重ね重ね御礼申し上げます、王女殿下」


 消え入りそうな彼のお礼を聞き、私はフローリア達を伴い『王宮の饗宴ロイヤルガーデン』の部屋を出る。


「……レイファニー王女。何故先程、コウ様を鑑定させて貰う旨をお伝えしなかったのですか?トウヤ殿が勇者で無い以上、少しでも早く彼の鑑定を済ませて、その能力スキルを確認する事が急務となっているのは御承知の筈です……!それなのにどうして……」

「……それは言えません。言ってしまえば、折角彼が贈ってくれた貴重な魔法工芸品アーティファクトが、失われてしまう事になりますから……」


 部屋を出て暫くすると、フローリアが訴えてきた事に対し、私はそう口にする。これだけ言えば、優秀な彼女はその意味をすぐに察してくれたようだ。


「それは……、つまり彼に勇者であると認めて頂こうとして、何か不都合な事が起こったという訳ですか……?」

「フローリア、貴女は今一度、過去の勇者様の記述を調べて貰えるかしら?わたくしも後で調べてみますけど、見落としていた何かがあるのかもしれません。ライオネル団長は引き続き、リーチェと連絡を取りつつトウヤ様の動きを注視して下さい。先程の利権等の件についても打診しなければなりませんし……。ガーディアス隊長は今まで通り、王城ギルドを纏めつつ彼の事をお願い致します」


 私の言葉に畏まりました、と各々の場所へと戻っていくのを見届け、自分だけとなったところで先程の光景を思い浮かべる。二度と思い出したくない、痛々しい彼の姿を……。


(あんな事になってしまうなんて……。貴方は一体、何を抱えているの……?『勇者』とは貴方にとって、それ程までに重いものなの……?)


 勇者を覚醒させ『界答者』へと導き、魔王による脅威から世界を救う……。その勇者を唯一迎える事が出来る我が国への期待は大きく、それ故にその責任も比例して大きくなっている。

 だからこそ、何処かトウヤに対して自分を比較してしまっているようなコウに自信をつけて貰う為にも、ここで『勇者』であると確定させて出来る事なら『界答者』への覚醒の助けになれれば考えていたのだが……。


 フローリアに伝えた通り、彼の置かれている境遇を知る必要性を感じつつ、ベアトリーチェに通信魔法コンスポンデンスを送るのだった……。











 正直、あれからどうやってこの清涼亭まで戻って来たのか、いまいち覚えていない。

 グランに気分がすぐれないと伝え、逃げるように席を立った僕に慌てて続いたシェリルとユイリにも気を留める事なく只管に歩き続けて……。その間に2人から何か言われたような気もするが、その言葉は全く僕の耳に入ってこなかった。

 唯一覚えているのは、清涼亭の自分に割り当てられた部屋まで戻って来た際に、ユイリより「何かあったら呼ぶのよ」と言われた事くらいか。そうして僕は窓際にある椅子に腰を下ろして、完全に無言を貫いている。


 シェリルもそんな僕を気にして、外套を脱ぐことも無くこちらを見守っているような状況だ。僕の雰囲気を察してか、ぴーちゃんもシウスも鳴き声を発する事も無く、シェリルの傍で佇んでいる。部屋内は重苦しい沈黙に包まれ、明らかに異様な雰囲気となってしまっていたが……、今の僕にはそんな事を気にする余裕も無かった。


(……僕は、どうすればいいんだ……)


 あの時、王女が話を切り上げてくれなかったら……、僕は気が触れていたかもしれない。それ程までに自分の感情が追い付かず、持っていき場のないそれが暴走するかのように僕の中で駆け回っていた。


 勇者になるという選択肢は……無い。なってしまえば僕はもう元の世界に戻れなくなってしまう。唯でさえ、今向こうがどうなっているのかもわからず、不安でいっぱいなのだ。元の世界ではどれくらいの時が流れているのだろうか。職場は……、どうなっているのかな。いきなり消えた僕を、どう思っているだろうか。捜索願が出されているか?神隠しに遭ったとか?部屋も調べられているかな?確か忙しすぎて殆ど家に居なかったからな……。生活感がないとか言われているかもしれない。……家族も、心配しているだろうな。親父の病状も、僕のせいで悪化させてしまっているかもしれない。母さんも、どう思っているかな……?弟も新入社員となったばかりなのに……。仕事に集中できているかな?妹だって、大学に入ったばかりだというのに……。


 …………ドウシテボクハ、コンナトコロニイルンダロウ。


(……駄目だ、考えていると余計におかしくなりそうだ)


 一人に、なりたい。一人になって、胸の内にある感情を思いっきり吐き出したい。そう思った瞬間、僕は不意に椅子から立ち上がる。


「!……コウ様、どちらに?」

「……ごめん、シェリル。ちょっと出てくる。すぐに戻ってくるから」


 突然アクションを起こした僕に驚いた様子の彼女に対し、素気無くそのように伝えるとすぐに部屋を出ようとしたのだが、


「それなら、わたくしも参りますわ」

「……悪いけど、ちょっと一人になりたいんだ。君はここで待っていてくれ」


 ついてこようとするシェリルに、冷たく突き放す様に僕は彼女に告げる。いくら彼女であろうとも、今だけは一緒に居て欲しくなかった。こんな僕を見せたくなかったという事もあったかもしれないが、それ以上に自分一人だけになりたかった。元の世界の事を知る人は、ここには一人もいない。自分の事を本当の意味で分かってくれる人は、このファーレルでは一人もいないのだから……。


「……今のコウ様を、一人にしておくなど出来ません……。お邪魔はしませんから、どうかお傍に居させて下さいませ」


 しかしながら、シェリルも折れてくれようとはしない。僕の思いと裏腹に何としてもついてくるという彼女に、


「……僕は今、普通の状態じゃないんだ。君を、傷つけてしまうかもしれない。だから……」

「でしたら尚の事、です……。そんな時に一人になられるなんて、そんなこと……」


 引く様子の無いシェリルに、自分の中で暗い感情がむくむくと頭をもたげてくるが……、それを必死に押し殺しながら、僕は彼女に懇願する。


「お願いだから……放っておいてくれ、シェリル……!本当に、どうにかなりそうな気分なんだよ。君にだって、何をするかわからないんだ……!」

「……かまいませんわ。それでもわたくしは、貴方の傍におりますから……」


 それを聞いて、プツンと僕の中の何かが切れてしまったような錯覚に陥る。いつもは働く理性も鳴りを潜め、僕を留めようともしなかった。

 そっか……、とポツリと呟くと、僕はシェリルの腕を掴んで強引に寝台へと歩き出す。


「コ、コウ様っ!?何を……っ」


 困惑しているシェリルを余所に、僕は自分の寝台まで連れてくると、彼女をそこへと投げ出す。

 きゃっ、と小さな悲鳴を上げるシェリルに跨るようにして、起き上がろうとする彼女の両手首を掴んでそのまま寝台へと押し倒した。両手を顔の両横で封じられながら、信じられないといった感じで僕を見つめてくる彼女に少し理性が戻ってくるも、それを振り払うようにしながら次のアクションを起こす。


「……っ」


 シェリルの両手を頭の上で一纏めにし、空いた手で彼女の着ていた外套を強引にビッとはだける。止めていた留め具がはじけ飛び、その下にはいつも着ている露出の大きい部屋着が覗いていた。その豊満な胸の谷間も僕の前にさらけ出され、自分の中で性欲から来る劣情に支配されそうになる……。


 僕の突然の行動に息を吞む彼女だったが……、僕に出来る事もせいぜいここまでだ。これ以上の事をしてしまえば、もう自分でも止める事が出来なくなってしまうだろう。ゴクリと唾を呑み込みながら新たに湧き上がってくる感情もそれと一緒に吞み込もうとする。


 ……彼女を傷付ける事が目的じゃない……。いくらキレたとしても……、大切なものを壊してしまう程おかしくなっている訳ではない。シェリルに拒絶して貰う為に、あえてこんな事をしているのだ。男の恐怖に晒されて、シェリルのトラウマを引き起こさせている事に悪いと思いつつも、こうでもしなければ彼女は折れないだろう。


 それに……、シェリルが僕を拒絶してくれたら、それはそれで一つのケジメとなる。いつかは、離れなければならないんだし、いい機会であるかもしれない。これ以上傾倒すると、本当に離れられなくなるかもしれないから……。


(早く……、早く僕を拒絶してくれ……!)


 心でそう思いつつも、冷たく表情を作らないようにしてシェリルを見下ろす僕。戸惑った様子で僕の目を見つめている彼女だったが、やがて……、


「っ!?」


 シェリルは見つめていた目を閉じると頭を寝台へと戻したのだ。抑えている両手も解放される事を望まないかのように、僕にされるがままになり、彼女の身体も呼吸だけで僅かに動いているくらいの状態となっていた。

 一瞬抵抗を諦めてしまったのかと思っていたが、そんな感じじゃない。目もただ自然に閉じただけといった様子で、ギュッと我慢しているようなものは見受けられなかった。

 その姿はまるで……、僕に何をされても受け入れると言っているかのように……!


(そんなバカな!?あんなに……、怖がっていたんだぞっ!?先日までは僕にだってその恐怖は覗かせていたっ!まして今日はそれを煽るかのように押し倒しているのに……っ!一体、どうして……っ!?)


 僕が本気じゃないと思われているのか!?それならもう少し強引に……と言ってもこれ以上の事をすればこっちが引き返せなくなるぞ……!?

 それに……、そうしたところで彼女は受け入れてしまいそうな気がするのは僕の気のせいか!?


(それなら……本当にこのまま……。いや、駄目だっ!!そんな事をしたら本末転倒だし、こんな嫌な感情をぶつけるような形で相手を抱きたくなんてないっ!!ましてそれを、シェリルに……、大切な人を相手にそんなこと出来る訳がないじゃないか……っ!!)


 どうして、なんだ……!シェリルを襲っているのは僕なのに……、どうして僕の方が追い詰められてしまっているんだ……!?このままでは……、色々な意味で本当に元の世界に戻れなくなる……!どうすれば……僕は一体、どうすればいいんだ……!?











 私は目を静かに閉じると、彼を見上げるようにしていた頭もベッドへと投げ出した。さらに体についても出来る限り緊張を解く様にし、抵抗を放棄して彼に身を任せるようにする。


(……この方にだったら、わたくしは……)


 いつからこんなにも彼の事を想うようになったのか……。彼に心を癒して貰った時から?それとも、魔神から助けて貰った時だろうか?一体いつから彼を愛おしく感じるようになったのかはわからないけれど、今は彼に何をされたとしても拒絶するような事はない。

 流石に初めて体験するであろう事に、全く緊張しないという訳にはいかない。それでも、彼から与えられる事を全て受け入れるつもりでその時が来るのを待っていると……、


「…………ごめん」


 やがてポツリとそう呟く彼の声と同時に、私を拘束していた腕を開放し、組み敷いていた状態から身を離すと、すぐさまベッドから下りて部屋から出ていこうとする。そんな後ろ姿に、私は彼の名を叫ぶ。


「コウ様っ!!」

「っ……!」


 私の声に反応するかのようにビクリと身を縮めると、彼はその場にゆっくりと蹲ってしまった。その様子を見て、私はゆっくりとベッドから身を起こし、はだけられた身なりを戻しながら彼の下へと近づいてゆく……。


「…………どうして、拒絶しないんだ……。君は、まだ男が怖いはずだ。それなのに……なんでこんな目にあっても、僕を拒絶しないんだ……?どうして、君は……」

「……貴方だからですわ。それに、そんな悲しそうな顔をされている貴方を……、放っておける訳ないじゃありませんか……」


 そっと彼の手をとり、自分の両手で包み込むようにして彼を見つめると、


「……『勇者』の話をされている時に、貴方の感情が張り裂けそうになっているのはわかりました。どうして、そのようになられるまでに貴方が追い詰められてしまったのか、分からないわたくし自身も悔しく思います……」


 彼の心と同様に、冷たくなっていた手をギュッと握り締め、その温かさを心にまで届けるように、私は訴えかける。


「わたくしは、コウ様が『勇者』で無くてもいいのです。『勇者』と云われる事が苦痛であると仰られるなら、二度とそのようなお話をしないようレイファニー様にお伝え致しますわ。ですからどうか……、どうかわたくしを、貴方の傍に居させて下さい……!」

「…………シェリル」


 揺れている彼の瞳を見据え、笑顔で答えつつ、私は握り締めていた片手を離し、そっと彼の頭に掌を持っていく。そして、心を込めるように彼の頭を撫でていった……。


「初めて貴方にお会いした時、わたくしにして下さいましたよね……?確か『手当て』、でしたか……。上手く出来るかはわかりませんが、今度はわたくしにさせて下さい……」


 あの時、私にしてくれたように、愛しさを覚えながら彼の事を撫で続ける……。彼の体から少しずつ硬さが取れてきたところで、少しずつ震えが出てきたように感じる。何処となく嗚咽を我慢しているように見受けられた彼に、私は諭すように言葉を掛ける。


「……泣いても、よろしいのですよ?せめて、わたくしの前では……楽になさって下さい。貴方の弱いところも含めて、わたくしに見せて下さいませ……。どんな貴方でも、わたくしは受け止めてみせますから……」

「……ッ!うぅ……っ!!」


 私の声を聴いて、小さく体を震わせたかと思うと、やがて嗚咽を漏らし始める。そして、その微かな嗚咽も変化しはじめ……、ついには感情を曝け出す様に声を荒げるようになっていった……。そんな彼をすっと私の膝元に横たえらせ、癒すように労わり続ける。


(……ずっと、お一人で溜め込まれていたのですね……。せめて今だけでも……、貴方が癒されますように……)


 私はそう心の中で祈ると、少しでも眠りにつけるように子守歌を歌い始める。彼の慟哭に胸が痛くなるのを感じつつ、私は彼を優しく撫でながら歌い続けると、少しずつ声が小さくなっていった。彼が眠りにつくまで……、私はそうして彼を癒し続けていた……。






 続いていた嗚咽が止み、漸く眠ってくれたコウの黒い髪をなぞるように撫でながら、私は考えていた。


(あれほど追い詰められて……、消耗されていらっしゃったのは間違いなく『勇者』関連の事なのでしょう……)


 初めてコウに会い、彼の事を聞いたあの日、ユイリからはコウが勇者である可能性があると聞いていた。可能性、というのは……古来よりの『勇者召喚インヴィテーション』とは違い、2人も勇者候補の人物が召喚された上に、コウに限っては彼の意思でこの世界にやって来た訳でないので確定的でないから、と聞いている。さらに元いた世界に帰りたがっているという事も……。


(わたくしとしては……、連れて行って貰えるのであれば、そうして頂いてもいいのですけれど……)


 ただ彼としてみたら、私を連れていくつもりは今のところ無いようだったので、そういう事になるのであれば話は別である。何度か打診していた事はあるが、何れも答えは「NO」であり、どうもそれは彼の考えからきているようだった。


 彼は、心優しい人物だ。人の心に敏感で、嫌がっている事を決してせず、争わないですむのなら魔物であっても情けをかけるような人でもある。私と彼の傍で丸くなっているアサルトドッグのシウスがこうしてここに居られるのは、間違いなくコウの人柄のお陰であるのだろう。今も眠ったコウを伺いながら彼の身体で羽根を休めている小鳥ぴーちゃんが、ここまで彼に懐いているのも、コウの優しさを感じているからに違いない。


 そんな彼のやさしさは、私の好きな彼の魅力のひとつでもあるけれど、同時にそれが彼を苦しめているのではないかと推察する。

 例えば……、勇者となって覚醒してしまうと、元の世界に帰れなくなる……とか。過去において、了承してこの地へとやって来た勇者方が元いた世界に戻ろうとするとは考えられず、また今回のように強制的に此方の世界へ召喚されてしまったコウの境遇を考えれば……有り得ない話ではない。


 でも、もし本当にその推測が正しく、勇者になりたくないのに私たちの為に元の世界に戻る事を躊躇しているのだとしたら……、それは酷く甘い考えであり、浅墓であると言わざるを得ない。

 元王族として、人の上に立つべく帝王学やそれに付随する振舞い、考え方を施された私だからそう思ってしまうのかもしれない。しかし、彼の一番の願いが元の世界への帰還であるというのであれば……、そして元の世界にて彼を待っている人たちがいるのであれば、迷わずに帰還する事を選ばなければならないと思う。

 こちらの世界の事は、彼にとっては巻き込まれた事象にすぎないのだ。それであれば初志貫徹して、元の世界に戻る事だけを優先する。私たちにとっては、勇者不在という未曽有の危機に見舞われる事になるかもしれないけれど、どちらかしか選べないというのなら自分にとって大切なものを選ぶしかない。自身の生まれた世界、そこで構築された友人たちや家族、知人たちのいる元の世界を選ぶことは、帝王学の観点から考えても至極自然な事であり、どちらも選ぼうとすれば絶対に良い結果とはならないから……。


 究極の二択を突き付けられたなら、どちらかを切り捨てるしかないのだ。そして、切り捨てるのであれば、それは私たちを切り捨てるべき。……もしそれが出来ないと言うのであれば、それは彼の甘さである。最も、そんな甘い彼に私は惹かれた訳だけれど……。


(あ……)


 そっとコウの横顔を眺めていると、泣きつかれた彼の目尻に残る涙の跡を見つけて、それを拭った時に彼の唇が目に入る。膝枕の位置をずらし、彼の顔が正面にくるように調整すると、ますますそこから目が離せなくなった。

 やがて、自然と引き寄せられるようにその唇に顔を寄せてゆき……、そこに重なり合う寸前にハッと思いなおす。唇への口付けはヒューマン族にとっても大切なものと聞く。流石に彼の意識が無い中で、私の都合で接吻をかわす訳にはいかない。するにしても、こんな形ではなくお互いの意思で……。そこで私は唇ではなく、耳の付け根近くの頬へと口付けを落した。

 そこに口付けを落とす事も、私たちエルフ族にとってはある意味特別な事である。その人へ一生を捧げるという一種の誓いでもあり、一方的なものではあるけれど……。


「貴方が許して下さるかはわかりませんけれど……」


 儚く笑いつつ、私は小さくそう漏らした。両親を失い、国を、全てを失った私にとって、彼だけが最後に残った絶対に失いたくない大切な人であるのだ。

 いつから彼をここまで想うようになったかはわからない。最初に私を癒してくれた時からかもしれないし、常日頃から私に誠実に接してくれているからかもしれない。先日の透明なスライムや神に等しい力を持つ魔神に捕まってしまった私を助け、命に代えても守ろうとしてくれたあの時には、完全に心が定まっていた。

 今更コウを忘れる事なんて出来ないし、離れるという選択だって自分には選べそうにない。もしも拒絶されたらなんて考えるのも恐ろしい事だが、幸いにも彼は私の好意に気付いており、それを迷惑に思ってはいないみたいだけど……。


 そこまで考えて私はひとつ息をつくと、部屋のドアの向こうにいる人物に声を掛ける。


「……もう入って来ても大丈夫ですよ、ユイリ。コウ様も、お休みになられておりますから……」


 私の声と同時に部屋のドアがゆっくりと開く。少しばつが悪そうな様子で部屋に入ってきたユイリは、


「申し訳御座いません、姫……。彼の事もお任せしてしまって……」

「いいのですよ。わたくしがしたいと思った事をしているだけですから……」


 ユイリに言われるまでもなく、彼が心配だからやった事だ。そして彼女には……伝えておかなければならない。


「……初めてコウ様の事をお話しして頂いた時、恐らく勇者としてこの地に呼ばれた彼を、わたくしさえよければ支えて欲しい……、そう話していましたね。お支えする事については頼まれずとも今後もさせて頂きますが……、勇者に覚醒させるよう促す、というのは難しいかもしれません」

「……そう話されるという事は、姫はやはり、彼が勇者に違いないと……、そう考えていらっしゃるという訳ですね?」


 ユイリの確認を込めた問い掛けに頷きながら、私は答える。


「貴女方が考えておられる通り、彼が勇者としての資質を持っているのは……、本日のコウ様のご様子から見てもまず間違いないでしょう。わたくしも人物を鑑定する魔法は使えませんので確認はできませんが……、いつか彼の話していたという『自然体』の能力スキルも恐らく保持されていらっしゃると思います」


 確かにコウと共に魔法屋に行き、『魔法大全』について話していた際に、そんな事を言っていた覚えはある。勇者の覚えているという固有の能力スキルまでは私も知らなかったけれど、ユイリ達に聞いた『自然体』の効力は、先日の魔神との戦いから考えてみても、コウが持っているとみて間違いないだろう。


「その上で、彼がこのようになられている原因として考えられるのは……、勇者に覚醒する事で、彼の大事なものを失う可能性がある……、そんなところかしら?それ故に勇者である事を、覚醒する事を拒み続けているのではないかとわたくしは思います」

「……大事なものと言うと、例えば彼の居た世界に帰還できなくなる……、とかそういう事でしょうか……?」


 私が推察した事を話すユイリ。常日頃より、彼が自分の居た世界に戻る事を何よりも願っている事を知っているからこそ、彼女もわかっているのだろう。


「自身の世界での思い出や記憶といったものを全て忘れてしまう……、そんな可能性もありますね。あまり彼の世界の事はお話されませんけれど、ここまで帰られたがっている以上、向こうに大切なものがあるのでしょう。自分が生まれたところでもありますし、ご両親もそちらにいらっしゃるのでしょうから……。そんな大切なものを忘れてしまう事になったら、わたくしだったら気が触れてしまうかもしれません……」

「……確かにそう考えたら、彼の様子について説明がつきますね……。思い出や記憶を忘れてしまうなんて事になったら、帰りたがっていた理由すらも失われる事になってしまいますし……」


 渋い顔になってコウを見る彼女に、私はあらためて向き直ると、


「……ですので、コウ様を勇者へと覚醒させるというのは……、申し訳ないですけど承服できませんわ。ストレンベルクの方々にはお世話になってますし、色々良くして下さって感謝しておりますけれど、こればかりは……。例え、勇者不在となって、世界が滅ぶとしても……、彼が拒むことを押し付ける事は、わたくしには出来ません……」

「……姫のお気持ちは理解できます。私としても、彼が苦しむというのは歓迎できる事ではありませんしね……。流石に世界が滅びてもいいとまでは言えませんが……」


 苦笑しながらそう答えるユイリに、私は続ける。


「ですが、コウ様にはあの話題は暫く避けた方がいいでしょう……。彼の負担になる事も控えるようにして欲しいとも……。わたくしがそう話していたと彼女にお伝えして下さい」

「……王女殿下としても、先程の様に彼が苦しむことになるのは避けられたいと思っているでしょう……。ですが、勇者を覚醒させて『界答者』へと導くのは、ストレンベルクに課せられた世界共通の責務です。一概に、『はい、わかりました』、とはいかないでしょう……」


 それは……わかっている。既に国として保つ事が出来ていない私の祖国同様に、第2のメイルフィードがいつ起こるとも限らないのだ。でも、そうだとしても……。


「……そうだとしても、です。このままでは、彼の心が壊れてしまいますわ……。それは、レイファたちにとっても望む事ではないでしょう?」

「そうですね……、まぁトウヤ殿に接触したいという事から考えても、彼も何か考えているようですから……。先程、王女殿下より暫く様子を見るよう通信魔法コンスポンデンスも入って参りましたので、姫のおっしゃられる形になるかとは思います。ですが……、わかりました。確かに王女殿下にはちゃんとお伝え致します」


 お願いします、とそのように伝えて私は再びコウの方へと視線を戻す。最も、それについては言われるまでもなくわかっているだろう。あの時、レイファが何かを言い掛けて止めたのは、恐らく選択の指輪でその結果を視たからに違いない。それに……、


(……わたくしとしては、別に彼が勇者でなくても構わないのです……。わたくしにとってコウ様は、自分の心を救ってくれた勇者様であるのだから……)


 とは言っても、流石に世界が滅んでも、などというのは我ながら言い過ぎたと苦笑する。元とはいえ、仮にも一国の姫として、人の上に立つよう教育された自分がそんな事を言うのは問題であるだろう。いくら両親をはじめ、全てを失ってしまっているとしても……。

 でも……、その後に訪れた彼との出会いを通して、コウの事を世界の何よりも大切になってしまったというのもまた、私の偽らざる本心である。


 せめて今この時だけでも、彼に穏やかに過ごして貰いたい……。ユイリに見守られながら、彼が目覚めるまでの間、私は愛しさを込めてコウを見つめ続けていたのだった……。

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