第8話 犬の時間の数学

 その後天王寺さんと会ったのは、六月の後半なのに極端に暑い夕暮れ時だった。天王寺さんはダイソーの白い帽子を被り、青色のワンピースを着ていた。

「こんにちは天王寺さん。ミーちゃん暑そうやね」

「ルーちゃんも暑そう。もううち、ミーちゃんのためにクーラーつけとる」

「うちもルーシーのためにクーラー全開やわ。これはもう夏が終わるまでやっとかなあかんね」

 

 天王寺さんの足元のミーちゃんは、ルーシーよりはまだ小さかったがほぼ成犬に近づいた大きさだった。出会った時から換算してみると、ミーちゃんはそろそろ生後半年に近いはずだ。

「それでお母さんには言うといてくれたんかな?」僕は聞いてみた。

「言うといた」

「お母さんは何て言ってたのかな?」

「んーっとね。何か自分でダメな大人って言う人は、まだそんなダメな大人ちゃうかもって。せやから働く奥さんによろしくやって」

 この子はやはりかなり素直に伝えたのだろう。僕は苦しい笑顔をしていた。

「それは良かった。まあダメなことには変わりはない……」


「それで先生、何の先生になってきたん?」

「それね。色々考えたけど、僕は数学ぐらいしかできへんかったからね」

「ほな数学の先生」

「でも君まだ数学習ってないやろ」

「算数は得意やからええねん」

「厳密に言うとちゃうねんけどね。でも前にも言ったけど、社会をドロップアウトしている僕には、君に教えてあげられるものは何にもないんよ?」

「嘘の先生やからそれでええねん」

 

 そう言われると気が楽になったが、この頭のよさそうな子供には何かを教えてあげたい気持ちにさせられた。

「ほなちょっと犬の時間の話しよか?」

「犬の時間の話?」

「聞きたいですか?」僕は問いかけた。

「聞きたい」天王寺さんは笑顔だった。

「犬の寿命は今は大体十五年ぐらいっていうのは知ってますか?」

「知ってる。お母さんに聞いた」

「で人間の寿命が今は大体八十年ぐらいやねんけど。まあこれは国によっても違ってたりするから、計算しやすいように六十年ぐらいにしときます」

「減らすんや」

「日本は世界一長生きする国やからね。ほな人間は犬の四倍の時間を生きるわけになります。これはまああくまで大体の数字と思ってください」

 天王寺さんはうなずいた。

「人間の方が四倍生きるのは不公平な気もするけど、一つ面白い説があるんです。それは簡単に言ってしまえば、人間の方が四倍長い時間生きるけど、犬は四倍の時間を生きているから、結局同じぐらいの時間を生きるっていう話」


「四倍の時間って?」

「要は人間の一時間を犬は四時間ぐらいに感じているって言う事やね。せやから例えば天王寺さんが学校行って帰ってくるまで、まあこれも計算しやすいように六時間過ごしたとします。ほな犬は六時間の四倍で二十四時間、つまり人間の感じる一日分の時間を家で待っていることになります」

 天王寺さんは考えているようだった。

「一日お母さんに会えんかったら、嫌やない?」

「嫌や。寂しい」

「せやからミーちゃんも天王寺さんが帰ってくるまで、犬時間で一日経ってるから寂しいと思うねん。天王寺さんが帰ってきたら、ミーちゃんめっちゃ喜ぶんちゃう?」

「めっちゃ喜ぶ。ちょっとうるさい時もあるけど」

「これが犬の時間の話です」

「そうなんや」

「まああくまでこんな説があるって話やけどね。ほんまのところはわからへんけど」


「先生の数学おもろいわ……」

これは厳密に言うと数学ではないよと言いたかったが黙っておいた。ルーシーとミーちゃんは互いの鼻をすり寄せて、暑さから逃れるように公園の芝生の上に座り込んでいた。

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