第44話 彼の名
「海!《うみ》」
智子が僕の名前を呼んで、抱きついてくる。
最初に会った時の記憶。彼女はまだ若かった。
智子が大学を卒業して自分の父が務める会社に就職し、4年ほどが経った頃だ……。僕が誕生したのは。
「うみ? なんか女の子みたいな名前だなぁ」
智子の父、黄龍雅彦はそう言って笑った。優しく知的だが、会社の為とあらば時には残酷にもなれる、能力の高い人間だ。
「いいじゃない。私は海が好きなのよ」
智子の情報は僕の中に全てインプットされているが、”海が好き”という情報は見つからなかった。僕は首をかしげる。雅彦が入れ忘れたのだろうか。
最初に出会った時に感じたその疑問は、数日後に解けた。
僕は智子に腕を引かれ、津崎清太郎という人間に対面した。
「どう? 清太郎さん。この子が私の為だけにお父様が作ってくれたアンドロイドよ」
津崎という人物は僕の体を色々と観察した。感情を表に出さない性格のようだが、若干上気した体温と瞳の見開き具合で彼が興奮しているのがわかった。
「随分綺麗な顔ですね。瞳の色も綺麗だ」
「でしょ? 力も強いのよ。ボディーガードとして申し分ないわ。でもその分、知力を少し弱めたの。話し相手にはならないわね」
「力と知能は両方あげると危険もあります。ご賢明な判断かと」
清太郎が僕に向かって手を差し出した。
「僕は津崎清太郎。ここでアンドロイドの設計をしているんだ。よろしくね」
「よろしく」
握手に応じた。僕は簡単な言葉ならば話すことができた。
「君の名前は?」
「海」
「え?」
清太郎が驚いたように目を開いた。
すかさず智子が間に入る。
「私、海が好きなの。だからこの名前。どうかしら?」
「とてもいいと思います。智子さんも海が好きなんですね」
「あ、もしかして清太郎さんも?」
「はい。僕も飼っていた猫に同じ名前をつけていました。泳ぐのは得意ではないんですが、あの広大さが好きで」
「まぁ! それは偶然ね。じゃあ今度一緒に行きましょうよ」
清太郎は口角を少し上げて、微かに微笑んだ。僕と同じくらい表情が少ない人だな、と思った。
「いいですね。ぜひ、仕事が一段落したら行きましょう」
その日、智子は僕と二人きりになるなり抱きついてきた。
「聞いた!? 一緒に行きましょうって言ったわ! ねぇ、言ったわよね!」
僕は頷く。一緒に喋っていたというのに、もう忘れてしまったのだろうか。
僕は清太郎の言葉を再生してあげた。
”いいですね。ぜひ、仕事が一段落したら行きましょう”
「きゃー!!」
智子は顔を真っ赤にして喜んだ。つまり、清太郎が好きなのだ。僕の名前を海にしたのは、清太郎の趣味に合わせて会話のきっかけを掴みたかったんだろう。
僕は智子のボディーガードとして作られた。智子は財閥のお嬢様だから敵も多いし変な虫がつきやすいから、と雅彦は言った。知能を弱く設定したので僕は難しいことは考えられない。だが力は強くて、大概のものは握りつぶせるほどの握力を持っている。
海はいつも智子と一緒だった。
「ほら海! 取って来なさい!」
智子がテニスボールを宙に投げる。走って拾う。そして走って戻る。
智子はこのボールが好きなのだろうか?
(好きならば投げなきゃいいのに)
僕は思った。だが、智子が喜ぶのならとなんども走る。
「よくできましたー!」
智子は僕に抱きつく。僕は智子に抱きつかれそうになると、自分から姿勢を低くした。そうすれば頭をクシャクシャっと撫でてくれるのだ。それが嬉しい。
「ねぇ海。あんたに心はあるの?」
「よくわからない」
「自分のことなのに?」
「うん」
「じゃあ私が教えてあげるわ」
智子は笑いながら言った。
「あんたに心なんかないのよ」
***
数ヶ月後、智子は父親に頼み込んで清太郎のいる部署を無理やり休みにした。雅彦は智子に甘い。
新作のA10Tは顔のパーツや身長などもカスタマイズできるという優れものだ。その発表会見が3日前に迫った今日、突然休みを言い渡された職員たちは「あぁ、また智子お嬢様のわがままか」とため息をついた。
智子が清太郎の事を好きなのは皆が知っていた。だが本人の清太郎だけは、気づいているのかいないのか、表情がないのでわからない。
同僚がからかっても「僕なんかでは釣り合いませんよ」とこれまた無表情で答えるという。
僕は恋心はよくわからないが、きっと清太郎も智子が好きだろうと思った。
智子は自分勝手だが、笑顔がとても素敵で裏表のない可愛い人だ。
「清太郎さん。海に来てまで研究しているの?」
清太郎との海デートを無理やり実行した智子は、折角のチャンスだというのに清太郎がパラソルの下でデバイスばかりいじっているのが気に障ったらしい。
「申し訳ありません。3日後に新作の発表があって……」
「そう。そんなにお忙しいのに海になんか誘ってしまって申し訳ないわ」
智子は強い口調でそういうと、踵を返し一人で海岸の方に言ってしまった。
僕が後を追おうとすると
「少し一人にさせて。私は大丈夫だから」と言われてしまった。
仕方なく、清太郎の横に立ってみる。
「まずい事をしてしまいました」
「智子、怒ってたよ」
「そうみたいですね」
「追わなくていいの?」
「なんて言えばいいのでしょう」
「ごめんって言えば?」
僕がいうと、清太郎は笑った。
「君も、こんなところまで付き合わされて大変だね」
僕は大変なことは何もない。智子と一緒に海に来れたのは嬉しい。それに、僕は智子のボディーガードだ。一緒にいなくては意味がない。
「大変じゃない」
「そっか……君は智子さんの事が好きなんだね」
清太郎がポツリと呟いた。その横顔に問いかけてみる。
「……清太郎は、智子の事が好きじゃない?」
「え」
これだけあからさまな好意を寄せられて気づかない人はいないだろう。アンドロイドだって気づくんだから。
「そうだねぇ」
清太郎は頭をかいた。
「可愛らしい人だとは思うよ」
カワイラシイヒトダトハオモウ
頭の中で再生してみたが、よくわからなかった。
「それは好き? 嫌い?」
「いや、まいったな。その二つで聞かれれば……もちろん好きだよ」
僕は智子の行方を捜した。清太郎と話をしていたら、見失ってしまったのだ。
何人かの女性に声をかけられる。全て無視して、智子を探す。
人のいない場所まで歩みを進めると、智子の声が聞こえた。
「やめてってば! しつこいんだけど!」
急いで声のする方に走る。
みるからにチャラそうな男が3人、智子を取り囲んでいた。
智子の振り払った右手が、男のこめかみに当たる。
「いて!」
目に入ったのか、男が顔を抑えた。
「おい、何すんだよブス」
「っていうかこいつよく見るとおばさんじゃん。もっと若いの連れてこいよ」
「あぁ本当だ。ごめんねー。やっぱあんた要らないからさっさと帰ってくれる?」
智子の顔が屈辱に歪んだ。
僕は前に出る。
「海!」
智子が僕に抱きついた。
「な、なんだよお前」
僕の身長に恐れをなした男たちは一歩後ずさった。
智子が僕の首に両手をかけてグッと下に引いた。
重心が下がった僕の耳元に、智子が囁く。
「海。殺す寸前までやっちゃって」
「わかった」
僕には一つ秘密がある。それは、本来インプットされていなければならない道徳観念というものが一切入れられていないことだ。雅彦が僕にインプットした命令はたった一つ。
智子の利益になるならばどんな事でも実行しろ。
暴力はいけない。法律に反するのは悪。人の命は何よりも尊い。
それらの言葉は、僕にはよくわからない。
僕は頭が悪いのだ。
***
男たちは三人とも病院送りになった。被害届を出されて雅彦は多額の慰謝料を払ったらしいが、僕がアンドロイドだという事はバレなかった。
人に暴力を振るうアンドロイドなど存在しない、という思い込みがあるので誰も気づかなかったのだろう。
それから2ヶ月後の事だった。
清太郎が婚約を発表したのは。
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