第5話 罠
岡野あかねの家には、誰もいなかった。
「そりゃそうか。逃げるよねぇ」
犯人の家は、被害者の家から10分ほど歩いたところにあるなんの変哲もないマンションだ。
あかねの生まれは長野。高校卒業と同時に東京へ上京したが、入社した会社を半年で辞めている。そのあとは野崎と出会った喫茶店と家の往復をするだけの日々を過ごしていた。それでも、こんなファミリー世帯が多いマンションに住んでいられたという事は、親が金を出していたのだろう。
時刻は夜6時。
殺人事件が起こってからすでに2時間が経過している。
宮田は素早く本部に連絡を取り、犯人逃亡の可能性を告げた。
ガチャ
隣の部屋のドアが開く。
小学校低学年くらいの少年が、瞳をらんらんとさせながら自分たちをみてくる。
「こんにちはー」
宮田がふにゃふにゃした笑顔を浮かべながら声をかけると、
「こ、こんにちはー!」
男の子も元気に挨拶を返してきた。
人懐っこい子だ。
「君、名前は?」
「ケント!」
「ケント君。お母さんかお父さんは、今家にいる?」
「いないよ。僕の家、パパしかいないもん。でね、パパ今お仕事なの」
「一人でお留守番か。偉いなー。あ、あともう一つ聞きたいんだけど、隣に住んでいるお姉ちゃんの事は知ってる?」
ケントはすぐに首を振った。
「知らないー」
「そっかぁ、それは残念」
特段残念そうでもない顔で、宮田はジロジロとドアの隙間から少年の家を覗き見た。
「ちょっと宮田さん。何覗いてるんですか」
「え! やだな。人聞きの悪い事言わないでよ」
焦った表情をする宮田だが、この時、彼はドアの隙間からキッチンを見ていた。
綺麗に掃除された洗い場。水切りカゴの中にあるコップから雫が垂れている。
「……」
「ねぇ、サッカーする?」
「え?」
男の子は部屋の中から大急ぎでサッカーボールを持ってくると、宮田たちが答える間も無く靴を履いて出てきた。
「うーん、まぁ、いっか」
牧はコソコソと宮田の袖を引っ張る。
「何考えてるんですか宮田さん。今は犯人の行方を追わないと」
「いいんだよ。調査官の仕事は犯人を特定して情報を渡した時点で終わってるんだから。それに、僕はサッカー苦手だからやらないよ」
「は?」
「やるのは……君だ!」
ズバッ!と指をさされた。
こんなに嬉しくない指名を受けたのは初めてだった。
***
「あー、きつい」
文武両道な牧であっても、元気有り余る小学生に2時間付き合うのは厳しかった。
「お兄ちゃん、疲れた?」
ケントが公園のベンチに座り込んだ牧の顔を、心配そうにのぞき込む。
「いや、まだまだぁ!」
立ち上がった牧は、ケントの足元にあるボールをサッと奪い取った。
「あ! 大人のくせに卑怯だぞ!」
「ははは! 油断大敵!」
(へぇ、牧くんって、子供と遊べるんだ)
宮田は意外な面持ちで二人の微笑ましいやり取りを見ていた。
あの真面目一徹な雰囲気から、子供と触れ合うことは苦手だと思っていたのだ。
IDで調べると、なるほど、牧は四人兄弟の長男だ。道理で面倒見がいいはずである。
「あ、パパ―!」
「ケント!」
スーツ姿の男性が、知らない男とサッカーをしている息子を見て慌てて近づいてきた。
「何なんですか、あなた方は」
宮田はスッと身分証を表示させる。
「無限課・データ班の調査官です」
「ちょ、調査官!?」
父親は息子を自分の後ろに庇い、宮田を睨みつける。
「うちの息子がなにか?」
「いやー、すみません。実は、お宅の隣の部屋の住人が、その、事件に関与してましてぇ」
宮田は、ケントに聞こえないように小声で、状況を伝えた。
「そんな事が……いえ、私も知りません。隣の方の顔も思い出せないくらいです」
「そうですか。ですが、もしかしたらすれ違っている可能性もあります。申し訳ないのですが、ヒューマログの閲覧に許可を頂けませんでしょうか?」
「え!」
父親は明らかに動揺した。
「もちろん個人情報を外に漏らすことは一切ありませんし、ご面倒はおかけしません」
「いや、でもあの……すみません」
父親は、何度も宮田に向かって頭を下げる。
「やはり、人にログを見られるのは抵抗があります。拒否させてください」
「……そうですか」
牧は、先程の宮田の”生きている人のログを見るのは面倒”と言う言葉を思い出していた。
(やっぱり、ログを見られるのは嫌なのか……犯人の迅速な逮捕の手がかりになるかもしれないのに)
だが、心配はいらなかった。あかねはその1時間後、都内のホテルに宿泊している所を逮捕された。
彼との思い出がある自分の部屋に帰りたくなかったのだという。
牧の調査官での初仕事は、こうしてあっさり幕を閉じた。
間違いは正されるべき、罪には贖罪をがモットーの牧は、裏切られたからと言って人を殺してしまった彼女を捕まえる事ができて、とても満足していた。
彼は潔癖で、正義感にあふれる正しい人間である。
***
「牧くーん。ちょっとさ、ケント君の家にもう一回行ってきてくれない?」
「え? わかりました。でも、なんでですか?」
岡野あかねが逮捕された二日後、殆ど誰もいないデータ班のデスクでレクチャーを受けていた牧は、これまたぼさぼさの髪で現れた宮田を怪訝な顔で見つめた。(ちなみに、同僚がほとんどいないのは、13人のゆりあ事件の調査に駆り出されているからである)
「実はさ、逮捕した岡野あかねのログを見たところ、ケント君と話している記録が見つかってね」
「あ、そうだったんですね」
ケントは隣の女性は知らないと言っていたが、子供の事だ。すっかり忘れていたのだろう。
「で、もしかしたらケント君が意識していない所で岡野あかねとの重要な会話もあったかもしれないでしょ。やっぱり彼のログも見たいんだよ。だから、閲覧許可をとってきて。お父さんは嫌がってたけど、ケント君にはまだ聞いてなかったからさ」
「でも……」
犯人が逮捕されてもう事件は解決したのに、何故今さら他の人のログを見る必要があるのだろう? 一瞬その疑問をぶつけようと思った牧だが、すぐに言葉を引っ込めた。牧は、上司の命令には二つ返事で従う、という前時代的な考え方を持っていた。
理由は後で聞けばいい、そう思ったのだ。
「わかりました。どのようにすればよいでしょうか?」
「この電子書類にサインして貰えればオッケー」
すぐにデータが牧の端末に送られて来る。
「よろー」
宮田の笑顔に、牧は何一つ疑問を持たなかった。
そう、何ひとつ。
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