第5話 永遠に君と :1

 サイン・コサイン・タンジェント。


 人類はずいぶんと数学的知識を得たもんだと感心しながら、私は教室の窓際の一番後ろの席に座っている。クラスメイトは、真面目にノートに書き書きしている。数学。さっぱりわからない。


 黒板にチョークで数式を書く先生の後頭部は、日に日に増毛され色濃くなっていっている。人類は随分と数学的知識と増毛技術を得たもんだ、と思うけれど、まだ愛されたり、誰かを愛することは、苦手なのかもしれない。先生は、独身。婚活中だ。


 校庭をぼんやりと見る。


 グラウンドに風が吹いている。砂ぼこりが円を描くように舞っている。その先は、見渡す限り、家、家、家、ビル。あの頃と、随分変わった。変わらないはずの空は小さく見えるし、大きな塊が飛んでいる。飛行機。危なっかしい。 


 地球の自転は、あの頃、今より遅かったのだろうか? 時間がゆったりと流れていた気がするあの頃。つまりフィルと一緒にいたあの頃。


 ヨーロッパのどこかの丘の上。幼馴染のフィルと、ただ座ってぼうっと景色を眺めていたときの感覚では、風も、空気も、全てがゆっくりと、頬をいちいち撫でるように流れていた。


 丘の上の野原には、黄色い小さな花があちこちに咲いていた。素敵なジュウタンみたいなあの場所。どこにも不快感がない時の流れ。歪みがない、あの時の流れ……。


 そこで、フィルとよく追いかけっこをした。と言っても、フィルが必死で逃げ回る私に、「速い速い!」と言いながら、ゆっくりと後をかけてきて、追いつかないふりをしてくれていたけれども……。


 フィルは、5歳年上の近所のお兄さん。だから、私が3歳のときはフィルは8歳。私が8歳のときはフィルは13歳。だから、フィルはずっとずっとお兄さん的存在だった。よく遊んでもらって、頼りにしていて……。そんな関係。

 

 でも、私が15歳で、フィルが20歳のとき。地球の重力が変わってしまったのかと思うほどに、急にフィルに言葉を軽くかけられなくなった。言いたいことが、上がってこなかった。言葉にならなかった。


 ……恋。


「小川さーん。なにぼーっと校庭見てるの? 問題1の答えは? 予習しました? 宿題だったでしょう?」


 先生の声に、はっとし、心臓がドキッとして、さっと体温が下がった。そうだ。今は数学の授業中。サイン・コサイン・タンジェント。


「えっとー。あのう……」


 前の席の、関くんの肘が動いた。ノートがすっと動きその端に、「正弦定理により100√2」との答え。すかさず「100√2です」とスマして答えたら、クラスメイトのクスクスと笑う声……。え?


「うん。小川さん。それはね、さっきやってた問い2の答えね。今、問い3だから……。ちゃんと授業を聞いてないとお~」

「あっ、えっと」


 うつむいていると、先生が関くんに答えを求めた。


「じゃあ、代わりに前の席の関くん……。ひゃはは! いや、ダジャレじゃないんだけどね。前の席の関くん。ひゃはは。答えは?」

「h=100√3なので、CD=100√3です」

「御名答!」


 私は先生が結婚できない理由は、毛頭の具合ではなく、その“ひゃはは!”という笑い方と、精度の低いオヤジギャグにあるのではないかと、もう既にそちらは解は得ている。


 って、……そんなことはどうでもいいんだ。答え終わった関くんは、肩を震わせて笑いを堪えている。関くんがノートをずらし見せてきた。『バーカ。集中しろ!』と書いてある。……なんだと? ムカつく。


 サイン・コサイン・タンジェント。


 フィルは、あの頃も私をよくからかった。例えば、おへそについてこう話した。


「ここの穴あるだろう?」

「うん」

「ここをぐいっと押すとね、内蔵に届くからね、中を触ったらだめ」

「ええ! そうなの?」


 当時、8歳だった私は、それから一度もおへそを12歳になるまで洗えなかった。


 そうやって、おちょくられておかしな嘘をつかれて、年齢が上がると嘘だとわかって、プンプンに怒ってフィルに言いに行くと、ゲラゲラ笑われた。でもどうしたって、いつもフィルの言葉を信じてしまった。なぜだろう?


 サイン・コサイン・タンジェント。


 黒板に書かれている不可解な記号をノートに写しながらも、私の魂はフィルを思う。


 恋をするのには勇気が必要だ。


 ◇


 私が、フィルに「好き」と伝えようとした日。二人だけでよく夕日を見ていたあの丘に、ダイアナがいた。

 

 フィルは3歳年上のダイアナと婚約、結婚することになっていた。いつの間にか……。


 美しくて賢いダイアナ。ハンサムでなんでも器用にこなせるフィル。お似合いの2人。


 私は、手を繋ぎ微笑み合う二人から、婚約の報告を受けた。その丘で。


 たぶん私は寂しそうな笑顔を一生懸命した。伝えたかったから……。私がフィルを好きなことを……。今、私は悲しんでいるということを……。


 小さな声で、「おめでとう……」と答えたら、ダイアナの顔色が変わった。サイン・コサイン・タンジェント。愛されたかった。フィルに……。


 ◇


 チャイムがなり、関くんが体ごと振り向く。


「お前、マジで数学だけサボりすぎ」

「騙したな……」


 関くんが、笑う。私は関くんの笑顔を見て、嬉しくなって、すっかり騙されたことを忘れてしまう。


「ほら! 今から休み時間の間だけ教えてやるから。今度のテスト赤点だとお前やばいぞ」


 関くんが、私の教科書をパラパラとめくった。優しい風が頬を撫でた。優しいあの風。いちいち頬をなでる感じの……。


「なに、ぼーっとしてんだ? お前、あの頃と全然変わんねーな。すぐ騙される」

「……あの頃?」

「なんでもない。ほら、テスト範囲はここから! この基本くらいはできるだろう?」

「……あの頃?」

「うるせーな。お前にはわかんねーよ。この基本を解けよ」

「……」


 無言で式を書き写しながら素早く計算する。数学じゃなくて、前世と今世について……。万が一関くんが、フィルであったことを覚えていたら、今世は、私は選んでもらえるだろうか? 妹のような存在ではなく、恋人になれるだろうか? もしも今世もフィルが私を選ばなかったら……と想像したら、胸がズキリと痛み、思わず口をついて言葉が出た。


「でも、私と関くんは同い年だよね。今世は……」

「……」


 関くんの顔が引きつったのを私は見逃さなかった。サイン・コサイン・タンジェント。人類は随分と数学的知識を得たが、今、確実にその数学的証明ができない事が目の前に存在している。前世の共有している記憶がある空気。証明せねば。気持ちが前のめりになり、あと先考えず言った。


「私はダイアナが羨ましかった……。フィル……今日、話がある。帰り、あの公園の丘に登ろう。ちょうど夕日が見えるよ」

「……また、追いかけっこすんの?」

「……」


 マジだ。今度は私が引きつった。本当に覚えている。急に前世の記憶共有が現実味をおびた今、怖い。前世の記憶を証明せねばと思ったら、いつの間にか告白の方向へ舵をきっていた……。恋は、嫌いだ。勇気が必要だから。何世紀越しの恋なんだ? 叶うだろうか……? 固まった私に関くん――フィルは少し笑って小さな声で、


「覚えてんだ。奇跡だな……」


 と言い、私のノートに、『沢山、謝りたいことがある』と書いた。


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