第9話 第六十回「宝塚記念」のタカラジェンヌ

 六月の最終日曜日は先日の暑さと比べたら幾分涼しかった。阪急電車芦屋川駅のホームは駅名の通り芦屋川の上にあるため、貴船の川床と同じように足元を流れる川の水からより涼しさを感じられた。


「あのライトの家は、ほんまにええとこに建っとるね……」僕は大阪方面行のホームから山側を眺めて言った。芦屋川の上流にはフランク・ロイド・ライトが設計した邸宅が、川に向かって正面に建っている。

「金持ちはー天上界に住みたがるー! 我々下民はー地べたを這いずる虫けらどもー!」よくわからない節を付けて妻は歌っていた。

「君はマンガの読みすぎやで。それから外であんまそんな歌を歌わんでくれ」

「了解でーす。今日は人生を賭けた一発逆転ゲームやで。テンション上がるわ」

「人生賭けないから。普通の宝塚記念やから」

 

 マルーンカラーの阪急電車は、駅に流れる独特のメロディと共に、芦屋川駅へとやってきた。僕らが乗り込んだ車内は緑色の座席が半分ほど空いており、反対側の扉付近には沿線の私立女子校の白い制服を着た女の子が数人立っていた。

「日曜やのに女子高生が多いな……」

「部活動で忙しいー! 人生賭けて青春中ー!」

「だから歌うなって!」

 

 西宮北口のホームに降りると、僕らは二階へと階段を上った。西宮北口駅の中央広場は四方向の各方面を目指す人たちが溢れていた。今津線宝塚方面のホームへ降りる階段に向かうと、すでに競馬新聞を手にした人達が何人も歩いていた。

「お仲間が集まっとるな」

「こっから先はリアル阪急電車やで」妻は嬉しそうに言った。

「ほな君は中谷美紀かい?」僕は映画の「阪急電車」を思い出して聞いてみた。

「いや、私は戸田恵梨香にしとくわ」

「若い! それは無理がある! 中谷美紀でも無理があるのに言いすぎやで」

「あなたは芦田愛菜の隣の席に座ってたおっさんね」僕の言葉を無視して妻は言った。

「誰やそれ? 隣におったのは犬とおばあさんやろ。そんな役あったっけ?」

「中年A。無職のノーカラーにはノーキャラクターです」

「わかりました……」僕は投げやりに返した。

 

 午後一時過ぎに阪急電車仁川駅を降りると、僕らは駅前から続く長いエスカレーターを降りて行った。エスカレーターから先の通路には、往年の名馬たちの写真の数々が飾られていた。通路の所々には、気持ち程度に配置された扇風機が動いていた。

「この写真たちは優勝力士の額とか総理大臣の肖像画とかと一緒で、これからも増え続けていくんかな?」

「キンカメとディープの子孫が席巻よ」

「今はそうかもしれへんけど。またゴールドシップやキタサンブラックとかの子孫も出てくるで」

「ゴールドシップの子供たちやったら、またやんちゃなんおるんやろうね。楽しみやわー」

 地下通路を渡り上りのエスカレーターを降りると、再び地上の通路が続いていた。遠くに阪神競馬場の大きなドームが見えてきた。

「来たねー。テンション上がるねー。ていうかあなたは無職で競馬場来てるって、まじでリアル・カイジしとるよね」

「マンガの読みすぎです……」僕は適当に返した。

 

 競馬場までの長い陸橋を、僕らはもし自分が馬主になったらどんな名前を付けるかを語り合った。

「ルーシーダイヤモンド!」妻は言った。

「残念。僕もそれ最有力やけど、十文字で文字数オーバー。サトノの九文字まで」

「じゃあルーシーシップ!」

「発音しにくいね……。似たような名前の馬いるし」

「それじゃルーシーブラック!」

「キタサンやったらほんまに黒いけど、ルーシーは白いやん? ルーシーホワイトが一番やで」

「でも白い馬ってほとんどいないよね?」

「いるにはいるけど、強くないんよね。ユキチャンとかマシュマロとか」

「変な名前。ほんまに強そうやないね」

「白馬は珍しいから、どうしても白いことを強調するんやろな」

 

 阪神競馬場に着くころには、すでに大勢の人波で溢れていた。競馬新聞を持った夫婦らしい人達や若いカップルが大半だったが、競馬場は最近はエンターテインメントにも力を入れているおかげか、子供連れのファミリー層も少なくなかった。

「とりあえずパドック見に行こか。この時間やったら多分第九レースぐらいの馬が歩いとるはずや」

入場券を購入しパンフレットを貰って競馬場に入ったが、パドックが見渡せる辺りはあまりの人の多さに、歩く馬が見える場所に辿り着くまでが大変だった。

「あっ、あの馬今うんこしたで。歩きながらうんこできるって、馬は器用やね」

「器用なんちゃうよ。馬は草食動物やから、すぐに逃げられるようにうんこに時間をかけへんねん」

「ほなルーシーはめっちゃ時間かけてうんこするから、犬はどっちかっていうと襲う方になんのかな?」

「そうやろうな。狩猟犬っておるぐらいやから。犬はもともとそういう役割で人と一緒に生活してきたからね」

 

 パドックを歩く馬たちは皆とても優雅にリズムを刻んでいた。そのリズムを刻む蹄と足首は、五百キロ近い馬体を支えているとは信じられない細さだった。太股の筋肉は隆起し、大きな背中はすでに汗をかいているのかその毛並みを輝かせていた。

「あなた天王寺さんに犬の時間の話をしたでしょ?」妻は言った。

「犬時間は大体四倍の話やね」

「それじゃ馬の時間も計算してみてよ?」

「大体の計算になるけど、それでもかまわへんのやったらええで」

「大体でええから教えて」

「馬の寿命はこの前ウオッカが十五歳で亡くなったけど、本来はもう少し長いらしいから、これも便宜上計算しやすいように二十年と考えたら三倍やね」

「三倍やね。それじゃ馬の時間のレースってどうなってるの?」

「大体やけど二千メートルを二分ぐらいやからまあ平均時速六十キロ、単純に三倍にしたら平均時速百八十キロってとこやね」

「すごいねー! 馬的には世界が三倍ぐらいに流れて、時速百八十キロぐらいで走ってる気持ちになってるんや。車のスピードメーター限界まで振り切ってるね」

「フェラーリとかやったらまだ出せると思うけど。そういやフェラーリのシンボルマークも馬やな。ゴール直前の馬はまさにフェラーリになってるんやろうね」

「どんな馬のマークなの?」妻が聞いてきた。

「あのマークは分かりやすいよ。何年か前の宝塚記念でゴールドシップがスタートのゲートでめっちゃ前足上げてしまった時あったやん? 君の言ってたやんちゃ君」

「なんか『ひひひーん』って感じやったよね」

「まさにあのゴールドシップと同じ形の馬のマーク」

「なんか解りやすい説明やわ。あれは忘れへん光景やもんね。競馬場全体が『ぎゃーー!』って叫んでたもん」

 

 僕らはパドックを離れ、阪神競馬場の東側の出口から広い公園へと向かった。公園には椅子と机が配置された簡易なテントが並んでおり、その周りを屋台やキッチンカーが取り囲んでいた。僕らは大阪の有名ホテルが出前しているというカレーとから揚げのセットを買い、テントの中に唯一残っていた座席を見つけて座った。

「美白の神様が怒るわ。六月後半に屋外で食事なんて……」妻がぼやいていた。

「こんだけ人がおったら座れただけましと考えましょう」から揚げを食べながら僕は言った。カレーが思いのほか本格的な味だった。


「ということですが、そろそろ本題です。今年は十二頭ですが、どの馬にしましょうか?」ネットで印刷してきた出馬表を机の上に置き僕は言った。

「そんなん私が分かるわけないよ。いつものようにあなたが考えて」

「まあそうなるとは思ってたけど。僕も年に一回だけの予想やから参考程度に聞いてください」

「あなたの数学理論が炸裂するんでしょ?」妻は笑って言った。

「数学で解けたら苦労はないわな。とりあえずこういう問題は消去法で対応やね」

「それは数学理論とは違うの?」

「どちらかというと大学入試センター試験の解き方に近いかな。ありえない答えから削っていく。まず削るのは倍率二十倍以上の馬。もちろんこれらの馬が来ることもあるけど、世の中の人たちの評価には絶対意味があるからね。確率論的に」僕は出馬表にバツ印をつけて言った。


「ほんと仕事しないでこんなところで無駄な能力発揮させようって。アホみたい」

「はいはい。では七頭残りました。次に削るのは海外、特に遠くから帰ってきた馬は削る。まあ海外帰りは疲れが残ってたり、勝てないケースが多いからね」僕は前走ドバイから帰ってきたレイデオロとスワーヴリチャードにバツ印を付けた。

「リスグラシューはいいの? 前走シャティンって書いてるわよ」

「それは香港やからまあ良しとします」

「シャティンって香港なの? 知らへんかった」

「あとはマカヒキもやめときます。どうもこの馬はフランスに行ってから勝てへん」

「フランス行くと勝てなくなるの?」

「そうとは限らへんけど、僕はそんな気がする。サトノダイヤモンドもフランス行ってから弱くなったし。どっちも惨敗して帰ってきたからね。闘争心が萎えたのかも。キタサンブラックは凱旋門賞に行かなくて正解やったかもね」

「他はどれを削るの?」

「残念ながらこれで終了。一番キセキ、三番エタリオウ、四番アルアイン、そして十二番リスグラシューの四頭が残りました」


「四頭から選ぶんなんて無理よ。あなたはどう思うの?」

「僕はキセキがいいんじゃないかな。逃げの馬やけど最近復活しそうな傾向にあると思う。最内枠のゲートも逃げには有利やね」

「何よ偉そうなこと言って、結局一番人気の馬を選ぶわけ?」

「みんな考えることは結局一緒なんやろうね。僕には他の理由もあるけど」

「何よそれ?」

「これ見てみ」僕は出馬表のキセキの項目を指差した。

「キセキの父親はルーラーシップや。名前にルーシーが入っとる」

「呆れた。あんだけ偉そうなこと言っといて、最後の最後に何の根拠もない話を。あなたは結局底の浅い男やねんね。そりゃ無職のノーカラーはノープランやわ」

「そんなに言うなら、君も考えてみ?」僕は言った。

 妻は出馬表に残った四頭の馬のデータを一つ一つ眺めていた。


「この中に女の子はおるの?」

「おるね。牝馬はリスグラシュー。僕が選んだ四頭に限らず、今回の宝塚記念で唯一の牝馬になるね」

「ほなリスグラシュー。間違いない……」

「ちょっと待った。やめといた方がいい。リスグラシューは削る候補の一歩手前やってんよ。香港帰りやし、最外枠十二番も微妙。人気は高いけど、牝馬は厳しいと思うよ。実際一頭しか出場してない訳やし」

「本当にあなたは玉ねぎの薄皮すらも見通せない人ね。そもそも馬はなぜ走るのか、考えたことある?」


「そりゃ競争やねんから、闘争心をむき出しにして全力でゴールを目指すんやろ」

「男はあかんね。根本的に間違えとる。馬は愛の力で走るんよ」

「愛の力って。またマンガかい。それ北斗の拳やろ」

「違う。あなたもルーちゃん飼ってるねんから分かるはずよ。あの子は楽しいか嬉しいかしかないやん。あなたの事が大好きで、私の事も大好き。だから期待に応えようと笑顔を振りまいて毎日を過ごしてるやん」

「そりゃそうかもしれへんけど。じゃあ馬はどないなん?」

「そんなん一緒やん。馬主の人が好きで、厩舎の人が好きで、調教師の人が好きで、自分の背中に乗るジョッキーを信頼して愛してる。馬たちはみんな自分の好きな人たちの期待に応えたくて走ってるんよ。『私の事を好きになってくれてありがとう。私もみんなが大好きです。だから全力で期待に応えます』って」

「それは分かるけど、そこから始まる闘争心やろ?」

「馬たちが競争しているように見えるのは、私らが競争をさせている人間やからよ。馬たちは競い合ってないの。馬たちは自分のできることを、ただひたすら愛する人に応えているだけなのよ。あなたはフランスの凱旋門賞に行ったら闘争心が無くなるって言ったけど、それは違うと思う。愛する人から遠く離れてしまって、ちょっと寂しくなって帰ってきちゃったんよ」

「まあコースとか決めてるのは人間やからな。フランスにもスタッフ全員で行ける訳では無いやろうから、解らんでもないが」

「そうなのよ。人は勝手に馬が戦っていると思っているけど違うの。馬は愛に応えているだけ。だから愛の力。愛が深い馬こそ勝つのよ」

「それでなんで牝馬のリスグラシューなん?」

「決まってるわ。女の方が愛が深い。ユリアの愛はラオウにも勝った。あの悪意あふれる世紀末でも最後に強かったのは女の愛よ」

「やっぱり北斗の拳かい! ちょっとええこと言ってる思ったけどやめとくわ」

 

 僕らは各々の予想した馬券を買いに行った。お互いに秘密にしてレース直前で見せ合うのが、僕らのいつものパターンだった。

「人が多すぎる。こっちからやったら少し前に行けるで」僕はそう言いながら、妻の手を引っ張った。

 阪神競馬場の天気は快晴とは言えないが、雨は降ってなかった。僕らはできるだけ走る馬の姿が見えるように、一階観覧場の人波をかき分けて前へと進んでいった。

「もうこの辺りにしとこうか」

 緑の芝生が見える五十メートル手前ほどに僕らは陣取った。もう少し前に行きたかったが、馬の姿はしっかりと確認できるだろう場所だった。


「あー熱い血がたぎるわー。サラブレットの激走。愛の戦い」

「戦いやなかったんちゃうん?」

「これは私の馬への愛の戦いよ」

「なんかタカラヅカみたいになってきとるで。ほな馬券見せ合いましょか」僕は自分の買った馬券を見せた。

「しょっぼっ! 一番キセキ単勝千円。完全に素人の買い方やん。ダサくて見てられへんわ」

「ほな君はどないやねん。見してもらうで……?」

 僕は妻の馬券を見て驚いた。一着十二番リスグラシュー、二着一番キセキ、馬単二万円。逃げ場のない一本勝負を挑んでいた。

「無理やろこれは! 何でこんな買い方してん! せめて連複とか、他にも流すとかあったやろうに」

「あなたにも少し乗っかったの……。キセキの中にはルーシーがいるんでしょ?」

「買ってしまったのはもうしゃーないけど、多分来ないでそれ。人に言っときながら結局君もその決め方かい!」

 

 宝塚記念のファンファーレが鳴り、阪神競馬場に大歓声が巻き起こった。はるか遠くに見えるゲートに、馬が次々と収まっていくのが見えた。

「来い来い来い、リスグラ!」出走の時が近づき、妻はすでに興奮していた。

 ゲートが開くのが見えた。再び沸いた大歓声と共に、遠くの馬たちが徐々に近づいてきた。


「キセキが来た。逃げに入ったで!」大型ビジョンを見ながら僕は言った。

 一番ゲートのキセキは内側の有利さを活かすためだろう、早々にトップに躍り出た。レースがそのまま流れて行こうとした時、最外枠十二番のリスグラシューがギアを速め、一気に二番手へ上がり、キセキの隣の内側にまで迫ってきた。


「リスグラーー行けーー!」妻は叫んだ。

 遠くに見えていた馬たちの放つ轟音が徐々に大きくなってきた。馬たちは過激な轟音を響かせながら、僕らの前をその巨体を宙に浮かべながら一瞬の勢いで通過していった。

「キセキが内側で逃げに入っとる。このままやったら行けるで」

「リスグラシューー二番手やーー行けーー!」妻は叫び続けていた。

「ちょい黙りな。モニターを見よ」

 大型ビジョンでは第一コーナーから第二コーナーまで一番手キセキ、二番手リスグラシューの姿を映し続けていたが、キセキの外側に付けているリスグラシューの方が大回りになって走行距離が長くなっているはずだった。

「リスグラシュー無理しとるんとちゃうか? この流れやったら最後にばてるで」

「リスグラシューー燃え尽きろーー!」まだ燃え尽きたらあかんところやろと思ったが黙っていた。


 第三コーナーから第四コーナーの終わりまで同じ構図が続いた。キセキは一定のペースを保ったまま一番手を快走し、リスグラシューはキセキの一馬身ほど後ろをぴったりと外につけて並走していた。

「最後のストレートや。キセキこのまま来い。リスグラはスタミナがもう持たんはずや」

「リスグラシューー耐えるんやーー!」

 

 最終ストレートに入ると内も外も関係が無くなる。一馬身程の差が付いていたキセキとリスグラシューだったが、リスグラシューがムチを入れたのか一瞬半馬身まで差が詰まった。リスグラシューはまだ力を残していると感じたが、キセキもムチを入れたのかそれ以上差を広げさせなかった。馬郡は再び僕らの前まで近づいてきた。


「キセキ! そのまま逃げ切れ! あと少しや!」

「リスグラシューー奇跡を見せるんやーー!」

 まぎらわしい声援だったが黙っていた。

 轟音を鳴らしながら目の前にキセキの巨体が迫ってきたとき、突然リスグラシューの巨体が空に浮きながら前方へと飛び出した。その巨体は一馬身、二馬身、三馬身と一気にキセキを引き離しゴールへと消え去って行った。


「なんやねんあの末脚は! 全然余裕やったってことかい!」

「リスグラシューー!」ゴールした後も妻は叫び続けていた。

「当たっとるで」僕は妻の肩を揺さぶりながら言った。

「リスグラシューー!」叫び続ける妻は僕の声が聞こえてなかった。

「ちょっと冷静になり! 君の馬券当たっとる! リスグラにキセキ。当たっとるねんて!」

「まじっすかーー!」妻は叫んだ。

「リスグラシューとキセキ。連単で当たっとる。オッズ見とったけど二十倍ぐらいや」

「どんなもんじゃーーい! リスグラシューにキセキ取ったったーー!」当たり馬券を空に突き上げながら妻は叫んでいた。

「この世界にあふれるすっべての悪意に告ぐーー! なんぼのもんじゃーーい! 愛する女は無敵なんじゃーーい! この世界はうっつっくしいんじゃーーーー!」

 タカラジェンヌのように当たり馬券を突き上げる妻に、なぜか周りから拍手が起こっていた。

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