第10話 少女は夜、嘘の散歩に行く
七月に入ると犬にとっては過酷な気温になってくる。ルーシーの散歩も午後七時過ぎの、できるだけ遅い時間帯に行くようになっていた。いつもの公園で出会った天王寺さんはダイソーの白い帽子を被り、相変わらず品のよさそうな白いノースリーブのトップスを着て、赤いフリルのロングスカートをはいていた。
「天王寺さんは、日傘は使わへんの?」以前の妻の言葉を思い出し聞いてみた。
「お母さんには渡されてんけど、ミーちゃんが怖がる時があるから」
「それルーシーも一緒やわ。掃除のコロコロの棒のやつあるやん。あれ完全に敵やと思って吠えてくんねん」
「せやから日焼け止めクリーム貰って塗ってるねん」
「夕方でも紫外線は凄いって言うもんね。犬の散歩は女の子には大変やね。夜は散歩には行かんの?」妻の勝ち誇った顔を想像し、日焼け止めクリームの話はしないでおこうと思った。
「夜は危ないからって、お母さんに止められてるねん」
芦屋は比較的治安のいい街だとは思うが、さすがに小学生を夜中に歩かせるのは、ためらわれて当然だろう。
「どうしても夜ミーちゃんの散歩に行きたくなったら、嘘の散歩に行ってるねん」
「嘘の散歩?」不思議な響きの言葉だと思った。嘘の先生なら偽者の先生とすぐに解るが、犬の散歩に何の嘘が入り込むのだろうか?
「よかったら嘘の散歩の話しよか……?」僕は続けた。
「ミーちゃんの散歩に行くようになったらな、めっちゃ便利な言い訳ができてん」
「何の言い訳かな?」
「インスタも犬の人になったら、ミーちゃんの写真アップして私は犬の人ですって言えるやん。ほな友達とかも私は犬の人なんやってわかってくれるし」
「それは確かに、便利な言い訳になったね」
「犬の人になったら、ほかのインスタの犬の人もフォローしたりされたりするやん。ほなな、インスタが犬の人ばっかりになって楽しくなってきてん」
この子の使い方がインスタグラムの最も正しい使い方なのだろうと僕は思った。
「インスタが、イヌスタになったってことやね」
「なにそれ?」
「いや、おもろいかなって思って言ったんやけど? イヌスタグラム……」
「今度それ投稿してみるわ。インスタがイヌスタになったって」
「いや、おもんないかも。ごめん……」僕はダメな大人だと思った。
「ほんでな、他にも色々あるねん。ラインとか」天王寺さんはダメな大人に語り続けた。
「あんなんもな、ミーちゃんの散歩に行ってたら見んでええやん。んで友達に見てへんやんって言われたら、犬の散歩に行ってたって言うねん」
「僕はラインしてへんから詳しくないんやけど、見たくない時もあるんかな?」
「いっぱいある。見たくないのもあるし、聞きたくないのもある。返事したくないのもある。でも見てしまったら返事せなあかんし、返事せえへんかったらなんで返事ないんって言われるし、見ないでほっといたらなんで見てへんのってなるねん。そうなるとどうしたらええんか分からへんようになるねん」
「大変やなそれは……」ラインをこの子らの年代で使いこなすのは、かなり困難な様子に思われた。
「散歩してたら、犬のリード放せへんやろ?」
「無理やね。僕らは犬に責任があるから」ルーシーの背中を眺めながら僕は言った。
「せやからミーちゃん連れて散歩行くねん。なんでライン見てへんのかってなったら、犬の散歩行ってたからって言うねん。犬の散歩中はリード放せへんからスマホ見られへんし打てへんって。ほなな、みんなそれは分かってくれるねん。ミーちゃんめっちゃ便利な言い訳になってん」
「本当やな。最高の言い訳になったな」この子はやはり頭がいいと思った。
「せやけど、夜の散歩行ったらあかんやん」
「危ないからね。お母さんもどうしても心配してしまう」
「せやから夜スマホ見てると、さっき言ったみたいに見たくない時とか返事するの嫌な時とかあったら、ミーちゃんと家の中で嘘の散歩に行くねん」
「それが嘘の散歩か……」
「夜やから、お母さんと一緒に懐中電灯持ちながら、散歩してる事になってるねん。ほんまは行ってへんねんけど」
「ほんまは散歩に行ってへんけど、行ってることになっている嘘の散歩やね?」
「でもそれもちょっとちゃうねん」
「どういう事かな?」僕は次の言葉をゆっくりと待った。
「最初はそういう事にしてん。でもそれやと私が友達に嘘をついていることになるやん。それはすごい嫌になってん。せやから私が私に嘘をついて、嘘の散歩に行くことにしてん」
「そうか……」この子は自分に正直すぎると思った。
「ミーちゃんを部屋に連れてきてな、ミーちゃんと一緒に頭の中で散歩するねん。ミーちゃん散歩楽しいね。公園歩いてたらルーちゃんと先生来るでーって」
「そうなんやね。僕もいるんや……」
「いつもの公園行ったりな、お母さんと行った南芦屋浜のでかい公園に行ったりな、たまにららぽーと行ったりするねん」
「ららぽーとって、ららぽーと甲子園のことやな?」
「ほんまはあかんのやろうけど、嘘の散歩やったらええと思ってん。ららぽーとの中をミーちゃんとかルーちゃんとか、ほんでインスタの犬の人とかとも歩くねん」
「本格的な嘘の散歩やな。僕も参加するよ。かまわへんか?」
「ええよ」
「ほなその嘘の散歩、そのまま甲子園球場に野球見に行こうや。タイガースの試合。あそこもペット禁止やけど、嘘の散歩やからええよね?」
「ミーちゃん、野球見てもわからへんと思う」
「まあええやん。みんなで野球見て、そのあとみんなで甲子園の芝生の上を走ろ。たくさんのビションの白色が芝生の緑の上を走り回るんや。アフロヘアーがでかい野球ボールみたいできっと綺麗やで。どうせ嘘の散歩やねんから、タイガースもビションフリーゼにしよ。阪神ビションフリーゼーズや!」
「それはちょっとおもろいわ……」天王寺さんは笑って言った。
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