第28話 シエル
弥生は今、人生で一番幸せだと感じていた。
早朝からの仕事を終えて古いアパートの一室に帰るため、足を早める。
錆びついた階段をカンカンと音を響かせながら登り、はげかかったミントグリーン色のドアを開けた。
「ただいま」
ワンルームの部屋の中央に、彼女がいる。
「ワタシノナマエハシエル」
「ごめんねシエル、一人で寂しかっただろ」
「アナタノタメニウタイマス」
ガガガガ!!!
耳障りな機械音が部屋中に響き渡った。
隣の部屋からドン! と壁を殴られる。
「シエル。ダメだ!」
開いていた口が閉じる。
「ワタシノナマエハシエル」
「ごめんね。歌うのを止めちゃって。でも大丈夫。きっと先生が直してくれるから」
弥生は電源の入っていないワークアームを見やる。
皐月が弥生の捜索依頼を出した場合、ワークアームの利用情報から居場所を突き止められる可能性がった。だから駆け落ちしたと同時に電源を切ったのだが、そのせいで先生とも連絡がつかなくなってしまった。
「先生にはよくして貰ったのに、申し訳ないな」
「アナタノタメニウタイマス」
「ありがとう。でも今は大丈夫だよ」
「ウレシイデス」
シエルの口が再び閉じた。
ピーピーと警告音がなり、シエルの綺麗青い瞳は黒く変わる。
「おやすみ」
シエルは見つけた時より随分と喋る言葉が増えた。これも全て先生のおかげだ。弥生が首だけになったシエルを元の姿に戻して欲しいと言って彼を頼ったのは、バーチャルゲームを通じて知り合っていたからだ。
先生という大層なユーザーネームのその小男は、シエルのデータを送ると飛びついてきた。
「これは珍しい! ぜひ僕に修理させてくれ! 絶対に直してみせるぞ!!」
先生とはそれから毎日連絡を取った。シエルは先生のおかげで徐々に機能を取り戻していた。そして一度言葉を思い出すと、自己修正機能が働いたのか、どんどん出来る事が増えていっている。
(でも、俺が逃げ出しちゃったから)
連絡を取るときは、いつも先生の方からだった。弥生は先生の連絡先も居場所も知らない。
「ほとぼりが冷めたら、また先生のところに連れてってやるからな」
弥生はシエルのその薄灰色の綺麗な髪を撫でる。
彼女と出会って、彼の人生は変わった。
弥生は幼い頃からの両親からの虐待、さらに学生時代の同級生からのいじめですっかり人間不信になっていた。仕事をしても長くは続かず、姉に頼りっきりの人生。こんなクズみたいな人生なら、いつ終わらせても良いと思っていた。
だが、シエルをゴミ収集場で見つけてから、弥生には生きる意味ができた。
彼女は優しく、朗らかで、決して弥生の事を否定しない。結婚を前提に交際を申し込んだら、”はい”と答えてくれた。
結婚するなら、結婚式をしなければならない。
だが大事な式の最中、邪魔が入った。
あんなに口うるさい姉がいたんじゃ、シエルも住みづらいだろう。
姉への感謝はあったが、もう自分は子供ではない。
シエルと一緒に駆け落ちして新たな人生を歩むことに決めた。
最初は大変だった。部屋を借りるにも金がなかったからだ。
だがシエルに辛い思いをさせるわけにはいかない。
弥生は何らかの問題で身を隠したいものが集まるシェルターに避難して日雇いの仕事をこなし、金と長期案件のバイト先が見つかったところで自立した。
守るべきものがあれば人間は変われる。
現在はバーチャルゲームのシステム部品を作成している会社にバイトで入っているが、笑顔と挨拶を意識したおかげでだいぶ過ごしやすくなった。以前の職場のようにヒステリックなおばさんもいないし、皆プライベートには立ち入ってこないので安心感がある。
(そういえば、あのおばさん死んだんだっけ?)
ばばあの癖に可愛らしい名前だと思っていたが、その名前のせいで殺されたのだとしたら、自分にしたらとんだラッキーだ。
(でもあそこで働いたおかげでシエルと出会えたんだから、少しは感謝しないとな)
弥生は夕食作りに取り掛かる。実家ではキッチンに立った事すらなかったが、ここに来てからは自炊をするようになった。
今はまだシエルは食事をする事はできないが、いずれ修理が終われば、食事も取れれるようになるはずだ。
(その時までに、ちゃんと準備しとかなきゃ)
目にかかるほど長かった前髪をさっぱりと切った弥生の表情は輝いていた。
***
「……は?」
「いや、ですから。この血痕は谷村沙樹のものです。無限・業務班の」
「いやいや……え?」
「ですから! 彼女は今日、角弥生の姉である角皐月の聴取に部屋を訪れていました。その時、何らかのトラブルに巻き込まれたのではないでしょうか?」
皐月の部屋。血痕を調べていた男性は、面倒そうに頭をかいた。
「お前……」
男の胸ぐらを掴もうとした亘の横から、宮田が飛び出す。
「ふざけんなよ!」
相手の胸ぐらを掴み持ち上げようとする……が、腕の力が皆無なのか男は宮田よりも背が低いにも関わらず一切持ち上がらなかった。
「おい、宮田。落ち着け」
「トラブルに巻き込まれたのではないでしょうか? じゃねぇよ! こっちは角弥生の捕獲依頼を出してた。その姉の家に聴取だなんて、思いっきり怪しいだろ!」
「そ、そんな事私に言われても」
「どうして中止にしなかったんだよ!」
「知りませんよ!」
宮田の手を、男が乱暴に払う。
よろけた宮田を亘が支えた。
「そんな事、捕獲班と業務班の連携ミスじゃないですか。クレームならそちらにお願いします」
「クレームってなぁ!」
「宮田やめろ!」
亘の声に我に返ったのか、宮田は息を整える。
「らしくねぇぞ。血液は少量。何かする気ならその場で殺したはずだ。すぐに見つけ出せば最悪の事態は防げる」
「……はい。すみません」
亘は宮田の肩を抱いた手に力を込めた。
(俺の娘に何かしやがったら、絶対に許さねぇ)
亘とて、冷静ではない。
***
沙樹が目を開けると、そこは古い家の一室だった。畳の感触が頬にあたる。倒れていたのだ。
手足を動かす。両方縛られていて、動かせない。
ゆっくりとあたりを見渡す。側に同じように縛られた皐月が転がっていた。
(皐月さん……)
ペタペタと足音が聞こえる。
首をひねって音の主を探す。手首に痛みが走った。見ると、血が流れている。
あいつが入ってきたとき、抵抗して出来た傷だ。
(くそっ。あんな奴に負けるなんて)
普段の沙樹ならば余裕で勝てた相手だった。だが、皐月を人質に取られ従うしかなかったのだ。
足音がやむ。
「おっはようございまーす」
羊のお面をかぶった男が立っていた。
「さあ、パーティーの時間だよー」
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