第16話 アシーヤ・マダーム

「いい感じで現実を見てきたようね」家に帰るなり僕の持つウイスキーの入ったコンビニ袋を見て妻は言った。

「君の言う通りや……」引き出物の入った袋から上着を取り出し、汗臭い服を着替えながら僕は言った。


「あなたはルーシーと一緒に芦屋に引きこもってるもんね」

 着替え終わった僕はルーシーのいるケージの扉を開けた。扉から飛び出したルーシーは何度も僕の腕に飛びかかろうとした。

「喜んどるねルーシー。あなたと犬時間で一日超えて離れること、滅多にないもんね」

「トリミングの日があるやろ?」僕は言い返した。

「トリミングの日は『今日はトリミングの日でちゅ』って解ってるもんねー、ルーちゃん」確かにルーシーはトリミングサロンを認識していると思う。

「ルーシーの散歩、行ってくれてありがとう。天王寺さんに会わへんかったん?」

「残念ながら仕事帰って暗くなってからやったから。ていうか私、天王寺さんの顔見たことないんよ? でも会えば絶対わかると思うけど。ビションを連れたかわいい子なんでしょ。ビションを連れたおっさんの百倍絵になるわー!」

「天王寺さんがルーシーを知っとる」

「そっちもそうやね。お互いに犬が目印か」

 僕は喜ぶルーシーをケージに戻し、キッチンで氷の入ったグラスを用意しソファに座った。

「飲んでもええかな?」僕は妻に聞いた。

「ええも悪いも言わんでも飲むでしょ。かまわへんよ」


 僕はウイスキーをグラスに注ぎ、ダブル・ロックを作った。

「君は優しいな……」僕はウイスキーを少し飲みながら呟いた。

「何を今さら。普通やん?」

「ほんまの事を、言わんでいてくれとる」

「ほんまの事って?」妻は聞き返してきた。

「僕は嘘の散歩に行っとる」

「嘘の散歩って、天王寺さんのお話の事?」

「いや、違う。僕の嘘の散歩」

 妻は黙って聞いていた。

「僕は仕事をしていない言い訳に、犬の散歩に行ってる」

「そうやねえ。情けないねえ」妻は返した。

「犬の散歩を言い訳に、天王寺さんに会いに行っとる」

「ほんまやねえ。ダメ人間やねえ。ロリコンかな?」妻は再び返した。

「そういうことを全部解ってて、君は黙って聞いてくれとる」

「私は最高の奥様やね。アシーヤ・マダーム」

「だから感謝しとる」

「だーかーら、そんなん普通やって。どこの夫婦もそんなもんやって。あなた披露宴で飲みすぎてきたんとちゃう? 今も飲んどるけど」

「大丈夫やと思う……」

「大丈夫ちゃうよ。何か嫌なことでもあったん? 気にせえへんでええよそんなん。ほんま悩める三十代やで。あんたも言ってたやろ天王寺さんの話で。悩みのない人間の方が不自然やって。自分で当たり前の事言っときながら、今さら何を言ってんの? またルーシーの散歩に行って、天王寺さんに慰めてもらい『おーよちよち。悩める三十代は大変ですねえ。でも仕事してないダメな大人やから、しゃーないね』って」

「すまん……」僕は呟いた。

「ほんまに行くんかーい!」そう言って妻は少し沈黙した。


「私たちにはルーシーがおるやん……」妻は言った。

「そうやな」僕は妻の顔を見ず、ウイスキーを飲んだ。

「ルーシー連れてこよか?」そう言って僕は立ち上がった。

「ルーちゃん来てー」

 ルーシーはケージの扉の前で、お座りをして待ち構えてた。僕が扉を開けると、ルーシーは勢いよく飛び出し妻の座るソファへとジャンプした。

「ルーちゃん来たー。ルーちゃんはほんま可愛いなあ」ルーシーと妻は笑顔で向き合っていた。

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