第31話 思い出

 シエルの歌は淀みなく続く。


「早くシエルを止めて!」


 姉の叫び声に、弥生はハッと目の焦点を定めた。


「でも」


「危険です。こちらに渡してください!」


 沙樹が手を伸ばすと、弥生は一層強くシエルを抱きしめ壁際に逃げてしまった。


「弥生さん。シエルを!」


「……でも」


「弥生!」


 弥生の脳裏に、様々な思い出が蘇った。


 父に殴られ、母に無視され、弥生は毎日泣きながら姉の部屋に逃げ込んだ。

 姉は弥生の殴られて腫れた頬を水で冷やしながら、彼の頭を撫でた。


「大丈夫よ。姉さんがいるからね」


 父と母が事故で死んだ時、呆然とするばかりで何もできない弥生を見て、安心させるように笑顔を見せた。


「大丈夫。姉さんが弥生の面倒は見るからね」


 姉さんに迷惑ばかりかけてはいられない。弥生は働きに出ようと決意した。だが弥生は人と関わることが怖かった。


「何にも気にしないで。姉さんは弥生が辛い思いをして外の世界に出るのは嫌なの」


 グッと、両手に圧がかかった。

 皐月がシエルを弥生の手から奪おうとしている。


「やめろ!」


 突き飛ばされた皐月が、床に転がった。


「皐月さん」


 その身体を、沙樹が抱き起す。


「お願い。弥生」


 姉の涙を見て、弥生の心がぐらりと揺れる。


「時間がありません! 早く歌を止めてください!」


 弥生は震える手でハサミを手にした。シエルの首の後ろに当てる。


「……姉さん」


 姉はいつも自分の一番の理解者だった。

 学校に行こうとして吐いた時、姉は言った。


「弥生は誰とも仲良くできないわ。無理だとわかっているのに、どうして頑張ろうとするの? 姉さんと一緒に家にいればいいじゃない」


 面接に落ちた時、姉は言った。


「弥生の態度は人を不快にさせて、イラつかせるのよ。でも無意識だから治らない。生まれ持ったものなのよ」


 好きな人ができた時、姉は言った。


「弥生みたいな幼少時代を過ごした人間は、人との距離がうまく測れないの。だから貴方はいつもいじめられるのよ。好きになってくれる人なんていないわ」


 弥生の目からも、涙が溢れた。

 シエルを見つめる。


 心を洗うような歌は、まだ続いていた。


 シエルに出会った日を思い出す。

 たった一人、作業場に残ってゴミを分別していたとき、話し声が聞こえた。


「アナタノタメニウタイマス」


 その歌は電子音ばかりで歌ではなかった。シエルの電源はすぐに落ちた。

 だが、弥生は嬉しかった。自分のために歌ってくれようとした人など、今まで一人もいなかったから。


「……ごめん」


 シエルを床に置き、窓から身を投げ出す。


「弥生!」


 姉の悲鳴が聞こえた。


(ごめん姉さん。でも、もう)


 生きるのが辛かった。どうにか生きていられるようにともがき続けてきたけれど、もう疲れた。限界だった。せめてシエルの歌を聴きながら、終わりにしたかった。




グチャ……


 弥生は顔面から地面に着地した。夥しい血が流れる。


「弥生!」


 皐月の叫び声が響く中、沙樹はシエルに向かって走った。


「シエル! 歌をやめて!」


 ラーララー♪


 歌が、止まる。


「やった」


 いや違う


 シエルは歌い終わったのだ。


「!」


 シエルが美しく微笑した。そして……


 激しい光線と爆発音に、沙樹は気を失った。

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