第25話 ジョニーウォーカー襲来
九月に入り、夕刻の公園にはトンボが飛び始めていた。天王寺さんは以前被っていたオードリー・ヘプバーンの帽子を被ってミーちゃんと散歩していた。
「こんにちは天王寺さん。相変わらずその帽子は素敵やね。エリザベス女王みたいや」自分で言いながら、さすがに小学生相手にそれはないかと思った。
「うん……」そう言ったきり、天王寺さんはいつものように質問を返してこなかった。
「どうしたん? 学校始まって、何かあったかな?」僕は慎重に聞いてみた。夏休みの終わりは危険だとテレビで聞いたことがあった。
「そんなんちゃうんけど……」
「ほな別に何かあったんか? まあ色々あるわな」
「インスタの犬が死んでん」
「ほんまか。誰が亡くなったんかな?」
「パンチ」そう言って天王寺さんはスマホを取り出して、僕に見えるように差し出した。インスタの画面には犬の骨壺が入っている仏式の小さな袋を中心に、遺影と花束がたくさん祭られていた。
「そうか。もう年やったんかな。こういう時もあるわな」
「なんか嫌やねん……」天王寺さんの声は暗かった。
「嫌やな。こういう嫌はいつか来るわな」
「先生が子供のころ飼ってた犬は?」
「僕が大学生の時に亡くなったよ。確か十三歳やった」
「嫌やったん?」
「嫌やったけど」僕は少し考える時間を取った。
「嫌になる準備はしたよ」
「どんな準備?」
「犬も年を取るとお爺ちゃんになるねん。そん時の犬はラッキーちゃんっていう犬やってんけど、僕が大学生の頃にはよぼよぼで、散歩もすぐに疲れて歩けなくなってへたり込むから、その時は毎日担いで帰ったり。寝たきりみたいになるから、しっこしたり下痢したうんこの付いたタオル替えたり。犬の介護みたいなんしながら、もうすぐ嫌になる時が来るんやなって考えてた」
「そうなんや」
「もうすぐ嫌になる時来るんやって考えてたら、ラッキーちゃんお爺ちゃんでも可愛いねん。よぼよぼやからうんこするのも命がけみたいな顔ですんねんけど、そのあとのラッキーちゃん担いで帰るのも重かったけど楽しかってん」
「そうなんや」
「僕はラッキーちゃんの事が好きやってんよ」
「そうなんや」
「天王寺さんはミーちゃんの事が好きやろ?」
「好きや。めっちゃ好き」
「インスタの犬も、会ったことないけど、見ててみんな好きやったんやろ?」
「せやと思う」
「せやったらこれはええ方の嫌やねん。好きやったから嫌になるのはええ方の嫌や」
「嫌やのに、ええんや……」天王寺さんの声は震えていた。
「ええねん。めっちゃ嫌になったらええねん。ええ方の嫌はめっちゃ嫌になった方がええ嫌なんよ」
「ほな先生、ちょっと泣いてええ?」そう言いながら天王寺さんはもう泣いていた。
「かまへんよそんなん。ええ方の嫌はめっちゃ泣いてええ方の嫌や」
僕は嗚咽し涙を流す天王寺さんを見ていた。足元のミーちゃんとルーシーも天王寺さんの涙をずっと見つめていた。
僕たちは公園を歩いた。空を飛び回るトンボももうすぐいなくなるのだろう。ルーシーとミーちゃんは公園の遊歩道を走り回り、縁石の臭いを嗅ぎながらそこに放尿していた。
「先生、もう大丈夫……」涙を拭いた天王寺さんが言った。
「ちょっと泣いたら、大丈夫になったわ」
「それは良かった」
「先生の言う事、よう解らへんけどよう解るわ」
「ほんまやね。自分でもおかしなこと言っとると思った。昔はもっとうまく話してたと思うねんけど。やっぱ仕事してへんからあかんわ」
「解るねんから、あかんくないんちゃう」
「それでええんかな?」
「ええんちゃう」
「いや、あかんやろ。また家帰ったら先生の奥さんに言われるわ。『あんたはね、無責任に偉そうなこと言うて子供泣かしてね。仕事してへん人間は人権ゼロやで。このまんまやったらあんたは永遠のゼロや!』って」僕は妻の真似をして言った。
「先生の奥さんほんまにそんなん言うの? 全然そんな感じやなかったけど」
「それ天王寺さん、本気で言ってるの? 先生の奥さん、ほんまに綺麗やとか?」
「ほんまやで。先生の奥さん本当に綺麗やし、先生の事が好きや!」
「ちょとしか会ったことないやん」
「女やから解るねん」
この小学六年生の女の子の中に、すでに女がいるのだ。そう考えるとこの子の世界が広がり続けている事を実感した。
「ミーちゃんも、いつかおらんくなるんかな?」
「そんなんはまだ考えんでええよ。普通にしてたら君と一緒に大人になってくれるで」
「普通って?」
「普通は普通。そのまんま。ミーちゃんの事が好きな、今の天王寺さんのまんま」
「せやろな。そんな気がしてた」
公園の遊歩道の反対側から大型のコリー犬を連れた女性がやってきた。今まで出会ったことのない犬だった。
「あらこんにちは。可愛いビションちゃんが二匹も。凄いわね」女性は気さくに話しかけてきてくれた。
「こんにちは。この子がミーちゃんで、この子がルーちゃんです」天王寺さんが答えてくれた。
「あらかわいいね。お父さんとお散歩いいわね。この子はジョニーって言うのよ」
ジョニーはルーシーの方へと向かってきた。僕はルーシーの伸縮リードのロックを抑えていた。
ルーシーは近づいてきたジョニーの鼻の匂いを嗅いだ。ジョニーは静かにそれに応えていた。一通り何度か鼻の臭いを嗅いだ後、ルーシーはジョニーの身体を回り込みジョニーの尻の臭いを嗅ぎ始めた。ジョニーはそれにも静かに応えていた。
「おとなしい犬ですね……」僕は女性に言った。
「そうなのよ。ジョニーちゃん大きいでしょ? 吠えたり人を噛んだりしたら大変だから、しっかりと躾けてるののよ」
「ジョニーちゃん、触ってもいいですか?」天王寺さんが女性に聞いた。
「もちろんいいわよ。絶対に噛んだりしないから」
天王寺さんが腰を下げジョニーの背中に触れた。ジョニーは天王寺さんに触れられても微動だにしなかった。ミーちゃんもジョニーに触れる天王寺さんを見て、ルーシーに混じってジョニーの尻の匂いを嗅ぎ始めた。
天王寺さんと犬達の様子を見ていると、確かにジョニーはよく躾けられた犬だと思った。ジョニーは良い犬友達になってくれるだろう。
「じゃあちょっと遊んでみましょうか?」
女性はそう言って、突然ジョニーのリードを手放した。
ジョニーは公園の遊歩道を飛び出し林の方へと走っていった。それを見て僕はルーシーの伸縮リードのロックを強く抑え、ジョニーを追いかけて飛び出そうとするルーシーを抑えつけた。
「ミーちゃん!」天王寺さんの声が聞こえた。
ミーちゃんはジョニーを追いかけて走っていった。リードのコードが伸びきった瞬間、天王寺さんの身体はミーちゃんに強く引っ張られ、天王寺さんは前のめりに倒れそうになった。僕は急いで天王寺さんの身体を抱えたが、はずみで天王寺さんの帽子が宙を舞い、ミーちゃんのリードの持ち手は天王寺さんの手から離れて地面を転がっていった。
「あら大変。ジョニーちゃんあんまり遠くまで行ったらだめよ」
「ミーちゃん戻ってきて! ミーちゃん!」天王寺さんが叫んでいた。
「天王寺さんはここで待っててね。ちょっとミーちゃん捕まえてくるから」
そう言って僕はルーシーを連れてミーちゃんの方へと走った。ジョニーは林の木々の間をすり抜け、ミーちゃんはリードの持ち手を地面と木々にぶつけながらジョニーにぴったりと追走していた。
あの持ち手部分が何かに引っかかると危ないと僕は思ったが、ミーちゃん同様にジョニーを追いかけたがっているルーシーを抑えながらだと、中々追いつけなかった。
「お父さんもルーちゃん放してあげたら? 楽しそうよ」
「ミーちゃん戻ってきて!」天王寺さんは叫び続けていた。
ジョニーが反転してルーシーの近くに寄ってきたので、僕はルーシーをジョニーの前に差し出した。ジョニーはルーシーの鼻に鼻をタッチさせ再び走り出した。その後ろを追いかけるミーちゃんが僕の近くを通った隙に、僕はミーちゃんのリードの持ち手を踏みつけた。伸縮するリードのコードは伸び続けていたので、僕は急いで踏みつけたリードの持ち手を拾い上げコードのロックを押した。ミーちゃんの動きは止まったが、伸びたコードが林の木に引っ掛かってしまっていたので、コードが木に擦れてちぎれないようにゆっくりと木に向かって歩きながらコードを手繰り寄せた。
「ミーちゃん……」
僕はようやく引き寄せたミーちゃんに話しかけた。ミーちゃんの足元は林の中を全力で走り回ったせいか黒く汚れていた。僕はミーちゃんとルーシーを連れて、林の中から天王寺さんの元へ戻った。
「ごめん天王寺さん」そう言って僕はミーちゃんのリードを天王寺さんに渡した。
「ミーちゃん……」天王寺さんは座り込み、ミーちゃんを上から抱えていた。
僕は天王寺さんの帽子を拾い上げた。帽子も土で汚れていたので、僕は帽子についた土を出来るだけ払い落とした。
「ミーちゃん楽しそうやったね。すごい元気に走り回ってた。まだ若いのかな。いくつ?」
「すみませんが、この辺りで失礼します」僕は女性の質問を無視して言った。
「あらそう。楽しかったわねミーちゃんにルーちゃん。じゃあまたね」
そう言い残し女性は戻ってきたジョニーのリードを取り、遊歩道を立ち去って行った。
残された僕は座り込む天王寺さんの頭に帽子をそっと被せた。天王寺さんはミーちゃんを抱えたまま動かなかった。ルーシーは天王寺さんの様子をずっと見ていた。
「行こう。天王寺さん」僕はできるだけ優しく語りかけた。
「少し歩いて、少し休もう」
立ち上がった天王寺さんと僕は公園の東屋へ向かった。夕暮れの公園はそろそろ暗くなり始めていた。
「帽子ちょっと汚れてしまったね。クリーニング出したら言ってね。僕がクリーニング代払うから」
「そんなんええ……」天王寺さんは小さく呟いた。
「ミーちゃんの足もちょっと汚れてしまったみたい。またトリミングに出したら言ってね。それも僕が払うから」
「そんなんええ……」天王寺さんはまた小さく呟いた。
公園の東屋につくと、僕らは屋根の下の広いベンチに座った。ルーシーとミーちゃんは盛んにベンチの臭いを嗅いでいたが、ベンチの上には登ろうとしなかった。
「……ぼろなってしもうた」天王寺さんが手元を見ながら言った。
天王寺さんのリードの持ち手は確かに地面や岩などにぶつかり擦れた傷が無数にあり、僕が踏みつけた靴の跡がまだ残っていた。
「それもすまんかった。つい踏んでしまった。また買い替えるんやったら言ってね。もちろん僕のせいやねんから、ちゃんと払うから」
「そんなんええねんって!」天王寺さんが叫んだ。
「悪いんはあのおばはんや! 何がちゃんと躾けとるや!」
天王寺さんが悪態をつくのを僕は初めて見た。僕は天王寺さんの興奮が収まるまで少し待ってから言った。
「放し飼いにしても大丈夫なぐらいに躾けとると思っとるんやろ? 勝手な勘違いもええとこやで」
天王寺さんは「けっ!」と一言呟いた。
「僕の想像力不足やった。そういう人やとは思ってなかったし、そもそもそういう考え方をする人がおるとも思ってなかった。そこは大人の責任やから謝るよ。やっぱり仕事してへんとあかんな」
「そんなん関係ない。先生はミーちゃんを助けてくれた」
「そうか……」僕はそう言うと黙っていた。天王寺さんはそう言ってくれたが、やはり仕事をしていない僕には、平和ボケの様な想像力不足があっただろう。いつか妻が言った無菌ルームだ。これは僕の失敗だった。
「私は楽しくなかった……」
天王寺さんはあの時ずっと、泣きそうな顔をしてミーちゃんに呼び掛け続けていた。
「私は楽しくなかった。ミーちゃんもきっと楽しくなかった」
「そうやろうな。僕も楽しくなかったわ」
「こんなんばっかりや……」
天王寺さんは吐き捨てるように大きな声で言った。以前ラインであった事を思い出しているのかもしれない。
「あの人には僕らの事は、何も見えてなかったんやろう」
「どういうことなん?」天王寺さんが聞き返してくれた。
「人間は自分の見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いてるねん」
「同じもん見てたのに?」
「誰も同じ景色は見えてないねん。自分の見たい風景を見てるねん」
「ほなあの人には、ほんまにうちらが楽しそうにしてるみたいに見えてたん?」
「多分そうやろ。僕らも楽しんでいたと、今でも思ってるはずや」
「……信じられへん」
首を振った天王寺さんは、本当に信じられないといった顔をしていた。
「天王寺さん、ミーちゃんかわいいやろ?」
「かわいいよ」
「僕ももちろんかわいいと思うよ。でも犬嫌いな人たまにおるやん? 多分そういう人にはかわいくは見えへんやろう」
「それはそうかもしれへん。散歩しててたまにそういう人に会う。友達にもミーちゃん怖がる子がおる」
「そんな感じやねん。世の中は」
「そんな感じなん?」
「そんな感じ。みーんな自分の見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いてるねん。同じものですらみんな自分勝手な解釈して、自分勝手な違う答えを出してるねん。でもそれが案外当たり前で普通やねん」
「なんかよう解らへんけど、そんな気はめっちゃする」
天王寺さんの表情は幾分さっぱりとしている様だった。
「今度あの人に会ったら言っとくよ。放し飼いはやめてください迷惑です楽しくありません勝手な勘違いしないでくださいって。本当に迷惑ですって言っとくよ」
「ほんまに?」
「言っとく。大人にできるもんなんて案外そんくらいや」
「ありがとう」天王寺さんは美しい笑顔で言った。
「怒ったらええねん」
「どういうこと?」
「これはあかん方の嫌やな。あかんほうの嫌に出会ったら、怒ったらええねん」
「ほなもう一回怒ってええかな?」天王寺さんは笑顔で「へっへっへ」とにやついた。
「ええに決まってるやん」僕もにやついた笑顔で言った。
「私は楽しくなかったーー!」天王寺さんは笑顔で叫んだ。
「私は楽しくなかったーー!ミーちゃんも楽しくなかったーー!」
天王寺さんは弾ける笑顔で夕闇の北の空に向かって叫んだ。天王寺さんの叫びはきっと六甲山にまで届くだろう。天王寺さんの叫びに反応した二頭の犬が「ワオーーン!」と鼻を空に突き上げ遠吠えをあげた。
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