第17話 君は海が似合う

 七月も後半に入ろうとしていたが、午前六時の散歩はまだまだ涼しかった。太陽の光も弱くルーシーも公園の広場をリード限界まで伸ばして走り回っていた。

「先生」天王寺さんの声に振り向くと、ダイソーの白い帽子を被った天王寺さんがミーちゃんを連れて歩いてきた。ルーシーは天王寺さんを見つけると、一直線に走って行った。


「おはよう天王寺さん。朝は初めてやね?」

「夏休みに入ってん。ルーシーおはよう」そう言った天王寺さんはルーシーのあごの下を撫でていた。

「もう子供らは夏休みか。忘れてたわ。先生は毎日が夏休みやから」

「なにそれ?」

「先生の奥さんに前言われたんよ。毎日が夏休みでええねって」

「毎日夏休みやってもそんなええとは思わへん」

「そりゃそうやね。犬の散歩ぐらいしかやることがなくなってしまう」


「先生のアドレス教えてもらってもええかな?」

 突然の言葉に僕はすぐに返事ができなかった。妻に言わせたらおっさんと少女のアドレス交換は、それこそ犯罪の臭いが漂ってきそうな気がした。

「天王寺さん。以前言ったけど犬飼ってる人はみんなええ人っていうのは幻想やで。僕がもしロリコン変態親父やったらどうするの?」

「なにそれ?」まずかった。妻の言葉には呪いが込められている。

「いや、悪い人とか犯罪者とか不審者とか変質者とかっていう人達」

「先生はちゃうやん」

「今までお話してたんは、悪い人が天王寺さんと仲良くなるためにええ人のふりをしてたんかもしれへんで?」僕は念には念を入れた。

「そんなん絶対ちゃう。お母さんにも話しとる」

「なんて?」天王寺さんの言葉に安心して、素っ頓狂な言葉が出た。

「先生のアドレス聞いてきてええかって。お母さんに先生の話してくれた事話したら、信頼できそうな人やからええって」

「それやったら大丈夫やな……」

 僕らはお互いの連絡先を交換した。


「朝やし、芦屋川の方降りてみよか?」僕は言った。

「行ってみたい。初めてや」そう言った天王寺さんは嬉しそうだった。

 僕らは鵺塚橋の横断歩道を渡り、テニスコート前のバス停にある堤防の階段を降りた。二頭の犬達も階段を降りる僕らの後ろから降りてきた。

「ミーちゃん階段降りられたやん」僕は驚いて言った。

「先生の言った通りやった。家の階段の前でちょっとだけ引っ張ってあげてん。ミーちゃん一回降りられたら、そのあとは当たり前みたいな顔して降りるようになった」

「そんなもんや。気づけば簡単やねん」


 僕らは芦屋川を南に歩いて行った。先週まで降っていた梅雨の雨のおかげで芦屋川にはまだ水が流れていた。東側の川岸は芦屋川の堤防が日除けにもなってより涼しく感じられた。僕らの目の前には遠くに海が見えていた。

「気持ちええな芦屋川。もう夏やけどまだ涼しい」

「さわやかや。ミーちゃんも元気に走り回っとる」

天王寺さんは時折勢いよく走るミーちゃんに、身体を持っていかれそうになっていた。走り回るミーちゃんは、初めて歩く川岸の道のいたるところを嗅ぎまわっていた。


「イヌスタってほんまにあったで」天王寺さんは言った。

「どういうことかな?」

「インスタでな、ひらがなで『いぬすたぐらむ』っていうタグあってん。犬の人は結構使っとるで」

「まじか。こんど僕の奥さんに教えたるわ」帰ってきたら真っ先に伝えようと思った。


「ラインは結局見ないようになったわ……」

「どうしたん。友達とか大丈夫かな?」僕は少し心配になった。

「最後の方は結構言われた。『芽衣子の友達は犬だけや』とか書かれた。『犬と一緒にドッグフード食っとけ』って」

「そんなえぐいことを言われたんや! 今の小学生はほんまにどないなっとるねん!」

「でもええねん。退会して見なくなったら、逆に今までなんでライン気にしてたんやろ思た。退会してしまったらどうなるんやろって思ってたけど、案外そのまんまやった」

「そうか。それは良かった」

僕はそう言ったが、やはり友達との仲は複雑だろうと思った。天王寺さんは僕に対して、強がっているだけかもしれない。この子達の世代は僕の世代には理解できない部分がきっとある。


「でも大丈夫かな。ラインしていた友達とは、ちょっとやっぱりぎくしゃくしたりしてないかな?」妻に釘を刺されていたので、できるだけ控えめに聞いてみた。

「何人かとは仲悪くなった。でもラインはもうええねん。うちらのラインのグループトークって、今考えたらどうでもよかってん。みんな何かが楽しかったとか、何かがめっちゃ面白かったとかそんなんばっか言ってて。何がかわいいとか別にそんなんが知りたくて見てたんやないし!」

 この子はやはり強がっていた。正直な子だとは思っていたが、辛いときは誰でもそうだろう。天王寺さんはまだ小学六年生なのだ。


「天王寺さんは嘘が嫌いなだけやったんとちゃうかな?」

「どういうことなん?」天王寺さんは聞き返してくれた。

「僕も最近ちょっとだけ嫌な事があってんけど、嫌やないふりをしとってん。天王寺さんもそうやなかったんかな? 別に楽しくもないのに楽しいふりしたり、面白くもないときに、面白いふりをしたりとか。そんな嘘」

「そんなんばっかりやった……」天王寺さんは言った。

「どうしてもそうせなあかん時もあるけど、別に無理してまでせないかんことでもないわな? 嘘は一度でも始めてしまうと嘘が嘘を呼んできて嘘まみれになってしまって、どこにほんまがあるんかも分からなくなる」

「みんな嘘まみれなん?」

「分らんけど多分そうやと思う。僕も子供の頃はそうやった。まわりの嫌な嘘が嫌いやった。でも子供の頃は、僕らが子供やからそうやと思っててん。大人になったらみんな嫌な嘘をつかないでいいようになるんやって思っててん。でも大人になっても何にも変わらんかったわ。みんな子供のまま大人になってそのまんまやった」


「大人も変わらんの?」

「変わらんな。みんな見栄をはったり、幸せなふりをして嘘まみれや。せやからそんなんはほっといて、正直な天王寺さんでいたらええと思うよ。天王寺さんちょっとしゃがんでみて、ルーシーとミーちゃんを見てみ?」

「分かった」そう言って腰を下げた天王寺さんの足元に、二頭の犬が駆け寄ってきた。

「天王寺さんこいつらの顔を見てみ? 楽しそうにしとるやろ。犬はほんまに楽しいから、楽しそうな顔しとるねん。ほんまに嬉しいから、嬉しそうに尻尾を振っとる。犬は絶対に嘘をつかへん。せやから人間も、犬には嘘をつかないでいい」

「ほんまやわ。ミーちゃんもルーちゃんもかわいいわ」天王寺さんは二頭の犬を撫でた。

「天王寺さんはまだ小六やろ? まだまだこれからがある。僕もこの前昔の同級生と会ってきたけど、その友達は嘘を言わないでいい友達や。ほんで僕は嘘を言わないでいい奥さんと結婚したんよ」


「先生は幸せなんやね」

「そうやなあ、まあまあ幸せかな。仕事をしてへんから怒られてばっかりやけどね」

「ありがとう先生。私も今はちょっとだけ幸せ」そう言って天王寺さんは笑った。

「それは良かった」

 僕らの歩く芦屋川もそろそろ河口に近づいてきた。川の水は少なくなり、海からは波の音が聞こえてきた。歩く土に砂浜の砂が混じってきているのを感じた。


「先生あそこ川の向こう側に渡れるやん。行ってきてええかな?」

「かまわへんよ。ミーちゃん川に入って濡れへんようにね」

 天王寺さんはミーちゃんを連れて、芦屋川の川面の飛び石を飛び越えて行った。石を一つ一つ渡っていく天王寺さんは手足が長くそのバランスも良く、あと十年もしたらとてもスタイルの良い大人の女性になるのだろうと思った。写真で見たもっちゃんの娘は、あと十年経てば天王寺さんぐらいの女の子になっているのだろう。僕の十年後はどうなっているのだろうか。彼女たちの未来が羨ましかった。


「ちょっと暑かったわ」そう言って天王寺さんが戻ってきた。

「そろそろ帰らないかんな。海だけ見てから帰ろか?」

「海見たい。芦屋川の海見るんは初めてや」

 僕らは潮の臭いを嗅ぎながら芦屋川の河口までやってきた。河口には三十メートル程の小さな砂浜があるのみで、左手には巨大な埋め立て地が広がり、海の向こうには神戸の大きな倉庫群と阪神高速湾岸線の大きな橋が見えていた。


「なんか思ってたんとちゃうわ……」天王寺さんが言った。

「そうやろうな。南芦屋浜のビーチの方がよっぽど立派やね。あそこ来週花火大会やけど、天王寺さんはもちろん行くんよね?」

「行くで! 浴衣着てな、昼バーベキューするねん。楽しみやわあ。先生も来てや!」

「いや、先生は奥さんと夜に花火だけ見に行くよ」

「そうなんや……」そう言って天王寺さんは、小さな波の押し寄せる砂浜を歩いていた。


「ここの砂浜は小さいけど、ここが芦屋の始まりやねん」

「始まりってどういうことなん?」

「神戸や芦屋の土地は、六甲山の砂が川の水で流れてできた土地やからね。だから今も水害は多いけど、この川が僕らの街を作ったんよ。せやから左に埋め立て地見えるやん。あれを作る時に多分昔の人は考えたんとちゃうかなあ? 芦屋川ぎりぎりまで埋め立て地にしてもええんやけど、なんかもったいないからちょっとだけ砂浜残そうかって」

「なんでもったいないの?」

「自然にできた芦屋やからちゃう? 人間が人工的にどっかから持ってきた土やなくて、雨が降って流れたほんまの六甲山の砂が作った海岸。ここの砂浜だけは昔の芦屋の人たちも歩いたりしたんちゃうかな?」

「そうなんや。ほな立派や」

 昔の海岸線は埋め立てられて無くなったが、臨港線の歩道には当時の防波堤が残っていた。防波堤跡の向かいには、海岸の防砂林だった巨大な松林も残っている。芦屋公園の南の端には、昔の海の家だったお店もある。昔の芦屋の人たちはここを歩き、そして海を泳ぎ楽しんだはずだった。


「君は海が似合うな……」砂浜を歩く天王寺さんに言った。

「そうなん?」

「ああ。君は海が似合う」

「ほな先生は山や!」天王寺さんは僕の後ろを指差しながら言った。

 天王寺さんが指差す方角へ振り返ると、六甲山の緑が大きく広がっていた。その山の連なりは芦屋川から阪神御影駅のタワーマンションの先まで広がっていた。

「そうか。僕は山が似合う男か」

「せや。先生は山や。山はずっと海を見とる」

「悪くないな。山と海の組み合わせは芦屋やったら最強やで」

 

 僕らは芦屋川沿いの道を北に戻っていった。鵺塚橋の下をくぐると国道四十三号線と阪神高速神戸線の高架が大きく見えた。

「天王寺さんはラインやめたってことは、もう夜の散歩には行ってないんかな?」

「嘘の散歩はもうやめた」

「ほな今日の散歩を嘘の散歩にしよか?」

「どういうこと?」

「今日の僕らの散歩は、天王寺さんはお母さんや友達にも話さないで黙っとく。僕も奥さんに今日の話はしない。今日の散歩は僕ら二人の嘘の散歩」

「お母さんに先生の話してくれたこと話したい」天王寺さんが言った。


「一日だけでええねん。まだ朝やから今日一日夜寝るまでは、僕らしか知らない嘘の散歩。それでええかな?」

「一日やったらええで」

「ありがとう」僕は言った。

「ほなな、今日の嘘の散歩は芽衣子な、先生の子供のふりしとくわ。嘘やからええやろ?」

 ありがとうと言いたかったが、僕にはその言葉が言えなかった。「かまわへんよ……」とだけ僕は天王寺さんに言って、僕らは公園へと戻って行った。

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