第2話 無職の無色のノーカラー

 夕方六時を過ぎると、僕は妻を迎えにホンダ・フィットに乗り込んだ。向かったJR芦屋駅の南口には、側道に多くの車が停車しており、僕は何とか見つけたメルセデスとレクサスの間にある小さな隙間に車を潜り込ませた。


「あー疲れたわあ」妻の声が車の中に響いた。

「お疲れさんです……」開口一番の妻の声が耳に痛かった。

 僕は車を出し南へと進めた。国道二号線を渡ると先月まで一面の桜並木だった通りに入った。桜の木はすでに葉桜になっていたが、通りにあるオープンカフェでは女性たちが夜のサンドウィッチを楽しんでいた。

 

 大きな街路樹が立ち並ぶ鳴尾御影線へと右に曲がると、パン屋や小さなインテリア・ブティックが並んでいた。日本料理店とバーが並ぶ芦屋川の坂道を上ると、交差点にパン屋と芦屋警察の旧正門が正面に現れた。この警察署は建て替えられるまでは、警察署として日本で一番古い建物だったと子供の頃に学校で習った。今は正門のみが状態保存されている。

 

 大きなカフェが一階に入るビルの角を曲がると、阪神電車芦屋駅の高架の下をくぐり抜けた。その先の国道四十三号線のアンダーパスを通り抜けると、右手には海へと続く芦屋川の緑が広がり、左手には芦屋公園の広大な白砂に松林が延々と広がっていた。


「今日ルーシーの散歩行っとったら、まだ五月やのにテニスしてる女の人ら、めっちゃ日焼け対策しとったわ。顔面までIRAのテロリストみたいにしとるねんで?」芦屋川の方角を少し眺めながら僕は話した。

「何を言ってんの。五月でも紫外線は凄いんよ。それぐらい当たり前やで。ていうか五月も夏も関係ないで。今は二十四時間、正月から大みそかまで日焼け対策。心休まることのない女たちの愛の戦いよ! ついでに言っておくけどIRAって古いねん。今はイギリスがEUを離脱するかの戦いやん。あなたもおっさんになったね」


「イギリスのEU離脱で、今の北アイルランドも大変やで? それより夜中に日焼け対策してどうするねん。照明からも守らないかんのかい。そこまでして日焼けしたくないもんなん?」

「美白は神よ。ああ我が美白の神よ。無垢で愚かなこのおっさんの魂を救いたまえ。この愚かなおっさんは毎日仕事もせずに犬の散歩ばかりに出かけて、いつのまにか世間知らずになってしまっただけなのです。神よこの無職の無色でノーカラーなダメな大人を救いたまえ」

「はいはい分かりました……」僕は適当に答えた。


「肌のダメージは蓄積するからね。私らが子供の頃はビタミンの欠乏を防ぐために日光浴をしましょうとか言ってたけど、あれは完全に迷信やったんやからね。あーありえへん。真夏の学校のプールの授業とかありえへんわー。ついでに夏の甲子園もありえへんわー。野球してる選手の子らはええけど、応援団とかチアリーディング部の女の子とかありえへんわー。美白の神よ、私は切に願います。彼女らの肌から紫外線を悪魔的にカットしてくれる、すばらしいクリームを彼女らに与えたまえ」


「その君の言う悪魔的なクリームって多分もうあるんちゃう? 百回大会で外野が有料になる前は、夏の大会僕らも結構よく見に行ってたやん。応援団の女の子らみんな綺麗にしてたで。ていうか神に悪魔を願ってどうすんねん」

「神よ。この物事の表面の玉ねぎの皮ぐらい薄い場所しか見ることのできない、三十五歳のおっさんを救いたまえ。たとえ高校時代の夏の青春のひとページを、楽しく校歌を歌って乗り切ったとしても、肌のダメージは確実に蓄積されている。そのダメージは二十代、三十代になると、まるで過去に犯した過ちかのように現れ、彼女たちを苦しめることになる。そういった彼女らの将来への恐怖を全く想像することのできない、この世間知らずの無職でノーダメージなおっさんを救いたまえ」


「あのねえ、そんな言いますけどね、それやったらもう小学生ぐらいからみんな帽子被って、日傘射して、日焼け止めクリームを塗りたくっているって事かい?」

「我が美白の神よ。そんな当たり前のことを今さらまるで大げさなことの様に語るこのダメ人間を救いたまえ」

「分かりました……」僕はそれ以上言い返すのをやめた。

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